4.まったく、つまらん幕切れだ
「ふむ……」
エリーゼが滑り降りた崖下の道へとやって来たサミアは、いったんバイパーを停め、怪訝そうに一つ唸った。
遠ざかるエリーゼの気配に、違和感を感じていたのだ。
「……走りが違うな」
遅い、というわけではない。慣れた走りではある。
だが、クルマの性能を把握し、限界まで使い切ろうとするような、攻めの鋭さが感じられない……。
「単純に、車体がダメージを負ったせい……というわけではなさそうだが」
道路脇に目を向ければ、崖から転がってきたらしい岩の破片が散らばっている。
その中に砕けたガラスらしいものも混じっているのを見れば、その岩がエリーゼに激突したことは想像に難くない。
だが、走りの違いはそれが原因でもないようだとサミアは瞬時に断じる。
いかに天使が手がけた聖者仕様車だろうと、物理的に大きな衝撃を受けて完全に無事というわけにはいかない。
普通の機械のように、たとえば配線が切れてまったく動かなくなる、といった状況にはそうそうならないが……。
代わりに、それこそ生命体のように、ダメージそのもので足が鈍る――ということはあるのだ。
加えて、ここへ来るまでの『疲労』もそれなりに蓄積していることだろう。
全体的な性能が低下し始めてきている可能性はある。
しかし、サミアが感じたのはそうした単純な性能低下によるものではなかったのだ。
「妙な気配の干渉もある。
天使が関わってはいるようだが……」
考えを巡らせながらサミアは、改めて岩の破片に、そして道路のタイヤ跡に目をやり……やがて答えに思い至ったようだった。
「なるほど……急場しのぎといったところか」
エリーゼが逃げている道の先を見つめながら、サミアはため息混じりにゆっくりとアクセルを踏み込み直す。
「ゴーストに導かれるゴーストキャリアー、とは。
冗談としてはよくできているのかも知れないが……終わりだな。
――まったく、つまらん幕切れだ」
* * *
ああ……なんか揺れてる。揺られてる。
右に、左に、身体がもっていかれる。
エンジンが吼えてる。タイヤが鳴いてる。
哭きのギター、ブラストドラム、テクニカルなベース――そして、ハイトーンボイス。
そんな極上のメロディそのもののサウンドが、身体を包み込んでる。
カッコ良く弾いてる、叩いてる、歌ってる、叫んでる。
身体から、耳から……心に響いてくる。
……懐かしい感覚だ。
いつだったかな、こうやって、ただその感覚に身を任せてたのって……。
「ほーら、ぎゅーんって行くよー、マキ!」
!……そうだ。ママだ。
ママが運転するエリーゼに乗ってたときだ。
ママは、優しくて、清楚で、凜として……でもときどきおちゃめで。
特に、パパからの贈り物のエリーゼを運転するときは、本当に無邪気で、子供みたいで。
それで……すごく、運転がうまかったんだ。
身体が弱くて、自分じゃあまり動き回れない――そのくせおてんばなあたしのために、こうやってよくエリーゼで風を切って走ってくれた。
「きゃおー!」
ああ……そうだ。
あたし、ママがドリフトとかしてくれると、そんな風に喜んだっけ。
「きゃおー!」
……そっか。じゃあこの口癖、あたしのがうつったんだ。
覚えてたんだ、エリーゼが。
ママとあたしが、いっしょに楽しく乗ってたこと。走ってたこと。
「きゃおー!」
……え? 口癖? 誰の?
あれ? これ、あたしの声じゃない。
あたしじゃない。……あれ?
「……マキ……」
ママ? あれ……おかしいな、あたし、運転席の方に座ってる?
あれ……? これって……。
「まだ寝ぼけてるの?
