6.べらんめーっ!
「………これは」
エドガーの働くアニアドの工場に、知り合いを通して応援を頼んでいた警察よりも早くたどり着いたアーサーとフレデリックは、勢い込んで突入しようとするも……。
敷地のすぐ外に広がっていた光景に、絶句して足を止める。
ブースとその一味らしき連中は全員倒れ伏し……。
ただ一人エドガーだけが、呆然とした様子で座り込んでいたのだ。
エドガーがそれをやったとも思えず、しかしともかく無事で良かったと、二人はそばに駆け寄る。
「エドガーさん、大丈夫ですか?」
「! し、神父様……?
それに――か、会長……!?」
「うん、無事なようだな。本当に良かった」
フレデリックはうなずきながら、エドガーの肩を叩く。
「ど、どうしてここに……?」
「ええまあ、とあるツテから、そこの悪党が良からぬコトを企んでいるようだと、情報が入りましてね――」
アーサーは倒れたままのブースを見やる。
「エドガーさん、あなたはずいぶん若い頃、ブースの世話になっていたことがあるらしいですね。
しかも、重い病気のお子さんがいる。
奴にとってはさぞかし利用しやすいだろうと思って、あなたの勤務先のことをそこの会長さんに尋ねてみたら……なんと、新開発の特殊繊維のデータが保管されているそうじゃないですか。
これはもしかしたらと思っていたら、あなたは今日は大事な仕事があるからと、丸一日病院に顔を見せていなかった。
……それで確信をもって、こうしてあなたを助けようとやって来たわけです」
エドガーは無言でアーサーを見上げていた。
「もっとも、事前に、ブースとあなたが接触した確証がどうしても得られなかったので、他の可能性を探るうち、こうして後手に回ってしまったのですから……あまり偉そうなことも言えませんけどね」
「……ちなみに私は、君を助けるとともに、どうしても直に謝りたくてな」
片膝をつき、視線を合わせてきたフレデリックに、エドガーは目を丸くする。
「会長が……わたしに?
いえ、それより、わたしをご存じなんですか?」
フレデリックは笑顔でうなずいた。
「もちろんだとも。
……この工場を訪れるとき、君はいつも心を砕いて丁寧な案内をしてくれたな。
それに、いつぞや休憩の折りに煎れてくれたコーヒーは、私が何気なく口にした好みをさりげなく反映してくれていた。とても美味かったよ」
「会長……」
しかしだ、と一転して低い声でつぶやくフレデリックの顔は険しかった。
「私は、そんな君が、病気の息子さんを男手一つで、苦心しながらも立派に育てていることを、そこのアーサー君に聞くまで知らなかった。
名前と顔を覚えている程度で、君のことを分かったつもりになっていたんだ。
……私自身、同じ苦労をした身として――そしてもちろん会社としても、もっと助けになれただろうにな。
それにそうしていれば、君がこんな事件に巻き込まれることも防げたかも知れないわけだ。
そう考えると……我知らず、傲慢になっていただろう自分が恥ずかしい。
……本当に、すまなかった」
「か、会長……顔を上げて下さい、そんな……。
そもそも今回のことも、もとはと言えば、わたしが若い頃、こんな連中と付き合いがあったことが原因なんですから……」
「まったく、その通りだぜ……」
エドガーの言葉に答えたのは、気絶していたはずのブースだった。
まだ身体が動かないのか、倒れ伏したまま、顔だけを上げてせせら笑う。
「エドガー、てめえは俺たちと同じなんだよ。
――そら、約束通りの報酬だ、息子のあとを追いやがれ……!」
身体の下から素早く手を伸ばすブース。
その手には、黒光りする拳銃が握られていた。
しかし――まるでその動作を待っていたかのように、恐ろしいほどに速く正確に、その手を踏みつける足があった。
「おっと、失礼」
――アーサーだ。
ことさら強く、踵で一点を踏み抜いて拳銃を手放させると、彼はそれを遠くへ蹴り飛ばしてしまう。
恨みがましい目でそんなアーサーを見上げ、ブースは何かに気付いたようだった。
「て、てめえは、まさか……!
