3.ヘドが出るほどキライなんですから
「それは……本当か、アーサー君」
書斎で電話を受けたマキの父フレデリックは、身を沈めていたソファから立ち上がりながら、改めて電話の向こうへ問い直す。
『ええ、間違いないでしょう。
……昼間、お願いした件についてはいかがですか?』
電話口から返ってくるのは神父、アーサーの声だ。
「それについては問題ないよ。対処しておいた」
『では、最悪の事態は避けられますか』
「いや……本当の最悪は、エドガー君に害が及ぶことだ。
むしろ、これからが正念場というものだろう」
『……おっしゃる通りですね。
では――あちらの責任者の方に話を通しておいていただけますか?
今、僕も現場に向かっているところですので』
「……私も行こう」
スマートフォンをデスクの上に置くと、フレデリックはラックにかけていた上着に素早く袖を通す。
『え? か、会長のあなた自らですか? しかし……』
「事情を知って、ただ座して見ているだけというのは私の性に合わないのでね。
それに、エドガー君とも直に話をしたいんだ」
『奴らも素人ではありません。手は回してありますが、危険が無いとも……』
「なに、問題ないさ」
上着を整え、拾い上げたスマートフォンの向こうへ、フレデリックは笑ってみせる。
「アーロッド家はさかのぼれば騎士の家系だ。矢面に立つのが怖くて当主は務まらんよ」
『……はあ、なんと言いますか。
なるほど、つくづく親娘ですねえ……』
「褒め言葉と受け取っておくよ。
……では、またあとで」
フレデリックは電話を切ると、その足で書斎を出た。
「……あ、旦那様もお出かけですか?」
玄関ホールにやって来たところで、食堂の方からカタリナに声をかけられる。
フレデリックはいつも通りの穏やかな笑顔でうなずいてみせた。
「……そう言えば、マキエも少し前に出かけたようだね。
もう遅い時間だというのに」
「はい。
……きっと、とても大切な用事がおありなんです」
「そうか。なら、あまりうるさくは言わないでおくかな」
あの子は怒らせると怖いしねえ、と冗談めかして付け加え、フレデリックは肩をすくめる。
カタリナも、つられてクスクスと笑った。
「ところで、キッチンの方から甘い香りがするが……お菓子でも焼いているのかな?」
「あ、いえ、お菓子じゃなくて……。
マキさんが帰ってきたときにお夜食でも、と思って、今おダシを取っているところなんです」
「! そ、そうか……。
うん、なら、一度ソウにでも味見をしてもらうといいんじゃないかな」
日本の料理についても、日本人の妻からマキへ、そしてカタリナへと、ある程度のレシピは伝わっているはずだが……。
少なくともこの、ミルクのような甘い香りをダシと呼ぶ料理などなかったと戦慄するフレデリックは、半ば無意識に息子を生け贄に差し出していた。
「そうですね。
旦那様も、お帰りになったら召し上がりますか?」
「ああいや、きっとお腹を空かせて帰ってくるだろうから、ぜひマキエに」
……今度は娘を差し出した。
「それは……お帰りが遅くなる、ということですか?」
カタリナの問いに、その謎めいた夜食を避けることばかり考えていたフレデリックは、そういえばそうだ、と改めて思い直す。
「ああ、そうだね。
何時になるか分からないから、戸締まりだけ気をつけて、先に休んでいなさい。
……そもそもカタリナ、こんな時間まで仕事気分でいなくてもいいんだよ?」
「ありがとうございます。
でも……せめて、マキさんはお迎えしたいと思います」
「……分かった。うん、くれぐれも無理はしないように。
――では、行ってくるよ」
「はい、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
深々としたカタリナの一礼を背に受けて、フレデリックは館を出る。
「……ふむ……」
水の底のように静かで、ひんやりとした夜気は……。
気分の問題か、それとも本当にそうなのか――普段のものとは、まるで別物のように感じられた。
* * *
「ああ……まったく、何をやってるんだ、あたしってやつは……べらんめー……!」
……自分の浅はかな行動を思い返し、マキは毒突かずにはいられない。
窮地にあるときにこそ、なおいっそう奮起しなければならなかった。
冷静でいなければならなかったのだ。
