4.奇跡だって、タダってわけにはいかないみたいだから
「あれ……ソウ君?」
「や、やあ、カタリナ、お疲れさま」
級友たちと別れの挨拶を交わし、校門を出たところで、カタリナは自転車とともに壁に寄りかかっているソウと出会った。
「もしかして、わたしを待っていてくれたんですか?
ごめんなさい、わたし、約束していたことをすっかり忘れて――」
「あ、ああいやいや、違うよ! 約束はしてない。
ただ……昨日、あんなことがあっただろ?
だから、そのー……一応、教会にお祓いしてもらいに行った方がいいかな、って」
慌ててまくし立てるソウに、カタリナは「なあんだ」と安心したように微笑む。
「じゃあ、行きましょうか。
……実はわたしも、お祓いしてもらおうかな、って思っていたところだったんです」
「そ、それはちょうど良かった! うん」
本当は、朝、カタリナが父とそんな話をしていたのが聞こえたからなのだが、ソウは極力自然体を装って――しかしややぎこちなくうなずく。
「……えっと、姉さんがお世話になってる教会でいい?」
自転車にまたがったソウは、後ろの荷台を指し示す。
カタリナはもちろんとうなずきつつ一言礼を言って、いつものように腰を下ろした。
「そういえば、この自転車……」
「ああ、うん。昨日から置きっ放しになってたのを、学校終わってから速攻で取りに行ってきた。
撤去とかされてなくて良かったよ」
ソウはゆっくりと自転車を蹴り出した。
カタリナの通う高校の前はゆるやかな坂道になっているので、特に漕がなくても、ほど良いスピードが乗る。
「けど……まさか、本当に父さん、頭からあんな話を信じてくれるなんて」
昨夜、家に帰ってからの出来事を思い返し、ソウはつぶやく。
……父、フレデリックは、初めこそ帰宅の遅さを叱ったものの、正直に遭遇した出来事を話すと、苦労を労い、無事を喜んでくれた。
加えて、すぐさま知人のツテを頼りに、二人が厄介事に巻き込まれた場所に調査の手を入れてくれたのだ。
――もっとも、「影のような存在については、探りようがないかも知れない」と難しい顔をしてはいたが。
「そう言えば……旦那様が手配された調査の方は、どうなったんでしょう」
「それなら、さっき父さんに電話して聞いてみたけど……成果らしい成果は出なかったみたいだよ。
あの影はともかく、オレたちが聞いたことが、せめて犯罪を未然に防ぐ手掛かりにでもなってくれれば良かったんだけどなあ」
「そうですね……個人を特定できる名前とか、地名とかが聞き取れていれば……」
カタリナも残念そうにつぶやいた。
「あと……わたし、マキさんのことも心配です」
「姉さんか……大丈夫だとは思うけど……」
坂を下りきったところの交差点で、信号が赤になった。ソウはブレーキをかける。
――昨夜、二人よりもさらに大きく遅れて帰ってきたマキは、とりあえずエリーゼは修理に出したということだけ告げて、さっさと部屋に引っ込んでしまったのだ。
以来、朝に会ったときも、どこか心ここにあらずという雰囲気だった。
「まあ、あのエリーゼは母さんの形見でもあるわけだから……さすがにショックなんじゃないかな」
「そうですよね……」
マキの身に起きたとんでもない事実を知りようもない二人は、そうした予測に落ち着くしかなかった。
――もっとも、それも確かに原因の一つではあるのだが。
「――よし、決めた!
わたし、マキさんに早く元気になってもらうためにも、今日の晩ごはん、頑張って豪勢なものを作りますね!」
カタリナが努めて明るく言い放った決意に、ソウは「え」とも「げ」とも取れない潰れたうめき声をもらす。
あまりの衝撃に、信号が青に変わっているのもしばらく気付かなかった。
慌ててペダルを踏み込みながら、
「い、いや、でも、それだと、カタリナに気を遣わせたって、かえって気にしちゃうんじゃないかなあ、ほら、あの姉さんのことだし……」
などと、必死にカタリナの決意を解きほぐしにかかるが、それは彼が思う以上に固いもののようだった。
「だからといって、落ち込んでいるマキさんに食事の用意までお任せするわけにはいかないでしょう?
