5.悪魔よりよっぽど――無鉄砲だ
――港湾区域であるアニアドは、存在する施設の多くが、貿易や運送関連の会社のオフィスや倉庫、貨物の集積所に工場、各種役所といった具合なので、普段でも日が落ちれば昼間の活気が嘘のように人気がなくなる。
ましてや天界の不思議な力により、ほとんどの人間が無意識下で外出を控えている夜とあってはなおさらだ。
結果として――。
黄と赤、2台のスポーツカーの熾烈なドッグファイトを観戦するのは、黙して語らぬ月ぐらいのものだった。
しかし逃げる側も追う側も、その走りに手抜きなどない。
レーサーがサーキットで1秒にも遠く満たない刹那の時間までタイムを削ろうとするように――生と死の境界線そのものという、常人では垣間見ることさえ不可能な細すぎる糸を綱渡りする。
双方とも、一歩も退かぬせめぎ合いに高揚する戦意。
それはマシンのあらゆる要素に伝播し、エンジンは吠え、タイヤは叫び……その激しい律動の極致にあるひたすら鋭利なサウンドに至るまで、交える刃となって火花を散らしていた。
(いやいや、こいつぁなかなか……)
エリーゼに追いついた頃は、わざわざどうして遠回りしてまでアニアドなどへ向かうのかと頭の中で疑問を転がしていたオーズだったが、今ではそんなことは些細な問題となって隅へ追いやられている。
規律や倫理に護られた競技ではないこの追跡劇は、逃げる側も追う側も互いを潰す気で駆ける。
純粋な命のやり取りに限りなく近いそれは、まさしく戦いなのだ。
そしてこの戦いは速さ――つまりは強さの純粋な信奉者であるオーズを夢中にさせるには、充分すぎるほど充分な領域に達していた。
互いの牙が噛み合い、擦れ合うような感覚に、知らず顔には愉悦の笑みが浮かぶ。
(なるほど、あの姐御が気にかけるハズだ……!
楽しませてくれるじゃねえか!)
「なかなかやってくれるじゃない、あのジャガー……!」
アニアドには友人の祥子に付き合って、港近くの輸入雑貨を多く扱うショッピングセンターに何度か来た程度である。
とてもではないが地形を完璧に把握しているとはいえず、ティータのディスプレイしてくれる周辺図だけを頼りに全精力を傾けてエリーゼを駆るマキには、バックミラーに目をやる余裕すらそうはない。
しかし追随してくるジャガーの気配は、耳に届く音ばかりでなく、うなじの辺りをチリチリと焦がすような、明らかにこれまでの悪魔たちとはひと味違う無形のプレッシャーが雄弁に語っていた。
「きゃお……赤のジャガーってことは、あれは地上ではオーズと名乗っている悪魔、オセだと思いますー。
堕天使の中でも、かなり高名な存在ですー」
「……なるほど、下っ端とは違うさすがの実力ってことか。
でも何とかしないと、アイツ引きずったままエドガーさんのトコへ行くわけにもいかないからね……!」
一直線に目的地へ向かっていたのならとっくに到着していただろうが、追っ手に張り付かれているこの状況ではそうもいかず、マキはオーズを振り切るため、アニアド地区を縦横に走り回らざるを得なかった。
だが場所が場所だけに大きな産業道路が連なっており、エリーゼの武器である旋回性がさほど優位に働かず、逆に大きなパワーを存分に活かせるジャガーとの差は、一向に広がる気配を見せない。
「ティータ、何かない?
アイツ引き離すのに使えそうな場所とか」
「きゃお……難しいですー。
こちらだけが通れるような細い道っていうのもあんまり無いですし、あっても……行き止まりですしー……」
ディスプレイしている地図の縮尺を変更し、ティータはアニアドの地区全体を表示しながら考え込む。
それを横目で追っていたマキは……ふと、ある一点に気を留めた。
「ちょっと、ティータ……それ、アニアド大橋よね?」
マキが指したのは、ティフェル河の河口付近だった。
そこには、ティータの見せる立体的な地図だとそれとよく分かる、大きな跳ね橋が架かっている。
「はい、そうですー」
即座に肯定するティータ。
アニアド大橋といえば、著名な建築家の手になる由緒ある跳ね橋で、周辺も整備されて一帯がちょっとした観光名所になっている、サンダルクトの住人なら大抵が知っているような場所だ。
「……でも何だかこれ、中途半端に橋が上がったままになってない?」
「あ、それなら、この間パパから聞いたよ。
ろうきゅうか……だっけ、それで危ない箇所が見つかったから、しばらく封鎖して整備し直してる、って」
ティータに代わって答えたロイの言葉に、ああ、と小さくうなずくマキ。
そうしている間にも、エリーゼはクランク状の狭い道路を軽やかに駆け抜ける。
「そう言えば、そんなニュースを見た気もするなー……」
「あねさまー、いい大人なんですから、ニュースぐらいもっとちゃんと見ましょうー」
残念そうにつぶやくティータに、あわてて反論するマキ。
「わ、悪かったわね、ちょっとド忘れしただけだってば!
……え、えっと、それはともかくティータ、この中途半端に上がってる橋……向こう側まで飛べると思う?」
「きゃお? は、はいぃ、全速力で行けば、一応神力のサポート無しでも飛び移れる傾斜と距離だとは思いますけど……って、あねさま、まさか?」
ティータの答えを聞いて、マキは片頬を持ち上げて笑った。
「ふふん、いいじゃない――決まり、行くよ!」
「……おいおい、なに考えてやがんだ?」
これまで、その走りっぷりはともかく、車道から外れることはなかったエリーゼが、急にドリフトしながら手近な公園に飛び込んだのを見て、オーズは思わずそう口走っていた。
(正攻法じゃ引きはがせねぇから、奇策に訴えようってハラか?)
