7.俺ぁ信じてるぜ。アイツはやる奴だってな
「こ、これで、とうとう20連敗……」
コントローラーを握り締めたまま、ソウは呆然とつぶやいた。
リビングに置かれた35インチモニターの中では、見栄も恥もかなぐり捨て、とにかく勝ちに行くつもりで選んだキャラクターが、彼の心情そのままに無様に倒れ伏している。
「ふふふ、もうこれで『格闘ゲームは本当にヘタ』とかバカにさせませんよ、ソウ君?」
そしてソウの隣では、同じくコントローラーを握っていたメイド姿のカタリナが、いかにも得意げにほくそ笑んでいた。
「あー、もう!
言わない、もう言わないって! 俺が悪かったよ!」
コントローラーをソファに放り出し、そのままの勢いで降参と両手を挙げるソウ。
「まったく、ホント、ちょっと前とは別人みたいだ……なにやったの?」
「別に変わったことをしたわけじゃありませんよ? ひたすら練習したんです。
とことん一人用をやり込んだり、延々ネット対戦を繰り返したり。
……ああ、あとマキさんにも、何日かみっちり付き合ってもらっちゃいました」
コントローラーをテーブルに置きつつ、ニコニコと楽しげに答えるカタリナだったが、その『練習』が、むしろ特訓とか修行とかいう単語の方がふさわしいような、恐ろしいまでの密度のものであったろうことは、ソウにとって想像に難くない。
もっとも――その爽やかな笑顔が示すように、カタリナ本人はそれを苦だとはまったく感じていなかったのだろうが。
(……まあ、本人はそうでも……付き合った姉さんは大変だっただろうなぁ……)
以前、姉が朝からやたらとげっそりとしているときが続いたが、それはこういう理由だったのかと納得するソウ。
一方、上機嫌だったカタリナの表情には、気付けば陰りがさしていた。
「マキさんと過ごすの、すごく楽しいですから。
もうちょっと甘えちゃおうかな、って思ってたんですけど……さすがにここ一週間は遠慮してしまいました」
「……ああ。まあ……分かるよ」
カタリナの言わんとしていることを察し、ソウは小さくうなずく。
「姉さん、普段通りに振る舞ってはいたけど、正直元気なかったもんな」
「やっぱり、お母様の形見の車が壊れたことは、それほどにショックだったんでしょうか」
カタリナの問いに、ソウは少し考えてから、首を横に振った。
「そりゃあショックだっただろうけど、そろそろ直るって話だったし、それが一番の理由じゃないと思う。
多分……だけど、最近お見舞いに行ってたっていう病気の子のことじゃないかな」
「あ、病院にお見舞いに行ってるってお話なら、わたしも聞きました」
「うん。……どうも、その子の容態があんまり良くないらしくてさ。
この数日、お見舞いに行っても会えないって姉さん言ってたから……そのせいだと思う」
「そうなんですか……心配ですね。
特にマキさん、お優しいですし……」
カタリナの発言に、ソウはこれまでと違って少し間を空けてから、ようやく同意した。
「……そうだね。姉さんはまあ……優しい、と思うよ。
そのー、世間一般的な分類からすれば、そっちの方に分けられる――かな。
うん、まあ、どちらかと言えば」
ソウのあいまいな物言いに、カタリナは「もう」とクスリと笑う。
だが続けて言葉をつむぐソウの表情は、真剣なものになっていった。
「でも、きっとそれだけじゃない。
知り合ったばかりの子をそこまで気に掛けるのは、きっと姉さんがその子に、姉さんだけが分かる『何か』を感じたからなんだと思う」
「……何か」
カタリナは口の中でその一言を繰り返した。
「カタリナがウチに来る前のことだけど、話ぐらいは聞いてるだろ?
姉さんが子供の頃病気で死にかけたことがあるって。
本人いわく、実際に本当のギリギリの境界線まで見てきたらしいよ?
だから……きっと姉さんは分かるんだ。昔の自分と同じような状況にいる人のこと。
ただ、もう助からないとか、そういうんじゃなくて――危ないけれど何とかなる、何とか出来るはずだって、多分、そういうのが。
微妙に抜けてるところがあるから、姉さん自身、自覚は無いかも知れないけど……それで放っておけなくなって、ついつい深入りしてるんだと思う」
「……そうですか。でもそれってつまり、やっぱりマキさんの優しさですよね?
何とかできるはずなんだから、そうなるように手助けしてあげたい、っていう」
「お人好しが過ぎるだけだよ」
ソウは少しぶっきらぼうに言い放つが、カタリナは優しく微笑んでいた。
「なら、こんな風にマキさんのことをしっかり見て、その想いを尊重して、深入りは止めるように口出しをすることもなく、やきもきしながら心配している誰かさんもまた、行き過ぎたお人好しというわけですね」
「お、俺はほら――姉さんが本調子じゃないと、家のこと、主にご飯が色々と大変って言うか……。
いやいや、カタリナのご飯が悪いとかってわけじゃもちろんないんだけど……」
気恥ずかしそうに、慌てふためくソウ。
しかし傍らのカタリナが、それでもまるで変わらず微笑みを向け続けてくれているのを見ると、何かを観念したように一つため息をついて、その笑みに向かい合った。
「カタリナ……姉さんのこと、お願い。
多分、俺よりもずっと上手く、力になってあげられると思うからさ」
「ええ、分かりました。
そのときにはソウ君も心配してること、ちゃんと伝えますから」
「そ、それはいいって!……まったくもう。
――あ、ほら、まだ時間あるんならもう一勝負しよう!
さすがにこれだけやって勝ち星ナシなんて冗談じゃないから!」
「いいですよー?
