8.いったい誰なら良かったというのかしら?
「はぁ……これだけみっちり運転すると、さすがに疲れる……」
マキは部屋の電気をつけるとその足で、着替えもせず、バッグを放り出しながらばったりベッドに倒れ込んだ。
生まれ変わったという愛車の感覚を掴もうと、ラファエルの工房を出て家に帰るまでに時間をかけて、近場をぐるぐると回ってきたのだ。
その成果は、上々と言って良いものだった。
超常の力で基本性能が飛躍的に上がっているにもかかわらず、運転感覚そのものは以前どおり――いやむしろ、より思ったとおり動かせるようになっていると感じたほどだ。
それは機械聖霊のティータいわく、魂の導き手は聖者仕様車の運転において、車体に込められた神力と同調し、反射神経や動体視力といった能力が向上するから……であるらしい。
ともかく、愛車が正しく『帰ってきた』ことを実感できたのは、マキにとって嬉しいことだった。
少しばかりやかましい同乗者が増えたものの、それは賑やかになったとも言えるわけで、正直悪い気はしない。
だが……逆に、つい今まで賑やかだった、その反動か――。
静かな部屋でベッドに転がると、この数時間はあまり考えずにいられたことが、より存在感をもって脳裏に浮かび上がる。
「ロイ……大丈夫かな」
ごろりと寝返りを打ったマキの視線は、自然と壁のカレンダーに向いていた。
この数日の日付を目で追い、ロイの体調が悪化し、面会さえ満足に叶わなくなって今日で何日になるかを、自然と数えてしまう。
「早く持ち直してくれればいいんだけど……」
落ち込んでいたって仕方ない、ともかく着替えよう……と身を起こした瞬間。
ベッドに放り出していたバッグから、スマートフォンの呼び出し音が鳴り響いた。
「――!」
明確な理由があったわけではないが、予感めいたものに急き立てられ、慌てて電話に出るマキ。
電話口から響いてきたのは、つい数時間前に聞いたばかりの、女のような男の声だった。
『どうかしら、マキ?
エリーゼとティータの調子は』
「ああ……何だ、オネエ天使?
エリーゼとティータの調子、ね……うん、いいと思う。
何だかんだで今までと同じように走らせられるから、ドリフトのたびにティータが奇声上げるのを除けば、違和感もないし」
『それはなによりですわね。
……では早速今から、初仕事をお願いしたいのですけど』
「ああ、うん――って、い、今からぁっ?」
知らず声を裏返らせながら、ベッドから立ち上がるマキ。
『……ええ。予想外に闇が深まるのが早くて。
わたしたちとしても、もう数日は猶予があると思っていたのですけどねえ』
「そ、それにしたって、いきなり今夜だなんて……!」
『ふーむ……。
やっぱり、迷っているのかしら?』
「だって、それは……それはそうでしょ?
世界がどうなる、なんてスケールの話はさすがに想像つかないけど……失敗したら、たとえあたしが無事でも、誰かが悪魔の贄とやらで犠牲になるって言うんだから。そりゃあ怖いわよ……」
ふーむ、とカマエルがさらにもう一つ唸る。
『まあ……確かに貴女にとっては、まさに急転直下の超展開ですものねえ……。
いろいろと説明したのもついさっきのことですし、はっきりきっぱり覚悟を決める時間も無い、といったところかしら。
正直なところわたしたちも、なかなか厳しいタイミングかな、とは思っていましたから……。
どうしてもムリだと貴女が判断するならば、今回については無理強いもしませんわ。
厳しいですが、わたしたちで何とかしてみますから、やめておいてもかまいません』
「え……やらなくてもいいの?」
『浮き足立ってる状態で無理をさせて事故られでもしたら、それこそ大変ですもの。
先々のことを考えるなら、今日は棄権もやむなしというわけ』
「……そう」
マキはほっとため息をつく。
だが……そうしてすぐ、そんな自分に嫌悪を覚えた。
今夜悪魔に追われるだろう誰かのことは完全に頭に無く、ただ自分の安全を認められたことだけに安堵してしまったのが、ひどく身勝手と感じたからだ。
しかしそうは言っても、カマエルの言うように未だ心が地に着かず、踏ん切りがつけられない自分では、その誰かを助ける自信が持ちきれないのが事実だ。
ただ、何もかもを知らなかったことにするのは、あまりに薄情な気もして、マキは今日の仕事について尋ねることにした。
最低限、今夜起こることだけでも知らなければ――そこから目を逸らしたりすれば、それこそ今後も、ゴーストキャリアーとしての覚悟なんて一生できない気がしたからだ。
『今夜、貴女にお願いするつもりでいた仕事……?