なのに、神経をすり減らすつらさから早々に解放されたくて――よく考えもせず、あからさまな罠へと飛び込んでしまった。
……不甲斐ない自分に、つくづく腹が立つ。
今のところ、後方からの追っ手しか確認できないが、このままで済むわけがない。
逃げ道の無い高架上に誘い込んだのだから、あとはゆっくりと前方で待ち構えていればいいと、確たる勝利に余裕を見せているということだろうか。
「ティータ、神力の具合……どう?」
「衝突必至で強引に囲みを突破する……には、まだゼンゼン足りないですー……」
「そう……。
やっぱり、自分のミスを都合良く反則技で取り返そうってのは甘いか……」
もう何度目になるだろう、マキはまたバックミラーに目をやる。
追いすがるライトの数は、減るどころかむしろ増加の一途にあった。
アクセルをゆるめれば、たちまち黒い群れに呑まれてしまうことだろう。
しかし、アクセル全開で駆け抜けたその先で待ち構えるのもまた、黒い獣であるのは間違いないのだ。
(これじゃ、ロイもさぞかし落胆してるでしょうね……)
マキは、恐る恐るといった具合に、ちらりと助手席の様子をうかがう。
……そこにあるのはしかし、落胆でも、怯えでも、ましてや絶望でもなかった。
緊張に顔を強張らせながら、それでもロイはひたすらじっと、前を見つめ続けていたのだ。
その凜とした横顔からは、マキに対する疑いや不安など欠片も感じられない。
「……べらんめー……!
あたしはホントに……何度も何度も!」
ガツンと、マキはハンドルに自身の額を打ち付けた。
いきなりのマキの行動に、ティータとロイは何事かと目をまたたかせる。
「あ、あねさまっ?」「お姉ちゃんっ?」
「そうだ……反則結構、卑怯上等じゃないの。
使えるものは何でも使う、たとえ何に頼ってでも、あたしはやり遂げなきゃいけないんだ……!」
自分を叱咤して、マキは強い視線をティータに向ける。
「――ティータ、あのオネエ天使に連絡して。
なり振りなんて構ってられない、救援を要請するわ。
……さすがにアイツでも、何の手助けもしないなんてことはないでしょ」
「わかりましたー、それじゃさっそく……!」
びしっと敬礼してティータは、くるりと振り返り……。
あろうことか、ホルダーに収まっている、自分の身長ぐらいはあるマキのスマートフォンを一生懸命操作し始めた。
「え、ちょっと、なに?
アンタなら、こう、呼びかけたりとか――そんな感じであっさり連絡つけられるんじゃないの?」
「そんなまさかー、あねさま、世の中そんな何でも便利にはできてませんよー?
呼ぶだけで電話がかかったりなんて、するわけないじゃないですかー」
ティータは、カマエルのものらしい電話番号をタッチしながらクスクス笑う。
「いや、今や音声認識でそれぐらい普通にできるんだけど、なんでそんなところだけローテクなの――って、いや! いやいやいや、そうじゃない!
そもそもアンタら天界の存在のくせして、スマホだのネットだのって、現代文明に頼りすぎでしょ!?」
「あ、ちゃんと電波じゃなく、『霊波』を使ってますよー。
あまねく世界を照らす神サマの光を回線に利用しますから、いつでもどこでも安心安定の繋がり具合ですー」
「いや、だからね、そういうことじゃなくて……!
あぁ、でもこうやって聖者仕様車とか使うのも同じようなものだって言えばそうなのかなあ……」
乱暴にがしがしと頭をかくマキ。
「――お姉ちゃん、今連絡してるその天使様が……ぼくを助けてくれるの?」
「まあ……そうね。そう思っても間違いないんじゃないかな」
「うん……そっか……」
ロイはふと視線を落とす。
気付けばその表情には、いつの間にか何かに悩んでいるような、迷っているような複雑な色が影を落としている。
気になったマキがそのことを尋ねようとするが……。
それをさえぎって、ティータが今にも泣き出しそうな情けない声を上げた。
「あ、あねさまぁ~!」
「どう、繋がった?」
「繋がりましたぁ……その、留守番電話サービスにー……」
「…………」
「…………」
「死にさらせ、って入れといて」
色を失った声でそれだけを伝えるマキ。
ティータはびくりと震え上がりながらも、律儀に言われた通りにした。
「こーなったら……!
サリーちゃんにラファエルさん、ガブちゃんまで、とにかく手当たり次第に連絡して!
