2.アンタらなんぞにモテたって嬉しかないってのよ!
なだらかで、登りやすい部類に入るケテル山中腹にあって、しかし人が足を踏み入れることはそう無い区域の……険しく切り立った断崖の上に、カマエルとサリエルはいた。
満天の星空を映した鏡のような街の灯は、集まり、連なり、ときにははぐれ、視界中に広がってきらびやかに輝いている。
それは普段と何ら変わらない光景だった。
その中を、流れ、行き交う――『動く』灯の数が、いつもよりもはるかに少ないということを除けば。
「……うんうん。
どの子も、今夜はちゃーんと言いつけ通り外に出ず、家で大人しくしているようですわね。
結構結構」
満足げに何度かうなずくカマエル。
「ですけど、やはり完全とはいきませんね、兄様。
見た感じ、外出している人も多いみたいです」
「ま、いかに天界の力と言っても、今夜は外出することを止めたくなるよう、無意識下にメッセージを送っただけですもの。
それなりに強い意志があれば出てもきますわ」
「でも今日は……マキさんにとってはいきなりの初陣ですし、誰も外に出て邪魔にならないよう、もう少し暗示を強くしても良かったんじゃないでしょうか」
「フフ、それはサリー、人間というものを甘く見すぎですわね」
身を屈め、カマエルはサリエルの鼻の頭をちょんと突っつく。
「彼らすべての意志を完全に抑え込むなんてことは、そうカンタンにできるものではなくてよ?
やってやれないこともないけれど、それは明らかに、人間への、度を越した干渉でしょうね。
――まあ、死の運命をムリヤリ変えるほどではないでしょうけど」
「……え?
でも兄様は、その……マキさんを子供の頃……」
カマエルの発言に引っかかりを感じたサリエルは、素直な疑問の色を面に出していた。
対してカマエルは、とぼけるように大げさに肩をすくめる。
「あら、貴女には言ってなかったかしら?
わたしはあのコに、どんな救いも差しのべていなくてよ? だって、ゆるされることではないものね?
マキが生き延びたのは――奇跡を起こしたのは、他でもない、あのコ自身の魂と命の力。
……ただ、それだけなの」
「そ、それじゃあ、借命っていうのは――」
呆気に取られた顔でサリエルが問うと、カマエルはほほほと上品に笑った。
「駆け引きというものかしら?
……そう、交渉を円滑に行うための、ね」
「そ、それは兄様、その、いわゆるサギ――」
不穏な単語が口に上った途端、サリエルの頬はむんずとつままれる。
目の前には、張り付けたようなカマエルの笑顔。
しかし、その瞳の奥は笑っていない。まったく。
「あらあら。あらあらあら~?
天使にそんな単語は似合わなくてよ、サリー? ね~?」
「ふぁ、ふぁい、ふいまふぇん……」
涙目でサリエルが何度もうなずくのを確認してようやく、カマエルは左右に引っ張っていた頬を放してやる。
立ち上がった彼の視線は、再び、広がる夜景へと向けられた。
「まぁね、少し――ほ~んの少しばかり強引な手を使ったのは事実ですし?