そうね……話しておきましょうか。貴女には知っておく権利があると思いますし。
今宵貴女には、こぼれ落ちた魂を連れて、先日貴女がガブリエルの指示で目指したのと同じ、ケテル山中腹のヴィアーハ湖へ向かってもらうつもりでした。
そしてその、救うべき魂は――』
カマエルの高い声が、しかし普段と違った様子で、一人の名を告げた。
それを聞いたマキは――文字通りに絶句する。
目の前が真っ白になるという感覚を、彼女は否応なく自覚させられた。
「……冗談、でしょ……?」
『いいえ、残念ながら。
――神の御手よりこぼれ落ちた魂の名は、ロイ・ドレフィス……貴女の良く知る、あの少年ですわよ。
彼は生死の境をさまよううち、魂が肉体から離れてしまい……そこを闇の力により、御手から引きずり降ろされてしまったようです』
「………。どうして……」
『マキ?』
「どうしてなの? あの子、あんなに頑張って……! なのにどうしてよ!
アンタたちならあたしみたいに、あの子だってもっと早くに助けられたんじゃないの?
こんなことになる前に! そうすれば――!」
マキは思いの丈を電話口にぶつける。
足の速い感情が、止める間もなく大挙して彼女の口をついて出ていた。
『……では逆に聞きますけれど、いったい誰なら良かったというのかしら?
マキ、貴女の意に添う人間だけは助けていればいいのかしら?
貴女と知り合う機会のなかった、けれども同じように日々を懸命に生きている、他の善良な命ならば構わない、と?』
返ってくるカマエルの声は低く、透き通るように冷静だった。
途端に、マキの声と主張は失速する。
「……それは……」
『貴女の思いは分かるわ。いい子なのにどうしてこんな目に、と。
――ならばこそ』
カマエルの声に、熱と力がこもる。
それは電話口であってなお、同じ人間では到底持ち得ないだろう迫力をまとっていた。
『貴女は、貴女にしかできない、貴女のなすべきことに全力をもってあたるべきではないかしら。
先に言ったように、貴女自身がどうしてもムリだと判断するなら、それも仕方のないことですけれど――すべては貴女次第なの。
……まだ少しは時間もあります。どうしたいのか……良く考えなさいな』
それだけを告げて、カマエルからの通話は切れる。
マキは沈黙したスマートフォンを見つめたまま、歯噛みしていた。
――自分が行かなくても、カマエルたちが何とかしてくれるかも知れない。
でも天使は地上で満足に力が使えないらしいし、厳しいとも言っていた。
……じゃあ、自分が行ったらどうだろう。
人一人の魂を背負って、走る? それもロイの。
そんな重圧に耐えて、しかもあのバイパーのような悪魔を相手に、本当に逃げ切るなんて可能だろうか。
ゴーストキャリアーになれって、つい先日そんな風に言われただけなのに……?
「……そんなの……!」
ぐるぐると回り回って、結論の出ない思考に、いつもの悪態すらもれない。
……部屋のドアが、控えめにノックされたのはそんなときだった。
「――あの、マキさん、いいですか?」
「え、あ、カタリナ? う、うん、いいよ」
とりあえず考え事は頭の隅に押しやり、深呼吸を一つして自分を整えてから、マキはカタリナに入ってくるよう促す。
失礼しますと姿を見せたカタリナは、まだ仕事中というつもりなのだろう、部屋着ではなくメイド姿のまま……ティーポットにカップ、そしてお茶請けらしいクッキーが乗ったトレイを運んできていた。
「お疲れのようでしたから、お茶と甘い物でも、と」
「うん……ありがとう」
力無く礼を言い、ベッドに座り直したマキは、カタリナが手早く準備してくれた紅茶を口にする。
そして、ほうっと大きく息をついた。
「クッキーもどうぞ?