ま、マリーゴールドの……っ!?」
「ええそう、若い頃は大変ヤンチャだった神父さんですよー。
――だもんで、僕ならまだしも……エドガーさんのように、若気の至りでほんのちょっと間違いをやらかしてしまっただけの人を、あなたみたいな根っからの悪党と一緒にするのはご勘弁いただきたいのですが」
「……え? 神父様……」
驚くエドガーの肩に手を置き、フレデリックは無言でゆったりとうなずいてみせる。
「そ、そうか……てめえが手引きして邪魔を……!
へへ、だが残念だったな、目的のメモリーはこっちの手の内なんだぜ? アレを――」
「どうなさろうと、ご自由に。
そのメモリー、どうせ空っぽですから」
ポケットに入れたままのメモリーを取引材料に使おうとしていたブースは、アーサーのあっさりとした発言に動きを止める。
「昼間のうちにアーサー君から、データが狙われている可能性を指摘されていたのでな。
密かにすり替えておいたのだよ。
大っぴらに移動したりすれば、お前たちがエドガー君に接触していた場合、襲撃計画をもらしたと、エドガー君や息子さんに危害を加える可能性があったからな」
「……件の特殊繊維は、宇宙や深海のような、過酷な環境での活動をサポートする目的で開発されたと聞きます。
そしてそうしたものは得てして、軍事転用すると実に有益だったりするものです。
だからあなたは、それを利用して莫大な利益を得ようとする死の商人にデータを流そうとしていたのでしょう?
……蛇の道は蛇。こちらの方は、以前よりあなたが接触していたという確証が、きちんと得られていますよ」
「く、くそ、若造が……なめやがって……!」
「なめる?……なめてるのはむしろ、あなた方ヤクザ者の方ですよ。
カタギの方々が日々を精一杯、一生懸命生きているのに比べればはるかに――世の中というものを、ね」
歯ぎしりするブースに、かがんで顔を近付け、アーサーは冷たい声でそう言い放った。
かと思うと――
「ああ、それから――エドガーさん。
この男は、ロイが亡くなったように言いましたが……」
今度はエドガーに、穏やかな笑顔を向ける。
「ロイなら、まだ頑張っていますよ。
……今こそ、父親のあなたが応援に行かなくては」
「ほ、本当ですか! ロイは、ロイはまだ……!」
完全に無くしたと思っていた希望を示され、エドガーは一瞬顔をほころばせるが……すぐにそれを引き締め直した。
「し、しかしわたしはブースたちを手引きして……。
警察できちんと話をしないと……」
「それについては、私とアーサー君に任せなさい。
君は一刻も早く、息子さんのもとへ」
フレデリックは車のキーをエドガーに投げ渡すと、乗ってきた車の置いてある方を指差す。
エドガーは、渡されたキーとフレデリックたちの顔を、戸惑った様子で見比べていたが……。
やがてフレデリックに改めて「さあ、早く」と促されると、大きく一礼して走り始めた。
……愛する息子の名を、何度も呼びかけながら。
* * *
――もはやその戦いは、尋常ではないと形容するような領域さえも、大きく踏み越えていた。
果たして、普通の人間が観客としてそこに存在したところで……走り去る2台を、車と認識できるかどうか。
たとえ車が通るとあらかじめ聞いていようと、まず、物体と捉えることも難しいに違いない。
突風に吹かれ、爆音を感じ、白煙を匂う頃にはすでに――閃光と化している彼らは、そこにはいないのだから。
そしてそれは、助手席のロイでもさほど変わらなかった。
ロイの視界に入る車外の光景は、すでに吹き飛ぶという表現すら適当ではない。
