1.おはよう、エリー
――島のシンボルである優美なケテル山を望み、港湾地区から工業地区、商業地区、さらには住宅地から自然公園まで、文明の中で人が生きる場としてのあらゆる要素を宿すセフィラいちの大都市、サンダルクト。
その東部の郊外に位置するラフォード地区は、目もくらむような豪邸が建ち並ぶ、いわゆる高級住宅地と呼ばれる類の静かな場所である。
その中で、こじんまりとして良い意味でも悪い意味でも時代を感じさせる外見をした洋館が、セフィラ随一の名士にして旧家、大企業アリアドネ紡績をまとめる、アーロッド家の邸宅だった。
「……おはようございます、マキさん。今日も良い朝ですよ」
美しく響きの良い、まさに鈴を転がすような声に誘われて、ベッドに埋もれるように眠っていた黒髪の女性がゆっくりと起き上がる。
そして、おっくうそうに寝ぼけ眼を擦りながら、そばに立つ軽やかな金髪の少女にアクビ混じりの挨拶を返した。
「ふあ……おあよ、カタリナ。
ちなみに良い朝ってのは、堂々と二度寝してかまわない朝のことを言うんじゃないかなー、とか思ったり」
「もちろんかまいませんよ、二度でも三度でも。
……結果、そのツケを支払うのは、マキさん自身なわけですし」
通う高校の制服に身を包み、鞄を手にした、通学準備万端の少女――カタリナ・ベルガーは、それだけで絵になりそうな、たおやかな笑みを浮かべて答えた。
「ああ……正論だ。べらんめー……」
幼子のような調子で悪態をつく黒髪の女性。
――彼女の名は、マキ=エモン・アーロッド。
このアーロッド家の長女で、実年齢は19、カタリナよりも年上なのだが……童顔でやや小柄なため、同年代どころかやや年下にも見えるのは、亡き母から受け継いだ日本人の血によるものかも知れない。
「仕方ないから、支度するとしようかね……。
カタリナ、起こしてくれてありがと」
ベッドから降り、大きく伸びをするマキ。
「日課ですから。
……それでは、わたしは下で朝食の準備をしますね」
「あ、いい、いいって、あなたも学校があるんだし――!
……って、間に合わなかったか……」
さわやかな笑顔を残して部屋を後にするカタリナに伸ばした手を、力無くだらりと下げて……マキは大きく息を吐き出した。
「まあ……2割ぐらいは、何も起こらない可能性もあるハズだし……とりあえず支度しよ」
「あ、おはよう、姉さん」
大学へ行くための準備を済ませ、部屋を出たマキに、ちょうど同じく廊下に出てきた少年が声をかける。
彼女の4つ下の弟でアーロッド家の長男、ソウイチロウだった。
「おはよ、ソウ。
……どうやら、アンタもカタリナを引き留めるのは失敗したみたいね」
「それは仕方ないって。
これがメイドの仕事って張り切ってるのを、どう止めろって言うんだよ」
「ふむ……縦横に策を弄して?」
「それ、つまりは丸投げな上に正攻法は使うなっていうムチャ振りじゃないか……」
「――ともかく!
