7.貴方のこれからの生に、幸多からんことを
――きらびやかな星の天蓋と、穏やかな月光に抱かれて横たわるヴィアーハ湖。
その輝きを映した水面は、周囲の闇さえ引き立てる、まさにこの世のものとは思えない美しさだった。
磨き抜かれた鏡を思わせるその水面は、しかしいかなる宝鏡でも持ちえない、水であるがゆえの途方もない深遠さと、そして限りない優しさをもって広がっている。
天界への扉だという言葉を否応なく信じてしまうほどに、その光景は確固たる神秘だ。
エリーゼから降り、カマエルたちとともに湖岸まで歩いてきたマキもやはり、しばしその光景に我を忘れた。
あらゆる感情を洗い流された気分で、ただ無心に湖面に見入る。
「……マキ?」
「え? あ、ああ、ゴメン。
あんまりキレイだから、ちょっと見とれちゃって……」
「あら。あらあら!
ンもう、今さら、という気もしますけれど、ここは素直にお礼を――」
「もちろん、アンタのこと言ってるんじゃないから」
優雅に目を伏せたカマエルに、冷ややかに、かつきっぱりと釘を刺してから……。
改めてマキはロイの方へと向き直り、しゃがみこんだ。
「ロイ。何て言うか、色々ごたごたしちゃったけど……。
とりあえず、お疲れさま」
「……うん。
ホント、死にかけて魂だけになったハズなのに、よっぽどいっぱい死にそうになった気がする」
ロイは無邪気に、いたずらっぽく笑った。
「あ、あはは……ゴメン。
もっとスマートに行ければよかったんだけど」
「ううん。
……こんなこと言っちゃダメかも知れないけど、楽しかったよ、とっても。ホントに」
「――ん。そっか、ありがと」
マキも笑みを返し、ロイの頭をくしゃりとなでた。
「ぼくも……ありがとう。
ぼくを――パパを、助けてくれて」
「ううん、あたしは手助けをしただけだよ。
……言ったでしょ? 奇跡だって、自分で起こしてやるってぐらいじゃないとダメだって。
ロイに強い思いがあったから、だからきっと、あたしもやり遂げられたんだよ」
「……お姉ちゃん……」
仲の良い姉弟を思わせる二人。
その仲を邪魔するようで、役割を果たすときが来ているにもかかわらず、どう声をかければいいのかと戸惑いながら見守るサリエル。
それを察したのか、カマエルがごく自然に、長身を屈めてマキたち二人の肩にそっと手を置いた。
「……さて、申し訳ありませんけれど、そろそろお時間ですわ。
――サリー?」
「あ、はい!」
「天界から元の身体まで、しっかりと彼をエスコートしてあげなさい。よろしくて?」
そもそもそれが役目なのだ。
サリエルはカマエルに助けられたことを少しばかり恥じながら、弾かれたように一も二もなくうなずいた。
その妙にかしこまった様子を楽しげに確認してから、カマエルは改めてロイと顔を合わせる。
そして、いかにも天使らしい和やかな笑みを浮かべた。
「マキの言う通りです。
もし貴方が悪魔の恐怖に屈したり、心の底から諦めたりしていれば、マキがどう頑張ろうと、貴方は悪魔に捕らわれていたでしょう。
だからこの結果は、あなた自身が勝ち取ったものでもあるのです。
――ロイ・ドレフィス。本当によく頑張りましたね。
大いなる父の御名において、我らは責任をもって、貴方をあるべき場所へと帰しましょう」
「あ、ありがとうございます、天使様っ」
「ですけど……一つ、貴方に断っておかなくてはならないことがあります」
カマエルは言葉通りに、ロイの前で人差し指一本を立てる。
「貴方が今夜、魂だけの存在となって経験したことは、申しわけありませんけれど、すっかり忘れていただきます。
わたしたち天使の実在とか、あまり公にもできませんもので」
「そ、そうなんですか……」
残念そうにうつむくロイ。
すると、マキがその頭にぽんと手を置いた。
「うん……あたしも残念だけど、しょうがないよ。
――それにさ、この夜の記憶が消えるからといって、生きよう、生きたい――そう決めた強い意志までは、消えたりしないでしょ?」
マキがしたり顔を向けると、カマエルは大きくうなずいた。
「もちろん。
――それはロイ、貴方の魂そのものの強さであり、輝きですもの。
しっかりと抱き、胸を張ってお行きなさいな」
「は、はいっ!」
「ロイ・ドレフィス。
貴方のこれからの生に、幸多からんことを」
カマエルの祝福の言葉を受けて、ロイはもう一度、深々と頭を下げる。
そして「こちらへ」と差し伸べられたサリエルの手を取り、導かれるままに湖上へと足を踏み出した。
「お姉ちゃん――」
サリエルに引かれて数歩、美しい波紋を残しながら水上を進んだところで、ロイは振り返る。
「ありがとう! ホントに、ホントにありがとう!