ホントに、寝起き悪いんだから……わたしに似て」
* * *
「なんだアレ、ホントにバイパーかよ、絶対データとかの設定間違ってるよな……!」
画面にかじりつきで、必死にコントローラーを操作しながら、ソウはまたグチをもらしていた。
ミスらしいミスも無く、彼が操作するエリーゼは、相当に良いタイムで峠道を駆け抜けているはずだった。
初めてのゲーム、初めてのコース、初めてのクルマ……。
初めて尽くしのわりには十二分に上出来だと、自分で納得できるほどの走りだ。
しかし――追いかけてくるバイパーは離れない。
いや、それどころか、こちらが有利なはずのコーナーを抜けるたび、その差が目に見えて縮まってくるのが分かる。
……一瞬でも気を抜けば、丸呑みにされる――。
ゲームの中のことのはずなのに、ソウはそんなプレッシャーに冷や汗すら感じていた。
いよいよもって、1週間前の姉が置かれた状況と今が被って見えてくる。
「こんなのをリアルでやってたとか、すげえな、姉さん……」
改めて姉の胆力と技術に感嘆するソウ。
しかしそこにあるのは、自分では無理だという諦めではなく、自分だって何とかしてやる、という闘志だ。
それを、熱くなりすぎて失敗しないよう、冷静にと落ち着かせながら、コンマ1秒でもタイムを縮めるべく操作へと集中させる。
……結論から言えば、そうした意識は彼自身驚くほどうまくいっていた。
相手がじりじりと近付くプレッシャーにさらされていながらも、研ぎ澄まされた感覚が状況を正確に見極め、冷静沈着な指の動きが淀みなく最適な操作をすることができていた。
しかし――それがアダとなった。
彼は、山道らしく続けざまに襲い来るコーナー、その一つ一つを最速で抜けることに集中するあまり、コースの先の先の特徴までは把握しようとしていなかった。
だからこそ見過ごしてしまったのだ――。
彼がたどり着いたそのコーナーが、1週間前、バイパーがジャンプからガードレールを蹴りつけるというムチャクチャなコーナリングを繰り出し、エリーゼを事故に導いた鬼門であることを。
「! ここ……まさか!」
コーナーの急角度に合わせ、セオリー通りに大きく減速したところで、ようやくソウは気が付いた。
ハッと目を向ければ、ゲーム画面上方のバックミラーには、怒濤の加速で距離を詰めるバイパーの姿が映る。
そして――。
ついに牙を剥いた毒蛇は、そんなハズがないと必死に頭の中で否定するソウのエリーゼを飛び越え……。
彼の記憶そのままの常識外れのコーナリングで、前方の道路へとアスファルトを蹴立てて着地するのだった――。
* * *
「きゃおー、大丈夫ですロイー、その調子、その調子ですー」
「う、うん……!」
緊張にこわばった顔で、ティータの声援にあいまいにうなずき返すロイ。
少し前を先行する、助っ人が操っているという、ぼんやり光るエリーゼの幽霊のような存在に食らいついていくことで必死な彼には、話しかけられたところでその半分もまともには聞こえていない。
しかし、それは功を奏しているとも言えた。
前を行くゴーストの走りをトレースする――。
ただその一点に意識を集中している分にはじりじりと近付くバイパーが放つ、毒のような圧迫感にさいなまれることはなかったからだ。
そこへもともとの覚えの良さも手伝って、どっぷりと集中しながらのロイの操作はまたたく間に上達していき、今では呼吸を合わせているかのようにゴーストの走りに追随できるほどになってきていた。
「このまま、このまま……!」
さすがに実車を操作しているのだ、慣れてきたからと言って緊張がなくなるわけもなかったが、だからこそ、逆に油断する余裕もなく、前方のゴーストを信じ愚直なまでにその走りに食らいついていく。
「がんばれー、がんばれー……!」
見守るティータからしても、ロイの頑張りは想像以上のものだった。