投げっぱなしというのも、ちょこ~っと良心が痛むような気もしないでもありませんから、あまり過保護なのはいけませんけど、いきなりの初陣ということも考慮して……」
カマエルは意味ありげにサリエルに笑いかける。
「いざというときは――よろしくて? サリー」
「あ、はい――もちろんですっ!」
サリエルは力強くうなずくと、どこか嬉しそうに、拳で手の平を打った。
* * *
「……それでお姉ちゃん、ホンモノのゴーストキャリアーになったんだ……!」
「まあ、そういうこと……みたい」
マキはちらりとバックミラーを見やり……ロイを拾ってからずっと追いすがっていた黒い車の群れが、ひとまず視界から消えているのを確認し、小さく息をついた。
ロイの問いかけにまるで他人事のように答えてしまったのは、そもそも事の次第を説明したのが、彼女本人ではなく機械聖霊のティータだったからだろうか。
子供っぽい性格と口調から、およそ話の精彩を欠きそうな彼女ではあったが、なかなかどうしてマキの経緯についての説明は要点を上手く踏まえた上で簡潔、明瞭だった。
……わざわざマキに代わって説明した理由については、それこそ彼女らしいというか、運転に夢中なマキが会話相手になってくれないで退屈だったから……というものだったが。
「じゃあ、ぼくは……やっぱり、死んじゃったの?」
寂しげにつぶやくロイ。
その頭を、マキは手を伸ばして優しくなでる。
魂だけの存在になっているため、見た目はどことなく希薄だが……お互い触れ合った場所には、確かなぬくもりがあった。
「まだよ。……大丈夫、心配しないで。
ちょっと、魂が身体から飛び出ちゃってるだけだから。
元通りになるように、あたしが絶対、神サマのところまで連れて行ってあげるから」
「お姉ちゃん……」
見上げてくるロイに、マキは正面を見すえたまま、力強くうなずいて答えとした。
それでロイも、「うん」とうなずき、真っ直ぐな目を前へと向ける。
「ティータ、ロイにシートベルトお願い。
……魂でも、やっぱりいるでしょ」
「はーい!」
「あ、自分でやるよ」
マキの指示で、周りをふわふわと飛び交っていたティータからシートベルトを受け取ったロイは、金具にはめ込んで固定した。
「でも……お姉ちゃんがゴーストキャリアーって……ピッタリだよね。なんか、似合ってる。
さっきあの悪魔に囲まれたのを助けてくれたときも、これはきっとお姉ちゃんだって……知らなかったはずなのに、そんな風に思ったもん」
「……あたしなんかには、過ぎたお役目のような気もするけどね」
ほんの少し前までうじうじと迷い、こうして足を踏み出した今でも、まだ不安を拭いきれない自分の弱さを思い返し……マキは苦笑する。
「……きゃおー、あねさま、来ますー!
西に回り込んでいたヤツらが、アーレ通りの長いストレートを使って一気に加速してきてるみたいですー!」
――唐突に、ティータが警告を発する。
同時にダッシュボード上の空間に、小さなディスプレイでも存在するように、高性能なカーナビでもこうはいくまいというほどに緻密な周辺地域の立体地図が、一種のレーダーとなって表示された。
「うまい具合に避けられそうなのは?」
「あっと、えっと……次のイースト・アーレ交差点で右折ですーっ。
少し遠回りになりますけど、道幅が狭くてコーナーが多くなりますから、こっちが有利です!」
「……え?
イースト・アーレから東って、確か……?」
マキは一瞬、ティータの指示に疑問を感じたが……その正体を見極める間もなく、すでに件の交差点はすぐそこまで迫っていた。
「……まあいいか。
ティータ、ドリフトで一気に滑り込むから。サポートお願い」
「はーい!」
時速200キロ近い高速度を、あらかじめ落としておくということもせず、エリーゼは急なブレーキングで後輪を滑らせ始める。
それは前方の交差点を曲がるには素人目にも明らかなほどのオーバースピードだったが、むしろその考えこそ間違いだと言わんばかりに――。
エリーゼはドリフト状態のまま、後輪が白煙とともにあげる甲高い叫び声に蹴り出されるようにして、交差点を目的の方向に駆け抜けた。
「な、なななにっ、今の!
ぜ、ゼッタイ無理だと思ったのに、ぐ、ぐりんって――ま、曲がったよ!?」
マキの乱暴な運転に、ここまでで多少なりと慣れたと思っていたロイだったが……。
さすがにこれには肝を潰したらしく、口をぱくぱくさせてマキとティータを交互に見やる。
「ビックリしましたー?
これが、ラファエル様による聖者仕様車の真の力なんですよー。
いわゆる魔力というか神力を使って、一般的な物理法則の限界をぴょいっと飛び越えちゃうんですー……スゴイでしょっ?」
「う、うん……」
得意の絶頂とばかりにまくし立てるティータに気圧され、こっくりと一度だけうなずくロイ。
ティータの語りはなお続く。
「でもでもですねー、ホントにスゴイのはあねさまなんですー。
そもそもゴーストキャリアーに選ばれた人は、聖者仕様車に乗ってる間は、動体視力とか反射神経とかがすっごくパワーアップするんですけど……。
それにしたって、何日も練習したわけじゃないのに、ここまで上手に乗りこなすんですからー!」
「まあ……なんだろ。
何と言うか、感覚ですでに分かってる感じなんだよね。コツというか、そういうものが。
……正直言えば、もっと練習する時間が欲しかったけど――ねっ!」
先程までとは一転した中小のビルの合間をぬう曲がりくねった道路を、せわしないステアリング&アクセルワークで切り抜けながら、マキは言葉を差し挟む。
「それでティータ、後ろの連中との距離はどう?」
「はい、だいぶ差が開きましたー。
このまま一気に、ケテル山まで走り抜けちゃいたいですね、あねさまっ!」
「そうね、この辺の区域は古い建物が多くて雑然としてるから、小回りの利くあたしたちが有利だし。
あとはティータ、ナビのアンタがしっかりしてくれれば――」
調子良く相づちを打っていたはずのマキは、そこで急に凍りつく。
先の交差点でティータの指示を受けたときに感じた違和感――。
その正体にまさに今、はたと思い至ったのだ。
……気付くのが遅すぎた、という非情な現実の認識とともに。
「ティータっ! 後ろばっかり気にしてる場合じゃない!