ティータにもよろしく、あんまりケンカとかしちゃダメだよ!」
「うん。――またね、ロイ!」
手を振るマキに、これでもかというぐらいに大きく手を振り返してロイは、サリエルに導かれるまま、湖の中央へと向かった。
やがて湖面から、星空へ向けて架け橋のごとく、一筋の光の柱が立ち上る。
それは辺りを煌々と照らす暖かな輝きをもって、ロイを包み込んでいった。
そして、まばゆい光の中、サリエルが一礼したのを最後に、それは収束し――長く尾を引いて、天へと昇ってゆく。
そんな光の残滓も、やがて一粒まで消えてなくなり、湖がまた元通りの落ち着きに立ち返るまで――マキは、目を逸らすことはなかった。
そうしてしばらくしてのち、視線はそのまま、マキはおもむろにカマエルを呼ぶ。
「……ねぇ」
「なにかしら?」
「死について……あたしは普通の人より多くを知ってると思う。
何たって、それが本人にとっては苦痛どころか、本当は優しいものなんだ、ってことまで知ってるんだから。
けどさ、やっぱり人の死は――重いんだ。
それはつまり、人の命そのものと、その命との繋がりっていうのが、いかに大きくて、重いか……ってことだと思う」
「……ええ」
未だ湖に目を向けたまま、独り言のように語るマキに、カマエルは柔らかく相づちを打つ。
「でも……でもね。ママのときがそうだった。
初めはあんなに重いのに、持っていられないぐらい重いのに、少しずつ、少しずつ軽くなって……いつの間にか、以前みたいに重いと思わなくなってるの。
もし仮に、今夜あたしが失敗して、ロイが助からなかったら……同じようなことになってたのかな。
重さを忘れるって――投げ出しちゃう、ってことなのかな……」
マキの無垢な子供を思わせるつぶやきに、カマエルは微笑みながら首を振った。
「まさか。本当はもっと簡単なことなのですわよ?
軽くなっていくのはね、マキ。貴女が強くなるからなの。
命は――死は、何をムダにすることもない。
その重みを受け止めた人を、少しずつでも強くしていくの。
だからいずれ……背負ったそれを重いとは思わなくなる。
……ただ、それだけのことなのよ」
それはまさに、たとえるなら子供をさとす母親だった。
ゆっくりと一言一句、丁寧に、マキの心まで染み通らせようとするように、カマエルは言葉をつむぐ。
聞き終えたマキは、ようやく首を動かし、驚いたとばかりにカマエルを見上げた。
そして、複雑な心境そのままの微苦笑を浮かべながら……くるりと、湖に背を向ける。
「参ったなぁ……。
悔しいけど今、ほんの少し――本当にほんの少しだけだけど、アンタのこと見直しちゃったよ」
「うふふ。そこはほら、わたしもそれなりに地位のある天使ですもの。
たまにはそれらしいことを言わなくては……ねぇ?」
「――たまに、でいいわけ?
まったく、天使ってのもお安い仕事だよ……べらんめー」
マキは悪態をつきながら、エリーゼの方へと戻っていく。
そして――
「……マキ、今日は本当によくやってくれました。
あとはゆっくり、お休みなさい」
カマエルの挨拶に、面倒くさそうに背中越しに手を振って、運転席に潜り込む。
「……きゃおー、ホンっトお疲れさまでしたぁ、あねさまー!
エンジンはイカレる寸前だわ、ボディはボロボロだわ、神力は使いまくるわで、あたしももうヘっトヘトでー……」
「あたしもよ。
もういっそ、このまま寝ちゃいたいぐらい」
目元をもみほぐしながらマキがそんなことを言っていると、目覚ましのようにスマートフォンが鳴った。
億劫そうにホルダーから取り上げるマキ。
『……マキさん? ご用事はまだかかりそうですか?』
「ああ……カタリナ? まだ起きてたの?
あー、うん、何とか用事は済んだから、今から帰るけど……もう遅いんだし、待たなくていいから、先に寝てなさい」
『あ、でも、お腹が空いてるだろうと思って、お夜食におじや作りましたから……。
今、ソウ君も食べてくれてるところですし、良かったらどうかな、って』
カタリナの可愛らしい声の向こうから、切れ切れに、あったかいタピオカ入りココナッツミルク、という不穏な単語が聞こえてくる。
しかし――まあいいか、とマキは思った。
「……あたしの神力も、これでいっぺんに回復ってわけなのかね」
『……え? どうしました?』
「んーん、なんでも。
ちょうどお腹空いたなーって思ってたところだから、すぐ帰るよ」
『――あ、はい、お待ちしてますねっ』
通話を切り、スマートフォンをホルダーに戻すと、マキはぐーっと伸びをした。
「ま、疲れを取るには甘いモノが一番ってね。
――さて、帰ろうか……ティータ!」
「がってんです、あねさまー!」