あたしは、自分の認識を根底から覆しかねないあの『魔界料理』を食べるのは、極力御免こうむりたいワケなのよ!」
「ま、大丈夫だって。3割ぐらいは何も起こらないハズだし!」
「………………。
あたしより一割見通しが甘いのは、惚れた弱みってやつか……」
弟には聞こえないように、ぼそりとつぶやくマキ。
……一方ソウは、さわやかな笑顔で、
「それにほら、本気でヤバそうなら、姉さんが何とかしてくれるだろ?」
――などと言ってのけた。
そんな弟の耳を、マキは遠慮なく引っ張る。
「そうやってフォローして、結果としてあたしの家事スキルばっかり磨かれるから、カタリナと比較してニセモノお嬢様とか言われるんでしょうが!」
「あ、あながち間違ってないと思うけど。
カタリナの方が優しいし、気品あるし、立ち居振る舞いだって――あだっ!」
耳から手を離すと、続けて今度は弟の額を思い切り指で弾く。
「ああ、正論だよ。べらんめー」
ふん、と小さく鼻を鳴らしてずかずかと先を行くマキ。
ソウは赤くなった額をなでながら、小走りに後を追った。
――階段を降りた姉弟は、玄関ホールを抜けて食堂へ入る。
中央に置かれた年代物の長テーブルには、すでに一人、きちんとしたスーツ姿の紳士が着席して新聞を広げていた。
姉弟の父でアーロッド家の当主、フレデリックだ。
「おお、おはよう、二人とも」
当主より遅れて来るなど、厳しい家ならそれだけで叱責の対象になりそうだが、アーロッド家は旧家ではあるものの、フレデリックの性分もあってか、そうしたしきたりはかなりゆるい。
なので、子供たちも別段気にするでもなく、思い思いに父に挨拶を返し、ソウは自分の席へ、マキはキッチンへと向かう。
――こぢんまりとしたキッチンのテーブルには、すでに人数分の朝食が準備されていた。
献立はトーストにベーコンエッグ、サラダと、アーロッド家では一般的な、非常に庶民的なものだった。
見栄えも良く、一見して問題はまったく見当たらない――が、本能が何かを察知したマキは、ベーコンエッグを取り上げて鼻を近付ける。
「……あ、甘い香りがする……。
どこからどう見ても普通のベーコンエッグなのに……」
「あ、マキさん、もしかして運ぶのを手伝ってくれるんですか?」
デザートのフルーツを盛ったボウルを手に、奥から現れたカタリナの悪意の無い笑顔にあいまいにうなずきながら、マキは調味料が置いてある棚を見やる。
「ねえ、カタリナ。ベーコンエッグ、味付けになに使ったの?」
「はい、マキさんが余計なモノは入れなくて良いっておっしゃってましたので、ごく普通に塩コショウで」
「……やっぱりか」
マキは棚から調味料の小瓶を一つ手に取る。
黒コショウの隣りに置かれていたそれは、よく似た黒い粉末だった。
……バニラビーンズを鞘ごと粉末にした、黒いバニラパウダーだ。
「ああ……ちょっとお菓子の香り付けに使ったコイツを、ついついこんな所に置くなんて……愚かなり、昨日のあたし」
ガックリとうなだれながら、マキはバニラパウダーを棚に戻した。
「びっくりはしたが、トーストに乗せるとなかなかイケたじゃないか、なあみんな?」
フレデリックは食後のコーヒーをすすりながら、笑顔でテーブルを囲む子供たちとカタリナに語りかける。
……ちなみに、いつも砂糖とミルクを入れているはずだが、今日の彼はブラックだ。
「ああ、うん、新手のスイーツみたいだったよ、ホントに!」
ソウも即座に同意して笑顔をカタリナに向ける。
当のカタリナはしょんぼりとした様子でうつむいていたが、激励を受けて力強く顔を上げた。
「ありがとうございます、旦那様、ソウ君!
わたし、今度こそは失敗しないように頑張りますので!」
「確かに、食べられないようなモノじゃないのよね。ぶっちゃけ塩バニラにタマゴだし」
ぽつりとつぶやきながら、マキも砂糖控えめなコーヒーをすする。
――そう。
食べられないモノではないのだ、カタリナの料理は。
ただ、およそ8割ぐらいの確率で、見た目と味が合致しない。
見た目こそ完璧なのに、味が……単純にマズいというわけでなく、認識が予想する味と大きくかけ離れるのだ。
……ミートボールと思って食べるとトリュフチョコだった、というフェイクお菓子のように。
しかし、カタリナの料理だと、それが実際にミートボールだからややこしい。
今回のように原因が判明するのは稀で、本人はレシピ通りと言うが、どうやって作ったのか分からないことも少なくない。
製法不明で、見た目で舌が予想する味を大きく裏切り、認識を混乱させるその料理は、現世ではありえないと、密かに『魔界料理』と呼ばれている。
「いや、実際は悪魔ですら混乱しそうだけど……」
聖書に出てくるような恐ろしげな悪魔が、カタリナの料理を食べてひっくり返っているところを想像してクスリとしながら、マキはジャケットから出したスマートフォンをチェックし……続けてバッと、勢いよく食堂の古い柱時計に目を剥いた。
「げ! 柱時計、遅れてるじゃない! 何か変だと思った!」
マキの一声を合図に、その場にいた全員が、各々、時間を確認できるものを見た。
そして、慌ただしく立ち上がる。
「あ、どうしましょう、後片付けが……!」
「いいわカタリナ、あなた遅刻しちゃうじゃない、あたしに任せておいて。
――はい、パパもソウも、ぼーっとしてないで自分の食器持って流しに急ぐ!」
マキの号令一下、全員が弾かれたように動いて食器を流しに運ぶ。
マキは素早くシャツの袖をまくりあげると、スポンジ片手に怒濤の皿洗いを開始した。
「ソウ、カタリナを途中まで送ってってあげなさい!」
「分かってるって!