前はっ? まえっ!」
「そんなー、こっち方向ならそうカンタンに回り込めるような道路なんてありませ――って、きゃおお~っ!?」
次いで、ティータが悲鳴を上げる。
「アンタの頭の中の地図は何年前のやつなの……!
そうよ、さっき何か変だと思ったわけだわ。イースト・アーレから東、って――!」
こじんまりとした路地のような道を飛び出したエリーゼの前に広がったのは……。
別天地かと見紛うばかりの、中央に植え込みの分離帯まで作られている、小綺麗に整備された広い道路だった。
「最近、道路の整備・拡張工事が終わって、通りが良くなったところだったのよ!
あたしもこっちの方って滅多に来ないから、すっかり忘れてた……!」
「じゃ、じゃあお姉ちゃん……!
もしかして、ここまで入り組んだ道を走ってたのって逆に……!」
目を丸くしたロイの言葉に反応するように、群れ連なる激しい排気音が――獣のうなり声が、エリーゼを取り囲む。
「そう――。
コイツらに、先回りさせる余裕を与えたってことよ、べらんめー……!」
知らず、マキは眉間にしわを寄せながら唇をなめていた。
……前方からは凝り固まった闇が――黒い車が、何色ともつかない眼を爛々と輝かせて突っ込んできている。
激突を連想する恐怖心はとっさにブレーキを訴えるが、後方からも追っ手がかかっている以上、そうすることはさらなる窮地を招きかねない。
理性より本能的な危機感でそれを察したマキは、半ば反射的に、むしろさらにアクセルを踏み込んで、黒い車へと向かっていった。
「――ッ!」
圧倒的なまでの相対速度が、互いの距離を、コマ飛びした動画のごとく一瞬で縮める。
しかしそれでも距離感をつかみ取ったマキは、黒い車と中央分離帯のわずかな隙間にエリーゼを滑り込ませた。
サイドミラーが黒い車体を削り、はっきりそれと分かるオレンジ色の火花を散らす。
瞬間、抜けた――と、マキの気がわずかにゆるむ。
油断とも呼べないほどの心のスキ。
しかしそれが、分離帯の植え込みを向こう側から突き破り、いきなり前方に躍り出てきた新手に対する反応を遅らせる。
それはわずかゼロコンマ数秒――しかしこの状況にあっては、致命的な時間の空隙だ。
「ティータッ!!」
「ひゃいっ!」
現在の緊急事態を招いたのは自らの案内ミスによるものだという、自責と悔恨でパニック状態にあったティータは、すっとんきょうな声で呼びかけに答える。
その声はすでに悲鳴に近く、マキは自分の意志が伝わったのか、願ったとおりの働きをしてくれるのか不安にかられたが……それを問いただすことはもちろん、別の手を講じる暇も当然無い。
エリーゼは分離帯と、前方に出現した新手の間に存在する、車一台分などとてもない狭い空間へと勢いを殺すことなくそのまま突進する。
無謀な突撃に、ロイは衝突の衝撃を察して震え上がるが、目を閉じる猶予は無い。
しかし――。
その瞳に映ったのは、潰され、砕け、舞い散るフロントガラス――ではなかった。
「あ――!」
瞬間、淡い虹色の、オーロラを思わせる光のヴェールをまとったエリーゼは。
黒い車を強引に巻き込み、弾き飛ばし、通れるはずのなかった空間を貫いたのだ――車体そのものが、勢いをつけた騎兵のもつ騎上槍のごとく。
……そうしてようやく、エリーゼの前方がクリアになる。
「――ふうー……。
障壁張れるとか、いかにもとんでもない話だけど……事前に聞いておいてよかったぁー……!」
マキは肺の中の空気をすべて吐き出すような大きな息をつくと、ダッシュボードでうなだれたままのティータをなでてやった。
「大丈夫、今のはちゃんとできてたよ、よく頑張った。だから元気出しなさい!」
「あ……うん、そうだよ! すごかったよ!」
マキに続き、ロイからも激励されてティータは、ようやく気を取り直して顔を上げた。
「えへへ……はいぃ~……!」
「よーし、この調子で後ろの連中も振り切っていくよ」
「あ、はいーっ!