走行音さえ遠く引き離され、たとえるなら、間がさんざんに抜け落ちた出来の悪い動画だった。
動態視力などとても追いつかない光景は、連続性すら失われ、まるで脈絡のない記憶をたどっているかのようですらある。
当然、ヘッドライトの光は前方の道行きを照らし出すには遅すぎ、現実味を奪うことで、かえって恐怖を覆い隠しているようにも感じる。
だが、行き過ぎた速度感はむしろそれを麻痺させるとしても……人の想像の域を超えた世界に、現実的な恐怖が身を潜めようとも。
幻覚のただ中にいるような、足下のおぼつかない不安感は決して消えず、本能は自衛のため、目を閉じるように訴えている。
しかし――ロイは、決して目を逸らそうとはしなかった。
この人智を超えた光景こそ、マキとティータが自分のために戦ってくれている何よりの証拠であり、それを見届けなければならないと心に決めていたからだ。
そんな想いにも後押しされ、マキは自らのもてるすべてを、ただ『走る』という一点のみに集約する。
ヘッドライトの光さえ振り切ったスピードの中、しかし彼女は破綻させることなくエリーゼを操り続ける。
――彼女自身にも、その明確な理由は分からない。
ただ、彼女には、道が――己の行く先が、はっきりと『視えて』いた。
視えるがまま、圧倒的に増しているスピードをそこに沿わせ、流し込み、さらに先へと導くことに専念する。
後方からはそこだけが変わらない景色であるように、未だにバイパーが追従し続けていたが、いつしかプレッシャーの襲い来る方向は後ろではなく、前へと移っていた。
ただ速く――もっともっと速く!
もはや争っているのは、マキとサミアのその意志だけだった。
車そのものがかろうじて彼女らについてくるだけで、エンジンの鼓動もタイヤの悲鳴も排気音も、何もかもが置き去りにされる。
ヴィアーハ湖まではもういくらもなく、大勢は決したかに見えた。
しかし――。
「――――っ!」
その最後も最後、あとは直線を駆け抜けるのみという大詰めに至って……エリーゼがいきなり失速する。
「きゃお……っ! ち、力が、尽きますぅー……っ!」
「頑張って、もうすぐそこだから!
あと少し、もうちょっとだけ踏ん張れッ!!」
マキが叱咤し、ティータも、エリーゼそのものも、それに応えようと歯を食いしばって前へと足を踏み出す。
再び、速度計が上がり始める。
だが――この状況下にあって、それだけの失速はもはや致命的だった。
毒蛇は今この時とばかり、道路側面の崖の傾斜を利用して――。
エリーゼの前を塞ごうと、一気に飛びかかる。
「しまっ――!」
何とか着地するまでに下をくぐり抜けようとマキは右足に力を込めるが、そもそもすでにアクセルは限界まで踏まれている。
これ以上の加速の余地などあるはずもなかった。
難なく前方へと躍り出たバイパーは、とぐろを巻くように2回、3回と回転し……今度こそ完全にエリーゼの進路を塞いだ。
崖の斜面へと逃れようにも、時すでに遅く――。
「くぅ……っ!」
マキはこれまでのアクセルと同じぐらいの強さで、ブレーキを踏みつけた。
タイヤの接地力を失ってスピンするエリーゼは、勢いを殺しながらもそれが最後の抵抗とばかり……横腹を見せるバイパーに、自らも横付けする形で弱々しくぶつかって――。
そして、停まった。
置き去りにされていた諸々の音は、追いつくどころか追い越して過ぎ去ったかのようにかき消え――辺りにはようやく、夜の自然にふさわしい、穏やかな静謐が舞い降りる。
(もう少し……! あと……あと少し……だったのに……っ!)