最低でも、引きこもりのガブちゃんならつかまると思うし!」
「お、お姉ちゃん、ほら、天使様もきっと、いろいろ忙しいんだよ――」
「――いい、ロイ?」
マキは、ずいっとロイに顔を近付ける。
「今は、あなたを送り届ける以上に大事な用事なんてないの。天使だろうとね。
――なのにまあ、あのオネエめ……!」
視線を戻したマキは、今にも噛み付きそうな勢いでハンドルを握り締める。
……しかしその熱は、続くティータの氷水のように無情な報告があっという間に冷ましてしまった。
「あ、あねさまぁーっ!
前方で悪魔が……か、壁になって待ちかまえてますーっ!」
壁、というティータのたとえはいかにも正確だった。
高速道路のオレンジの灯火のもと、黒い車は、鼻先をねじ込む隙間もないほど密になって居並び、車線を端から端まで占拠していたのだ。
「――ッ!」
マキはブレーキを一気に床まで踏み込む。
神力による超自然的な助力が得られない以上、すべてを投げ出して玉砕する気でなければ、彼女が取るべき行動はそれしかなかった。
……ついに足を止めるエリーゼ。
後方から追いすがって来ていた者たちもすぐに追いつき、前面の壁に呼応するように、エリーゼから一定の距離を空けて停まっていく。
たちまちのうち……そこは一個の檻と化した。
「べらんめー……どんな暴走族でもここまで無粋じゃないよねえ……!」
ハンドルにもたれかかり、首を振りながら軽口を叩いてみせるマキ。
それがこの絶望的な状況下にあって、ともすれば折れてしまいそうになる心を奮い立たせるための空元気であることは、あからさまな緊張の浮かぶ表情が雄弁に語っていた。
「こうなったら……車は捨てて走るしかない、か。
そこまで足に自信があるわけじゃないけど、座して死を待つよりは――よね」
一つ深呼吸して決意を固め、マキはシートベルトを外す。
「きゃおー! あたし捨てられるんですかぁ、あねさまー?」
「ごめんね。でも悪魔が狙ってるのはロイだから、アンタはひとまず大丈夫だと思う。
またあとで、ラファエルさんにでも迎えに来てもらって――」
まずは高速から降りなければと、整備用の階段の場所を確かめつつ、周囲の悪魔の様子をうかがっていたマキは、言葉を途中で飲み込んでしまう。
その原因は――光だった。
空から現れた、まばゆい、しかしそれでいて柔らかな光が、エリーゼの前へとゆったり舞い降りたのだ。
やがてその光は、見事な一対の白い翼を備えた少女の姿を形作る。
「……お待たせ致しました、マキさん」
そう言って振り返った少女は、白銀の甲冑をまとったサリエルだった。
初めて目の当たりにする、本物の天使という存在に、思わず感嘆の息を漏らすロイ。
「……天使様……天使様だ……!」
「サリーちゃん……! まさか、助けに来てくれたの?」
「はい、カマエル兄様の許可が下りましたので――」
愛らしい表情でマキに答え、ついでエリーゼの進路を壁になって塞いでいる悪魔たちを見やったサリエルは。
唇の端を吊り上げ、ニヤリと――人が変わったようないびつな笑みをこぼした。
「あの身の程知らずのクズ野郎どもを、思うままにいてこまして構わない……と」
「く、クズ野郎? いてこま……?」
見た目に可憐なサリエルが口にしたとは思えない乱暴な単語に、マキの頬は知らず引きつる。
「いてこまし――ってなんですか、あねさまー」
「え、えっと、日本の方言っていうか……。
要するに、ボッコボコにするってことで……」
「あねさまのべらんめー、みたいなモンですか?」
「ち、違うわよっ! あれは粋でいなせな江戸前の職人言葉で――っていやいや、そんなことよりサリーちゃん、そんな暴言吐いちゃって大丈夫なの?