――でもあねさま、息を潜めてるみたいではっきり居場所や数は分からないんですけど、ケテル山方面に複数の悪魔の気配を感じますー。
多分、色んな場所で待ち伏せしてるんじゃないかって……」
「……フム。まあ、そりゃそうか。
悪魔にしてみりゃ、一つ所に集まってはいスタート、なんて行儀良くしてやる義理もないわけだし。群れ一つ突破したからって気を抜くわけにもいかないわけね……。
で、ティータ、さっきの障壁、もう一回張れる?」
油断なく標識や地図に目を遣りつつ、人気の無いがらんとした道路をケテル山へとひた走りながら、マキはティータに尋ねる。
ティータは申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんなさい、さっきので神力、ほとんど使い切っちゃいましたから……。
もうしばらく、回復するまでの間はムリですー……」
「んー……一気に回復しちゃう便利な回復アイテムみたいなのは……ない、よね?」
「そんな便利なもの、ありゃしないですー。
ミートボール味のトリュフチョコとか、ホワイトシチュー味のカレーとかぐらいにありえないですー」
「…………。
それ、つまりはカタリナなら作れるってことか……?
え、じゃあアレ、魔界料理どころか天界料理ってワケ……?」
実際にその『ありえない食品』を食べたことのあるマキは、思わず頬を引きつらせていた。
そこへ――ティータが何かに気付いたように、唐突にダッシュボードの上で立ち上がる。
「! あねさま、来ますっ!
次の十字路、左右からですーっ!」
脇道に入って回り込むか、挟み撃ちされる前に駆け抜けるか――。
地図に浮かんだ光点の速度と、エリーゼの速度を一瞬の間に天秤にかけたマキは、どうするかの返事の代わりにアクセルを一杯に踏み込んだ。
左右から急速に近付く光点は、やがて実際に黒い車として視界に入るや否や、獣の顎のごとくエリーゼを噛み砕きにかかるが、すんでのところでかわして駆け抜ける。
背後に車の正面衝突による轟音を聞きながら、ふぅと小さく息を吐いたマキはしかし……。
自分たちが顎を潜ったのは口内からの脱出ではなく、むしろ喉の奥へと飛び込んでしまったのだとすぐに理解させられた。
ティータが注意を促すより早く、地図には光点が急速に浮かび上がり――いやそれを確かめる間もなく、前方から、脇道から、建物の陰から――視界のあらゆる方向から、一斉に黒い影が文字通りに飛びかかってくる。
「べらんめー……っ!
アンタらなんぞにモテたって嬉しかないってのよっ!」
広い車線を利用して車体をこまめに振り、右へ左へと、襲い来る悪魔を紙一重でかいくぐって走り続けるエリーゼ。
「弾幕系のシューティングゲームじゃあるまいし……! このままじゃ……!」
障壁を張って一気に囲いを突破できれば、とマキはちらりとティータを見やるが、当然のように、まだ無理と言う代わりにティータは首をぶんぶん横に振る。
今は何とか処理できているけど、集中力が切れたら終わりだ――。
すり減る神経に息が詰まる思いでいたマキは……息継ぎを求めて水面に顔を出すように、半ば反射的に、悪魔の影が無い方向へとエリーゼの舵を切ってしまう。
瞬間、ロイが声を上げた。
「! お姉ちゃん、こっちはダメ!」
「――え?」
ようやく、何とか一息付けると安堵していたマキ。
その頭から冷水を浴びせる言葉を、続けてティータが口にした。
「こっちは高速道路に上るんですー!
ここからだと、一番近い出口まででも結構な距離があって……もし挟まれたりしたら……!」
「なっ――!」
反射的にターンして引き返そうと、ミラーを確認するマキ。
しかし――。
長方形に切り取られた光景の中にはすでに、街の灯りとは趣を異にするあの爛々と輝く獣の眼が、幾重にも連なって存在していた。