「べらんめーーーっ!!」
マキはハンドルを握ったまま顔を伏せる。
ともすればそこへ思い切り額を叩きつけたい衝動さえあった。
ちょうど隣り合うように停まった、窓ガラスたった2枚を隔てたそこの運転席に、勝者である悪魔がいるかと思うと……悔しくて悔しくてたまらなかった。
……そうしているうちに、どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、窓をノックされたマキは求められるがまま窓を開け、ゆっくりと顔を上げる。
こんな状況でも、バイパーの運転席にいたのが、どこかで見たような……しかも同性ですらハッとするほどの美女となると。
悪魔という言葉からの先入観をもっていた彼女は、驚かずにはいられなかった。
しかしそれも一瞬のこと、悪魔なのだからと思い直し、一体どんな言葉を投げかけてくるのだろうと身構えたマキに、悪魔は――サミアは。
口元に微かな笑みを浮かべながら、予想だにしない台詞を口にした。
「見事な走りだったな。――お前の勝ちだ」
「…………え?」
相手が悪魔だということも忘れて、きょとんとするマキ。
サミアはその反応を予測していたらしく別段驚きもせず、見てみろとばかり、今まさに2台が走ったばかりの道、その後方を指し示す。
そこには――。
蛍光塗料で書かれたかのようにほんのりと輝く、道路を横断する一本の太い直線と、『GOAL!』の文字があった。
「……へ? こ、これってどういう……」
「そのままの意味だ。
現在天界の扉となっているのはヴィアーハ湖だが、その周囲一定距離になると完全に天界の勢力圏内となる。
つまり……カマエルのヤツが書いたあのふざけた線からこちら側では、もはや、私と言えどもその魂に手を出すことはできないということだ。
――まったく、人間であるお前はともかく、私にはその境界線が感覚として把握できたはずだというのに……」
サミアは髪をかき上げた。
指の間からこぼれる金髪は、まるで整えられたばかりのように艶やかに、優雅に、闇の中を踊り、自嘲的な表情さえもこれ以上なく美しく彩る。
「つい、熱くなりすぎたようだ」
「……まったくですわねー」
唐突に割り込んでくるのんきな声。
いつの間にやってきたのか、バイパーの鼻先に、カマエルとサリエルが浮かんでいた。
「ゴールを越えてからカッコ良く抜いたって、なーんの意味もありませんわよ~っと」
挑発するようなカマエルの物言いに、サミアは顔色を変えたがそれも一瞬のこと。
激昂するでもなく、馬鹿馬鹿しいとばかりに視線を逸らす。
「フン。だから今そう言っただろうが」
その時の表情は不機嫌そのものだったが……。
少ない空間を利用して見事なターンをし、バイパーの鼻先を元来た方角へと向けたときには、すでにそれは先程までの、どこか満足したようなものに戻っていた。
そして……
「……ではな。
次はこうはいかん、覚悟しておけ」
微笑混じりにそうマキに告げると。
いきなり崖の斜面を駆け上がってエリーゼの後方へ回り込み、そのまま気持ちよさそうな音を響かせて闇の中を走り去っていった。
「まーったく、可愛げのないこと。
もっとジタバタくやしがってくれたら楽しいのに」
「……それじゃ足りません。
全身の毛穴から血ヘドぶちまけて悶死してくれるぐらいでないと」
バイパーの背を見送りながら地に降り立ち、いかにも惜しいとばかりに指を鳴らすカマエル。
そのとなりで、物騒なセリフとともに今にも地面に唾を吐きそうなほどに顔をしかめていたサリエルは……。
改めてマキの方へ向き直ると、一転、無邪気な笑顔でペコリと礼儀正しく頭を下げた。
「……マキさん、ご苦労様でした」
「サリーちゃん。あたし……勝ったの? ホントに?」
マキの問いに、サリエルはゆっくりと、大きくうなずいて応える。
「はい。
正真正銘、あなたの勝ちです、マキさん」
「そっか――勝てたんだ。守れたんだ。
……そっか……! よかったぁ……っ!!」
それでようやく呼吸を許されたかのように。
マキはずるずるとシートに身を沈めながら、魂まで外に出てしまいそうな、大きな大きな安堵のため息をついた――。