わたしが焼いてみたんですけど」
笑顔のカタリナの発言に、一瞬、反射的に伸ばした手を止めるマキだったが……それ以上迷うこともなく、つまんだクッキーを口に放り込んだ。
「あ……。
甘くておいしい……当たりだ」
続けて二つ、三つとクッキーをほおばるマキ。
その姿を、カタリナはただ微笑みながら見守っていた。
「ねえ……カタリナ」
唐突に、手を止めてぽつりと自分を呼んだマキに、カタリナはただ「はい」と答える。
「あたしに、人を救うような資格って……あると思う?」
「あるもなにも……すでにマキさんは救っているじゃないですか。
……わたしを」
マキの、それこそいきなりの問いかけにも、カタリナは動じる様子はなく、穏やかな声を返した。
「正確には、旦那様も、ソウ君も含めた、アーロッド家の皆様が……なんでしょうけど」
「救う、って……。
それはまあ、パパは確かに、身寄りのなくなったあなたを引き取りはしたわけだけど……」
「ええ。でも、それだけじゃありませんよ。
ただ生活を援助するというだけでなく、皆様はわたしを家族として受け入れて下さいました。
父を亡くし、一人ぼっちで、ともすれば道に迷いそうなわたしを、ここにいていい、ここにいれば大丈夫だ――って、優しく包み込んで下さいました。
その優しさに、わたしがどれだけ救われたことか。
いえ、今も――ですね。今もどれだけ救われているか。
どれだけ感謝しても、しきれないほどなんですよ」
「そんなの……ただそうしてあげたいって、そう思っただけだし……」
「それだけじゃないですよ。
ついこの間も、ソウ君とわたしを、危険を顧みずに助けに来てくれたじゃないですか」
戸惑うマキに、カタリナは満面の笑顔を向ける。
「……わたし、あのとき、颯爽と駆けつけてくれたマキさんを見て、おとぎ話に出てくる『魂の導き手』みたいだって思ったんですよ」
「え、っと……お、大げさねえ、もう。
……あのときは、何て言うかその、ただ、あなたたちを助けないとって、必死だっただけで……」
「それなら、それでいいじゃないですか」
トレイのクッキーを、自分も一つパクリと口に放り込み……。
カタリナはイタズラっぽく首をかしげて見せた。
「誰かを助けるのに、そもそも資格も何も無いと思います。
わたしを家族みたいに迎えてくれたように、あの黒い影から助けてくれたみたいに……。
そうしたいって、そう思って行動するなら……それがすべてなんじゃないでしょうか」
「…………そっか」
マキは思わず立ち上がる。
カタリナの穏やかな声は、静かに、しかし確かに、彼女の心を揺さぶっていた。
――あたしは、何てバカなんだろう。
ゴーストキャリアーとしてとか、それこそどうでもいいことだった。
失敗したらとか、考えること自体間違いだった……!
「ああ……ホント、本当に正論だよカタリナ。
べらんめー……っ!!」
いつもの悪態をついたマキは、それを自分自身への叱咤として全身に染み渡らせるように……まだまだ熱い紅茶を喉の奥へと一気に流し込む。
そうして、カタリナにカップを返すときには、ついさっきまでのただ消沈していた様子と打って変わって――。
不安を見せつつもそれを噛み殺すような、引き締まった顔をしていた。
「……ありがとう、カタリナ。
おかげで、ちょっと踏ん切りついたよ」
「お役に立てたなら良かったです。
ソウ君から、マキさんの力になってあげて欲しいってお願いされてましたから。
――って、ついさっきのことですけどね」
カタリナは微笑む。
「そっか……ソウが。まったく、一丁前に」
気恥ずかしそうに背を向けたマキは、クローゼットに手を伸ばした。
そして、吊されていた修道服に手早く着替えると……今度はベッドサイドに置かれた小さな装飾箱から、一枚の手拭いを取り出す。
精緻な紋様の中に、アーロッド家の家紋ともう一つ、別の家紋が染め抜かれたそれは、染め師、先代姫柄山蒔右衛門の手になる、和手ぬぐいだ。
「あ、それ……確かマキさんのお母様が、旦那様との結婚の際、恩人でもある職人さんから、お祝いで頂いたっていう……」
「そう。
……わたしにとって、一番の勝負アイテムってところかな」
いつもの黄色いリボンを取り去ると、マキは代わりに折りたたんだ手拭いで――長く美しい黒髪を、改めてポニーテールにまとめなおした。
――ママ、お願い。
どうかわたしに、勇気と力を……!
戦装束――そんな単語がふと脳裏をかすめたが、気持ちはまさしくそのとおりだった。
「それじゃカタリナ……ちょっと出かけてくるから」
「はい――行ってらっしゃい。お気を付けて」
深くは聞かず、笑顔で送り出すカタリナ。
マキはもう一度礼を言うと、確かな足取りでガレージへと向かう。
そして、つい先ほど休ませたばかりのエリーゼに、再び乗り込んだ。
「ティータごめん、お休みには早かったみたい。
……初仕事よ」
言いながら、スマートフォンをダッシュボードに放る。
座っていたティータは、自分の身体ぐらいの大きさがあるそれを、立ち上がりざま素早くキャッチすると……くるりと身をひるがえしながら、ホルダーに収めた。
「きゃおー、お仕事ですね? がんばりますー!」
「……いい返事ね。期待してる」
ティータの頭をぽんぽんとなでると、マキはキーを回した。
目覚めたエンジンが静かに車体を揺らす。
乗り手の戦意のままのそれは――武者震いか。
(……待ってて、ロイ……絶対に助けてみせるから……!)
思いをのせて踏み込まれるアクセル。
それに呼応し、一際甲高い排気音――。
いざ戦いに臨む戦士の鬨の声が、夜空を突き抜けんばかりに轟いた。