こういうときのためにこそ、わたしがいるんだと思います。
……大丈夫ですよ、どかんと任せて下さい!」
「あ、うん、そうだね……うん。――3割ぐらいは、大丈夫なハズだし……」
カタリナには間違っても聞こえないよう、小声でつぶやいてソウは、心の中で必死に姉に謝っていた。
* * *
カーテン越しでもなお強い、夕方近い午後の日差しを感じながら、ロイは父が持ってきてくれた雑誌の一つを読みふけっていた。
それは車の専門誌で、写真を見て楽しむ程度ならともかく、いかんせん子供が読むには難しいものだったが、ロイは苦労しながらも、文章にも余すところなく目を通していく。
しかしあまりに熱中していたためか、彼はベッドに近付く者がいることにまったく気が付かなかった。
「へー……ライトウェイトスポーツ特集か」
「――!」
不意をつかれ、弾かれたように頭を上げるロイ。
その視線がちょうど、彼の膝上に開かれた雑誌を横から覗き込んでいた、マキの視線とぶつかった。
「お、お姉ちゃんっ?」
「や、ロイ。約束通り来たよ」
にこやかに手を振るマキ。
対照的にロイは、ほぅっと大きく息をつく。
「びっくりしたあ……。ぜんっぜん、気が付かなかったよ……」
「あはは、ゴメンゴメン」
「――でも……約束、守ってくれたんだね」
「まあ、ね。昨日の今日じゃ、あんまりありがたみもないでしょうけど」
笑顔を見せたロイの頭を、マキはくしゃくしゃとなでる。
「……にしてもロイ、あなたずいぶん難しい本読むね。車、好きなの?」
「うん。乗り物はだいたい好きだけど、やっぱり一番は車かなぁ」
「へぇ、やっぱりオトコのコってことかな。
ウチの弟も、免許もまだなのにレースゲームとかやたらと上手いしなあ……」
「お姉ちゃんはどうなの? 車は好き?
免許とか、持ってる?」
ロイの問いかけに、マキは財布から免許証を取り出して見せる。
「……ほら。
あ、ちゃんと愛車も――」
つい勢いでそこまで口にしてから、事故ったばかりだったと悔やむマキ。
しかし時すでに遅く、ロイはしっかり食いついていた。
「へー……なになに、どんな車なの?」
「あ、うん……実は、コレ」
マキはロイの膝上で開かれた雑誌の、エリーゼの写真をつついた。
「ああ、でもこの写真は現行モデルのS2だから……もっと前、初期型のS1になるんだけど。
ここまでエッジの効いたフォルムじゃなくて、もう少し丸っこいやつだね」
「へぇ……でもエリーゼはエリーゼでしょ?