初めこそエリーゼの挙動修正に彼女は少なからずそのチカラを使っていたのだが、今では本当にサポート程度でしかない。
これなら、目覚めたマキに交代するまで保たせられると、運転席でぐったりしている当のマキをちらりと見て安堵したティータは――しかし視線を前に戻した瞬間、息を呑んだ。
彼女の――エリーゼそのものに刻みつけられた痛みの記憶が、雷光のごとく閃く。
前方に迫るのは、1週間前、事故へと追いやられた因縁のコーナーだった。
「……ロイ――っ!」
ティータが注意を促そうとするも、すでに前を行くゴーストは、真っ当にコーナーを曲がるための減速に入っていた。
当然、その走りを追うことに集中しているロイも、それにならってブレーキを踏もうとした――その瞬間。
「だめ、ロイ! アクセルっ!!」
横合いから声が飛ぶ。
「――ッ!!」
それに反応して、アクセルから、ブレーキの擬似ボタンへと向かっていたロイの指が、反射的にアクセルに戻って押さえ直した。
同時に――がばっと身を起こしたマキが、ハンドルへとしがみつく。
「ティータ、操作をこっちに! すぐ!!」
「りょーかいですーっ!!」
待っていましたという言葉の代わりに、ティータは笑顔と敬礼でマキに応じた。
「……べらんめー、二回も同じ手を食らってたまるかってのよ……っ!」
やはり一向に減速の様子を見せないバイパーをミラーで確認し、マキは唇をなめた。
一瞬、アクセルをゆるめる。
間合いが一気に詰まり、バイパーが――あの日のように飛ぶ。
一方、少し速度を抑えたエリーゼは、急な下りを飛ぶことなく、そのまま地を駆ける。
「翼があるのは――悪魔だけじゃないッ!!」
改めて、ガツンとアクセルを限界まで踏み込むマキ。
加速し直したエリーゼは、バイパーが今まさに、方向転換のために蹴り込もうと落下してくる傾いたガードレールを踏み台に……一瞬早く、闇の中へと真っ直ぐに飛び出していた。
――直後、バイパーがガードレールを蹴る激しい金属音が火花を散らす。
すんでのところで獲物に逃げられ、空を噛んだ大蛇の牙さながらに。
「きゃ……おー……っ!」
口を開いた崖を跳んで渡る――毛が逆立つようなその浮遊感に、ティータが声を震わせる。
ロイも息を呑む。
マキも、背筋を伝う冷や汗を感じながら、しかし……視線は着地点を捉えていた。
「……着地するよ!」
先のコーナーから、大きく山肌に沿って回り込んだ先の道路……。
ギリギリ届くと踏んだその場所に、狙い通りエリーゼは着地した。
衝撃で一度車体が跳ねるも、何とかスピンすることはなく、勢いを保ったまますぐに進行方向へと走り始める。
「いよっし……!
人間をナメるんじゃないわよ、ってね……!」
側頭部の傷口周りをぐいと乱暴に袖でぬぐうと、ちょっとしたストレートの間に、ほどけかけていたリボン代わりの手拭いを、手早く結び直すマキ。
「にしても……ゴメンね、あたし肝心なところでダウンしちゃって。
でもって――ありがとう、二人とも。代わりに頑張ってくれて。
ちょっと朦朧としながらだったけど……二人が頑張ってくれてるの、ちゃんと見えてたよ」
前を見据えたままそう言って照れ笑いを浮かべるマキに、ロイとティータも、顔を見合わせて笑顔でうなずき合う。
「あ、でもあねさまー。
がんばったのはわたしたちだけじゃないですよー?」
「ん、そうなの? じゃあ誰が――」
尋ねようとして、マキは素早く肩越しに後ろを振り返る。
まだそこに姿は見えないが、山間に響くバイパーのエンジン音が、明らかにその色を変えていたのだ。
――怒号。そして、哄笑。
空気どころか、山そのものまで震わせんばかりのその爆音に、マキが抱いたのはそんなイメージだった。
「……どうやら、本気にさせちゃったみたいね」
自身も唇の端を持ち上げつつ、マキはぽつりとつぶやく。
窮地を切り抜けたはずが、これまでよりもよっぽど冷たく感じる正真正銘の冷や汗が……。
つっと、彼女の背筋を伝い落ちていった。