なんか、悪魔たちも猛烈にやる気になってるみたいだけど……」
マキは前後に視線を走らせる。
さっきまでは余裕を見せていたのか、比較的静かだった悪魔たちは、今やエンジンを空吹かしさせながら、激しく後輪を空転させていた――。
さながら、鼻息荒く後ろ足を蹴立て、突進の力を溜めている闘牛のように。
「何かおかしいですか? だって――」
そこまで言って、サリエルは前方に視線を移す。
――その視線の先には……。
我慢が限度を超えたらしい黒い車の一台が、猛然と彼女へ向けて突進してくる姿があった。
「サリーちゃん!」
「だって私、あのクズ野郎ども……ヘドが出るほどキライなんですから」
猛獣のごとく襲い来る巨影に、サリエルが立ち向かわせたのはその右拳たった一つだった。
うかがい知れる質量の絶対的な差は、計算などせずとも勝負にならないのは明白だ。
まさに蟷螂の斧――人の目には無謀としか映らない。
……しかし。
地面をかすめ、美しい弧を描いて宙へと伸び上がった少女の拳は。
優に彼女の数倍はある影を、轟音とともに高く上空へ打ち上げていた――軽々と。
加えて天使は、続けて……身体のねじりと共に思い切り振りかぶった左拳を、
「――いぃてこめえぇーーーっ!!!」
落下してきた影の横っ腹へと叩き込む。
……そこにどれほどの物理的な力が作用したのか。
可憐な少女の拳に、弾丸のごとく弾き飛ばされた影は高速道路の壁面に激突し――爆発するように砕けて霧散してしまった。
「……いや、いてこめ、ってのは……さすがに文法的におかしいんじゃないかなあ……」
それは、いい加減、常識外れな光景にも慣れたと思っていたマキですら……こんなズレた感想が口をついて出るほどだった。
「いいんです。こういうのは気分です」
にっこりと微笑み、律儀に答えを返すサリエル。
思わずマキは「すいません」と即座に敬語で頭を下げていた。
「さあ、それよりマキさん。
私があの薄汚いクズ野郎どものゴミ山を崩しますから、そのスキにどうか先へ」
「あぁ――うん、そうだね。お願い」
サリエルに言われ、マキは気を取り直してロイとティータにうなずきかける。
そして二人がうなずき返すのを待って、クラッチを切ったままアクセルを踏み込んだ。
一気に回転数を上げたエンジンが、猛々しく吼える。
「――いきます!」
気合い一声、向き直ったサリエル目がけ……今度は3台の悪魔が、前方と左右から同時に襲いかかった。
「いかにもクズらしい無策な特攻……ヘドがダダ漏れになりそうです――よっ!」
ふわりと、優雅に身をひるがえすサリエル――しかしその可憐なターンから放たれたのは、稲妻のような後ろ回し蹴りだった。
鼻っ面を蹴り飛ばされた中央の悪魔は、ありえない速度で左側の悪魔に激突し、一瞬で2台はひとまとまりの鉄塊に変わった――かと思うと。
さらにもう一回転しながら繰り出した宙返り蹴りで、サリエルは残る1台を己もろとも高々と宙に蹴り上げる。
そして――
「まとめてぇ……いてこめっ!!」
純白の翼を羽ばたかせ、空中でひねりを加えて放ったオーバーヘッドキックで、エリーゼの進路を塞いでいた黒い群れ目がけ、その悪魔を蹴り落とした。
それは隕石さながらの勢いで密集していた悪魔たちのただ中に着弾するや、ビリヤードのブレイクショットよろしく、悪魔を四方八方へ吹き飛ばす。
その特撮めいた光景に、思わず感嘆の息をもらすマキだったが……自分のするべきことを忘れはしなかった。
千々に弾け飛ぶ悪魔たちのただ中に突破口を見出すや否や、クラッチを繋ぎ、力を溜めていたエリーゼに思い切り地面を蹴り出させる。
「ありがとサリーちゃん、ホントに助かった!」
陣形の崩れた悪魔たちの間を、矢のように突っ切ってゆくエリーゼ。
その車窓から身を乗り出してまで投げかけられた感謝の言葉に、空中のサリエルは手を振って応えた。
「――ご武運を!」
一方、残った悪魔たちは、各々鼻先をエリーゼが去った方へ向け、すぐさま追いすがろうとエンジンを吠えさせるが――。
「さて、と」
ゆっくりと舞い降りたサリエルが、その進路に立ちはだかった。
「良い機会ですから、ゴミはまとめて大掃除といきましょう――」
口元に形だけの笑みを浮かべつつ、可憐な少女天使は、だん、とやや力を込めて地を踏みしめる。
途端、周囲の空気を一気に張り詰めた威圧感に――悪魔たちは釘付けとなった。