でも、連敗記録が30に延びたって、スネちゃダメですからね?」
ずいっと突き出されたコントローラーを取り、カタリナはまた――今度は悪戯っぽく微笑んだ。
* * *
ほんの数時間前までの喧噪が嘘のように、静まり返ってがらんとした工房内を見やりながら……ラファエルは、新しく煎れた濃いめのコーヒーをすすっていた。美味そうに。
「とりあえず、これで俺の仕事も一段落ってところか……」
つい先日まで、エリーゼの修理と改造で大忙しだった彼は、その大仕事を終えた今、何とも手持ち無沙汰な気持ちでいた。
傑作が仕上がったという達成感とともに、そこはかとない寂しさもある。
「こういうところは、人間も天使も変わらんってことかねえ」
苦笑混じりに、何気なく作業机の工具をいじっていた彼は、スマートフォンの呼び出しに我に返る。
画面に映し出されたのは、見慣れた彼の姉、ガブリエルだった。
くたびれた子供用パジャマにどてらという、怠惰な格好こそいつも通りながら、その表情はいつになく真剣だ。
「おう、どうしたよ姉貴。
……なに? 大変なことになった?」
ラファエルはいぶかりながら、送られてくるメッセージに目を通す。
そしてその内容に思わず、手の中の工具を放り出していた。
「おいおい、おいおいおい!
まさかこのタイミングで、かよ……。
悪魔どもが意図的にずらしたんじゃねえだろうな、まったく……!
え? さすがにそれは無い?
――いや、そりゃ分かってるけどさ、さすがに勘繰りたくもなるってもんだろ。
まあ、エリーゼの修理が終わってたのは不幸中の幸いだろうが……マキの奴が対応出来るかどうか……いかんせん、新人にとっちゃツラい状況だな」
眉間に皺を寄せたまま、ラファエルは半ば惰性でコーヒーをすする。
当然、味はよく分かっていない。
「……ん? まあな……予定通りだったとしても数日中の問題だ、どのみち充分な時間があるとは言えねえが……さすがにクルマ受け取ってその日のうちに、ってのはなあ。
――ああ。だから、いざとなったら今回は俺たちで何とかするしかないってことなんだろう? その心づもりでいろ、と。
分かったよ、準備はしておく。……だがな」
ラファエルは、その厳めしい顔をずいっとスマートフォンに近付けた。
「俺ぁ信じてるぜ。アイツは、やる奴だってな」
ラファエルから逃げるように、ガブリエルが画面から離れたと同時に通話は切れた。
だがその最後、姉が置いていったメッセージに、ラファエルは満足そうに頷く。
画面に表示されていたのは、『わたしも』という一言だった。
* * *
「……よし、最終確認は以上だ。
全員、くれぐれもヘマすんじゃねえぞ?」
ブースの言葉に、大きなバンの中に集まった男たちは口々に答える。
その野卑な響きの中で一人、エドガーだけが、押し黙ったままうつむいていた。
「エドガー。お前も……分かってるよな?」
後部席を振り返り、ブースはエドガーの肩に手を置く。
「ここまで来て俺たちを売るとか、バカなことは考えねえでくれよ?」
「……そのつもりなら……とっくにやってます」
か細い声でエドガーは答える。
……そう、彼にそんな真似ができるはずもなかった。
息子の命を盾に脅すつもりではないと言っていたブースだが、それが口先だけなのは明らかだったからだ。
このビジネスを持ちかけられたその日から、息子の周りには、ブースの手下と思しき人物が常に付きまとっていた。
問い詰めれば、息子の様子を見守っているだけだと答えるが、これがロイを人質に取っているのと同義なのは、子供でも分かる。
だから、ブースの要求を断るわけにはいかない。
この『仕事』を降りるわけにはいかない。仕方がない――。
必死に自分に言い聞かせるエドガーだったが、それでも罪悪感はぬぐい去れないどころか、大きくすらなる。
――それは、マキという人物と会ってしまったからだった。
息子を元気付けてくれる優しい娘さん――ブースがデータを盗み出す手伝いをするということは、そんな恩ある彼女の家に……引いては彼女自身に、仇を為すことに他ならないからだ。
「……すみません……」
つい、ぽつりと罪悪感が口をついて出る。
それを聞き取ったブースはせせら笑った。
「何だ、会社に悪いとか思ってやがるのか?
そんな気にするようなことじゃねえだろう。
アリアドネ紡績なんざ、莫大なカネを儲けてやがるんだ。
ちょっとデータを盗まれるぐらい大した損害でもねえんだよ。
……だから、な? あんまり気に病むんじゃねえよ。
お前がヘタに感情に流されてヘマをしたら、俺の仕事は根本から崩れるんだからよ」
ブースは、エドガーの肩に置いた手に力を込める。
「そうなったら……なあ? お前の息子だって、どうにかならないとも限らんだろ?」
エドガーはハッと顔を上げる。
ブースは、口の端を歪めながら鷹揚にうなずいた。
「……ブースさん」
「ああ、何だ?」
「仕事は……言われたことは、きちんとやります。
だから……お願いです。
くれぐれも約束して下さい、息子には――ロイには何もしないと、どうか……!」
「ああ、分かっているとも。
当たり前だろう、俺はデータが欲しいだけなんだ、お前の息子は何の関係もねえよ。
……お前がしっかり手伝ってくれるなら、な」
エドガーは無言で何度もうなずき、そのままうなだれる。
こんな口約束、何の力も無いのは分かっていた。
だが、今の彼に見える道……それはこの薄っぺらい約束にすがりつくことだけだったのだ。
――自分はどうなってもいい。せめて、せめてロイだけでも……!
必死に、心の中で願い、祈るエドガー。
だが悲しいかな、彼は知らなかった。
その最愛の息子が、今まさに生死の境に立たされているのだということを――。