もっと普通の、軽自動車とかだと思った」
「おかしいかな?」
「ううん、そんなことないよ。どっちかって言ったら納得しちゃったかな。
なんか、お姉ちゃんに似合ってるもん、エリーゼ」
「え……そう?」
「うん。イメージ通りっていう感じ。すっごくカッコいい」
目を輝かせてマキを見上げるロイ。
その純粋な憧憬の眼差しに、マキは気恥ずかしそうにポニーテールをなでつける。
そうしているうちに、しかしロイはどうしてか、うつむいてしまっていた。
「……ぼくも免許取って、自分の車、欲しいな。それで、色んな所に行ってみたい」
ぽつりと、これまでの元気が嘘のように、寂しげにつぶやくロイ。
すっと視線を移し、夕日で赤く染まった窓の向こうを見やるその横顔は、影が差し、ひどくはかなんで見えた。
ともすれば、このまま消えてしまいそうな……そんなロイを、この場に留めようとするように、マキはそっと肩に手を置く。
「……行けばいいじゃない? それができる歳になったら」
「うん、そうだね。
――その歳まで、生きていられるなら」
「……ロイ……」
弱気なことを言うなと、叱咤激励するべきなのかも知れない。
しかしマキはそんな気にはなれなかった。
弱気でいいなどとはもちろん思わないが、幼少期に同じく死の淵を覗いた彼女は、そんな風に考えてしまうロイに、理屈抜きに共感したからだ。
「ね、ロイ……あのね」
呼びかけてから、それでもしばし迷い、大きく一つ深呼吸してマキは、意を決して続く言葉をつむぎ出す。
「あたし、実はね、子供の頃病気で死にかけたことがあってさ……」
「あ……うん、知ってる。ポーラ先生が話してくれた」
「そっか、なら話は早いね。
……うん、あのね、そんなあたしだからこそ分かったことがあるんだ。
正直、他の人に聞かれたら、病人相手に何言うんだって怒られそうだけど……でもこれは、誰でも知ってるってことじゃないし、とても大事なことだと思うから。――いい?」
こちらを向いてしっかりうなずくロイの目を、マキは真正面から見据える。
「覚えておいてほしいの。
あたしもあなたも――ううん、人でなくても。命って、生まれた以上は必ず死を迎える。
……けれど『死』ってね、みんなが言うようにつらいものでも、苦しいものでも冷たいものでもなくて――本当はむしろずっと暖かで、優しいものなの。
限りのある命を、文字通りに一生懸命生きた、その頑張りへのご褒美なんだ。
だからもし――もし、そのときが来ても、いたずらに怖がらないで。
胸を張って、堂々としてればいいの。
……大丈夫。苦しいことと闘って精一杯生き抜いた人に、非難されるいわれなんて一つもないんだから」
「お姉ちゃん……」
目をまたたかせるロイに、マキは優しく微笑み、うなずいて答える。
「棺桶に、片足どころか首まで突っ込んだあたしが言うんだもん。
――間違いない」
「……そっか――。そうなんだ」
ロイもまた、素直な笑みを返した。
「そうなの。実は――ね。
……でもね、だからって、自分から急いでそっちに向かっていくのはダメ。
最後の最後、もうどうしようもないってぐらいまで踏ん張ってれば、神サマが感動して、奇跡を起こしてくれるかも知れないから」
「お姉ちゃんも……そうだったの?」
「え、あたし?……そうね、あたしは――」
昨日までならその通りだと断言できたかも知れない。
しかし自らの余命を引き延ばした天使と会い、その真意を聞かされた今では、若干のわだかまりが邪魔をした。
(実際のところは、『借命』だったのよね……しかも悪徳金融まがいの押し売り。
まぁあたし自身が、何があってもって、生きることを強く望んだのは確かだし、奇跡と言えばそうなんだろうけど……)
「――お姉ちゃん?」
「どうだろうね……奇跡だって、タダってわけにはいかないみたいだから」
マキの言葉の真意をつかみかねるのだろう、ロイは難しい顔で首をかしげる。
気付いたマキは、慌てて顔の前で手を振った。
「ああ、ごめんごめん、変な言い方しちゃった。
その……待ってるだけじゃダメだって、そんな風に言いたかったんだ。
奇跡だって、それこそ自分で起こしてやるってぐらいじゃないと――ってね」
取りつくろうような形でついつい口をついて出た言葉だったが、思った以上に自分自身しっくりくることに、マキは内心驚いていた。