――カタリナ行こう、俺の自転車の後ろに乗っけるから」
「はい、ありがとうございます。
――ではマキさん、よろしくお願いします。旦那様、行って参ります」
マキに続き、フレデリックにもきちんとお辞儀を残してから、カタリナはソウの後を追いかけていく。
「うむ、二人とも気をつけてな!」
「……そう言うパパは急がなくても大丈夫なわけ?」
「もちろんだ。今日はまあ、重役出勤というやつでな。ははは」
「いつかみたいに、曜日間違えてたとか勘弁してよ?
――いよっし、これで洗い物終わりっと。さあ、あたしも急いで行かないと!」
……せわしなく動き回るマキ。
そんな娘の姿に、フレデリックはうーむと眉をしかめる。
「マキエよ、そうして家事もこなすお前は、本当に立派だと思う。
だがな、こう、もう少し、もう少しだけでも、ママのようにお淑やかに、だな……。
それが大和撫子としての……」
父の苦言などまるで聞こえていないように行き来していたマキだが……。
唐突に父の目の前で立ち止まると、引きつった笑顔でネクタイをキュッと締め上げた。
「そ・れ・な・ら、娘にマキエモンなんて便利なネコ型ロボかどこぞのサムライみたいな時代がかった名前付けないでよねえ、パ~パぁ?」
「だ、だって……美しいじゃないかあ、姫柄山蒔右衛門の染め物……。
当代は女性だし」
娘の迫力にあてられ、情けない声になりながらもしっかり反論する父フレデリック。
「それについては同意見だけど、だからって職人さんの屋号継承を娘の名付けにまで適用するんじゃないっての!」
マキはふんっとそっぽを向いて――しかし締め上げていたネクタイをちゃんと整え直すことは忘れずに――キッチンを出る。
そして父の「パパはいいと思うんだがなあ……」というつぶやきを背に受けながら食堂に置いていた鞄を取り上げ、小走りに玄関を抜けてガレージへと急いだ。
――そこで彼女を待っていたのは、一台のスポーツカーだ。
一般的なセダンよりも一回り小柄な、黄一色の流線型のボディ。
デフォルメされた両棲類を思わせる、丸いライトを基調としたフロントマスク。
ガレージ入り口から射し込んだ初夏の陽光にきらめく、その英国はロータス社製の愛車『エリーゼ』に、マキは颯爽と乗り込む。
「おはよう、エリー!」
右ハンドル車なので左にある助手席に鞄を放ると、慣れた動きでシートベルトを付け、キーを回した。
……途端、眠りから目覚めたエンジンが元気な挨拶を返す。
「よーし、今日も調子良さそう。
……ちょっと時間押してるから、ペース上げていくけど――CDかけてるヒマがない分、綺麗なハイトーン聞かせてよね」
エンジンの暖気の間に、ポケットから出した、車とお揃いの黄色いリボンで艶やかな黒髪を手早くポニーテールにまとめ上げると、よし、と気合いを入れ直すマキ。
「マキエー! くれぐれも安全運転でなー!」
玄関前まで出てきた父に手を振って応えると、マキはシフトを1速に入れてエリーゼをスタートさせる。
絶妙のクラッチ繋ぎで文字通りにガレージを飛び出した黄色いお転婆娘は、これまた見事なアクセルワークで後輪を滑らせながら門を抜け――。
喚声のように甲高い排気音を残して、走り去っていった。