3.そもそも火のないところに煙は立たないんです
「そんじゃあ神父様、わしぁ今日はこれで失礼しますよ」
「ええ。また何かありましたら、いつでもどうぞ」
アーサーは聖職者らしい穏和な笑みを絶やさず、礼拝堂に残って話し込んでいた老人を送り出す。
日常的な悩みの相談などで人が多く訪れる時間帯であったが、今日はその老人を送り出すと、礼拝堂に残るのは彼一人となっていた。
「……たまにはゆっくりしなさいっていう神の思し召しですかね。
では、その意に添って一寝入りさせてもらうとしますか~……」
ぐーっと背筋を伸ばし、奥の私室へ戻ろうとするアーサーだったが……それを押し止めるように入り口の扉が開かれる。
「失礼――よろしいか?」
そう断って礼拝堂に現れたのは、スーツを華麗に着こなす、若く美しい女性だった。
普段来る近所の人々と違って見覚えのない顔だったが、アーサーは気にすることなく笑顔で迎え入れる。
「ええ、もちろん。
……さて、どうなさいました? お祈りですか?」
「いや、あいにくと私は信者ではないのでな、礼拝でも懺悔でもない。
この教会の責任者である、説法が面白いと評判のマリーゴールド神父と話がしてみたくて立ち寄ったのだが……もしや、貴方がそうなのかな?」
「はい、僕がこの教会を預かっているアーサー・マリーゴールドです。
どうぞ、以後よろしく」
右手を差し出すアーサー。
女性はそれをためらいなく握り返した。
「やはりそうだったか。
……いや、年配の方かと思っていたのでね、少しばかり意外だったな。
ずいぶんお若いようだが、失礼ながら、今おいくつだろう?」
「はは、あなたのようなうら若い女性からそう言っていただけると嬉しいですが……僕ももう三十過ぎです、それほど若いわけでもありませんよ」
「だが、なかなかに波瀾万丈の人生を送ってきたと聞くが」
アーサーはにこにこと笑ったまま、へえ、と驚く。
「よくご存じですね。でもまあ、僕の場合は多くが生まれの問題ですからねえ。
その辺りの問題を片付けてこの道へ入るのに、少々手間取ったというだけなので。
波瀾万丈などとは、とてもとても」
言って、アーサーは女性に席を勧める。
客人がそれを受けて会衆席に腰を下ろすのを待ってから、彼自身も中央の通路を挟んで向かいの席に座った。
「それで、僕へのお話とはどのような?」
「……ああ。失礼ながら神父殿。
昨今の情勢を見るにつけ、私などの目にはこの世界、神による救いなどどこにも無いようにしか映らないのだが……貴方はそれでも、神の存在を信じていらっしゃるのだろうか?」
「おっと……もっとライトな日常的相談かと思っていたのですが。
なかなかに難しいことを聞かれますね」
「信者でもない者のぶしつけな問いに、気を悪くされたか?」
「いえ、そういうわけではありません。面食らったのは確かですが。
――ああ、ちなみに僕は当然の事ながら信じていますよ。
神は、確かにいらっしゃるとね」
ほんの少しの迷いもみせることなく、アーサーは力強くうなずいた。
「では……人間が負う苦難はそれすべて、神の思し召しであると?」
「んー……それは少し違いますね、僕からすれば。
確かに、苦難そのものを主の試練――それこそ思し召しだと受け取っていらっしゃる方も多いでしょう。ですが、そうではないと思うんです。
……創造主である神が、己の子たる人間の苦しみを喜ぶはずがない。
僕が思し召しだと感じるのは、あなたの言った『救いがない』というところなんですよ」
「ふむ。ということは、神は人に、敢えて苦難を与えることはしないが、受けた苦難に苦しんでいるからといって手を差し延べることもまたしない、と?」
真剣な顔で問い返す女性。
ステンドグラス越しに射し込む陽光を受けて煌めく金髪は、この世のものでないような美しさがあった。
ふと――もしかしたら彼女は天使なのではないか、とアーサーは思った。
自分の信仰を試しに、こうしていらっしゃったのかも知れない、と。
しかし、ならばなおのこと、自らの考えをきちんと正直に話さなければならない。
聞こえの良い嘘で取り繕おうとするなど、それこそ主を侮辱する行いだろう――。
アーサーは改めて気を引き締め、口を開いた。
「……ええ。主はただじっと見守っていらっしゃるんですよ。
きっと、『ああ、助けてやりたいなあ』なんてやきもきしながらね。
まあ、そうお思いなのにどうしてなかなか助けて下さらないのかといえば、それは、人間という種に対する老婆心だとお考えだからなのでしょう。
――僕はですね、人間がこうして一応進化と呼べるだけの歴史を刻めた理由は、主を信じつつも、主に頼り切るということをしなかったからだと思うんです。
でももし、主が人を救うべく御姿を現し、その力によって奇跡を起こしたらどうでしょう?