子供の頃、そんなことまで思っていたわけではなかったが、生きたいという願いは、それほどに強かったのかも知れない、と。
「そっか……うん。何だか、お姉ちゃんらしい」
「なにそれ、なんだか引っかかる言い方だなー。
いったいあたしのことどんな風に思ってるんだか」
二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。
「……ありがとう。何だかちょっと、楽になったって言うか……元気が出た」
「そう。うん、ならよかった」
マキはそっとロイの頭をなでてやる。
――病室のドアを開けて、ロイの父エドガーが姿を見せたのはそんなときだった。
「おや? あなたは……?」
怪訝そうに一瞬首をかしげたエドガーに対し、マキは自分から立ち上がると、丁寧に一礼する。
「昨日遊んでもらったシスターのお姉ちゃんだよ、パパ」
マキが自己紹介するのに先んじて発したロイの言葉を受け、エドガーは「やっぱり」と微笑む。
「初めまして、シスター。ロイの父で、エドガーといいます。
……昨日は、ロイが大変お世話になったようで……どうもありがとうございました」
「そんな、あたしも遊んでもらったようなものですから……」
「しかし、ここまで若くて可愛らしいお嬢さんだなんて思いませんでした。
中学――いえ高校生となると勉強も大変でしょうに、福祉活動にまで参加されるなんて、立派ですね」
「え、えーっと、あの……」
マキは気恥ずかしそうに苦笑する。
「あれ……でもお姉ちゃん、車の免許持ってるって言ってなかった?」
ロイの何気ない疑問に、エドガーは「え?」とマキの顔を見直す。
マキは苦笑した。
「あはは……あたし、母が日本人なせいか、ちょっと幼く見られがちなんです。
一応、これでも19です」
慌ててエドガーは謝るが、マキは気にしていませんと手を振る。
「むしろ、若く見てもらえて嬉しいぐらい――って、あ、すいません、あたし、まだ名乗ってませんでしたね。
……マキ=エモン・アーロッドです、よろしくお願いします」
「ああいえ、こちらこそ。
――ん? アーロッド……さん? それに、日本の……」
マキの名を聞いて何か思い当たったのか、エドガーは「あっ」と声を上げた。
「まさか、アーロッド会長のお嬢さんですかっ!?」
「えっと……それがアリアドネ紡績のフレデリック・アーロッドを指すのなら。
はい、あたしの父です」
「パパ、お姉ちゃんのこと知ってたの?」
首をかしげるロイに、エドガーは驚いた顔のまま何度もうなずく。
「パパがお仕事してる会社の、一番偉い人のお嬢さんなんだよ!
……すいません、知らぬこととはいえ、色々と失礼を……!」
「……そうですか、エドガーさんは、アリアドネ紡績でお仕事を。
――いえ、こちらこそ従業員の皆様にはお世話になっています。
皆様あってこその父、そしてあたしですから」
頭を下げたエドガーに、マキも改めて姿勢を正し、アリアドネ紡績会長息女としての挨拶を返す。
――が、それはすぐに柔和な表情に崩れた。
「ですけど、父は父、あたしはあたしです。
今のあたしは、昨日仲良くなった弟みたいな友達のお見舞いに来た、ただの大学生に過ぎません。
……なので、どうかお気遣いなく」
「それは……ありがとうございます」
マキに釣られて、エドガーも笑顔で応える。
「へぇー……お姉ちゃんって、お嬢さまだったんだ……」
「そう見えないでしょ?
友達にも弟にも、しょっちゅう『ニセモノ』だとか言われてるぐらいだし、あたし自身、ガラじゃないって思うしね」
ロイにイタズラっぽく微笑むと、マキは病室の時計を見上げ……。
そろそろ失礼します、と親子に暇を告げた。
「そうですか……今日は、本当にどうもありがとうございました」
「お姉ちゃん、またね」
「うん、またねロイ。
――それじゃ、失礼します」
ドアの前でもう一度一礼し、マキは病室を出て行く。
「…………」
その後ろ姿を見送り――それでいてなお、病室のドアから目を離そうとしない父の様子に、ロイは何か妙な感じを覚えた。
「……パパ?」
「え? あ、ああ、ごめんなロイ、まさかお嬢さんと会うなんて思わなかったから、まだちょっと驚いちゃっててな」
慌てた様子で、照れたように苦笑するエドガー。
だがその一瞬、父が悲しそうな――ともすれば泣きそうな顔をしたことを、ロイは見逃さなかった。