後に続いてジャガーを公園に突っ込ませる。
入り口に車止めは無かったが、そもそも車体の大きなジャガーは、その威圧感にふさわしく、レンガ造りの門柱の一部を荒々しく削り取っていった。
「いやいやしかし、そいつぁ手段を間違えたな、お嬢ちゃん。
荒っぽいのはそれこそ悪魔の十八番だぜ?」
レンガ敷きの遊歩道をひたすら真っ直ぐに突き進むエリーゼを、ジャガーは途中にあるくずかごやベンチをわざとらしく引っかけ、なぎ倒しながら追いかける。
マキにより強くプレッシャーをかけるためだ。
しかしエリーゼはジャガーの存在そのものからして見えていないように、まったく動じないばかりか……。
公園の曲がりくねって入り組んだ道を利用しようともせず、木立の中に飛び込みまでして、ただ一方向にのみベクトルを傾け続ける。
(……どうなってンだ? これじゃまるで……)
腐葉土を蹴立て、立木を右に左にかわしながら斜面を駆け下りた二台の前方が、急に開ける。
中央に噴水を据えた、公園の出入り口にあるその広場に出た瞬間……。
オーズは、抱いていた疑問の答えを確信した。
「いやいや……やはりショートカットか。
この先、アニアド大橋で決着をつけようってこったな?」
果たして、エリーゼは彼の予測を裏付けるように、広場中央の噴水を鼻っ面を擦らんばかりのドリフトで回り込むと、その向こうの緩やかな下り階段を、続く出口目がけ、加速して一気に飛び降りていく。
公園を抜けた先は、すぐにティフェル河のほとりだった。
散策用に整えられた川沿いの道路は、足下に埋め込まれた明かりで淡くライトアップされ、河口付近の広大で静かな水面を挟んで、向こう岸にまたたく街の灯をまるで別天地のように神秘的に彩っていた。
ゆえに、そちらへ向けてゆるやかに上っているアニアド大橋の姿は欄干に施された中世的な装飾もあって、たとえて言えば虹のように、文字通り別天地への架け橋を思わせる。
しかし今、その先に待つものは楽園への扉などではない。
非情な奈落への断崖だ。
この場にあっては神の警句とも取れそうな、立入禁止を示すバリケードをぶち破り、突き進むエリーゼ。
――その姿にオーズはふと、自ら闇を求めた太古の人間たちの姿を重ね合わせていた。
奈落に落ち行くのは言うに及ばず、断崖を飛び越えたとしても、その身が闇に絡め取られるのはもはや避けようがない……と。
(まぁ、よくやった方だろうが……終わりだな)
獲物を仕留める手応えを確信したオーズは、断崖を飛び越えた先でエリーゼの前へ回り込み、進退ともに封じ込めようと――ジャガーを隣の車線に移し、限界を越えた怒濤の加速に入る。
エリーゼも断崖へ向けて必死に地を蹴るが、上り坂で直進、しかも基本的なパワーに歴然とした差があるとなると、逃げ切れるものではない。
夜の闇の中でも際立つ黄色い車体はみるみる近付いてくる。
そして、ついに横に並ぼうかというまさにその瞬間――。
「――なっ!?」
オーズは我が目を疑った。
エリーゼはいきなり、これまでの加速を全否定するかのようなフルブレーキングを行ったのだ。
天使の手になる不思議な力を秘めたタイヤが、しかしそれでも限界だと言わんばかりの悲鳴を上げる。白煙が激しく立ち上る。
(コイツ、落ちるぞ!)
橋の切れ目は目前である。
こんなところでスピードを落とせば、飛び越えることはおろか、止まることさえできない――。
激しくタイヤを焼き付かせながら、しかしそれでも勢いに引きずられて前進する黄色い車に、オーズは正気さえ疑わずにいられなかった。
しかし――。
「な――にぃ……っ!?」
――それは、これ以上はどうしようもないほどに究極的で、完璧な位置だった。
跳ね橋の切れ目、その最たる崖っぷちに前輪、しかも重心だけをぎりぎりに残す形で、見事に……エリーゼは止まったのだ。
当然、それに合わせて自らも止まる余裕など、最初から飛ぶ気だったオーズにあるはずがなく――。
次の瞬間、ジャガーはただ1台、中空を舞っていた。
「……いやいや。
それじゃそういうことなんで、後はお願いしますよ、姐御」
オーズは電話を切ると、ジャガーのボンネットにごろりと大の字になる。
橋を飛んだ先はそのまま自然公園に連なっており、木立を抜けて全身をなでゆく風は、ただそれだけで心地よい。
「まったく……あそこで、オレが前に回ろうと加速することまで計算してやがるたぁな……」
自らを見下ろす月に向かって、ゆっくり大きく息を吐く。
――あ然としながらすれ違い、宙に飛び出すまさにその瞬間……彼は、確かに見た。
生きるか死ぬかの境界線、その綱渡りに、額に明らかにそれと分かる冷や汗を浮かべながらも……。
見たか、と言わんばかりの不敵な笑みとともに、こちらへ手を振るマキの姿を。エリーゼの運転席に。
「一歩……一瞬間違えりゃ、魂を奪われるどころかテメェの命もお終いだろうに――」
体を起こすと、今しがた自分が飛び越えたばかりの跳ね橋の、さらに向こうを見やる。
Uターンし、もう一度橋を飛び越えて後を追おうという気はさらさらない。
「大した小娘だぜ、まったく。
……悪魔よりよっぽど――無鉄砲だ」
性分のまま、負けとドライに割り切って、オーズはもう一度ボンネットに寝転がる。
気分はむしろ、すがすがしかった。