確かに、救われる人は多く出ることでしょう。ですが、望めば手を差し延べてくれる絶対的な存在がいるとなっては人は完全に堕落し、前に進むことを止めるに違いありません。
……少なくとも、今のままでは」
「……なるほど。
だが何もなさないということは、つまるところ神の存在の否定にも繋がるのではないかな?」
女性は厳しい顔で突き詰めるが、アーサーは揺らぐことなくにこやかに答える。
「そんなことはありません。そもそも火のないところに煙は立たないんです。
……たとえ御姿が見えなくとも、奇跡が無くとも、我ら人間の中に信仰というものが生まれた――その事実こそが、主のおわします、何よりの証拠と言えるのではないでしょうか?」
「それでは――君たち信者は何のために祈るのだ?
救いは期待できないのだろう?」
「――そうでもありませんよ?
主に祈ることにより、我々はその存在を身近に感じることができます。
それは確かに、直接何かの手助けになるわけではないでしょう……ですが、我々の心を支え、安らぎを与えてくれるのです。
……人が生きる上で、それってとても大事なことだと思いませんか?」
アーサーの答えを受けた女性は、目を閉じてしばし考え込んだが……。
やがてその厳しい顔を崩し、声高に笑った。
「ふふ――ははははっ!」
「……おや。
僕の考えは、そんなにおかしかったでしょうか?」
気分を害するでもなく、首をひねるアーサーに、そうではないと女性は手を振る。
「――いや、失礼した。
そうではない、神父殿が思った以上の論客だったもので、やり込めるつもりがしてやられたと思うとなかなか愉快でね。
……参ったよ、降参だ」
女性は両手を挙げ、仕草でも降参の意志表示をして見せた。
「……しかし何だな、神父殿。
その調子では、さほど熱心でない、ごく普通の信者には慕われても……厳しい上の立場の人間からはさぞ煙たがられていることだろうな?」
この発言を受け、アーサーも快活な笑いを上げる。
「あっはっは、いや、おっしゃる通りです。
セフィラの宗派はカトリック寄りとはいえ、相当甘いというか、ゆるい部類に入るんですが……それでもなかなか。まあ、あまり気にしていませんが。
あ、でも、こういうことを大っぴらに話していたってのは内緒ですよ、あっはっは」
アーサーが笑い終えるのと同時だった。
まるで会談に区切りがつくのを待っていたかのように、礼拝堂の扉が大きな音を立てて乱暴に開かれる。
何事かと振り向くアーサーたち。
その目に映ったのは、礼拝堂に文字通り飛び込んでくるマキの姿だった。
「ゴメン神父様、遅れちゃった!……って、あれ?」
会衆席に座る、見慣れない女性の姿に気付き、足を止めるマキ。
かたや当の女性は、ちょうど良い頃合いだとばかりに立ち上がる。
「なかなか楽しかったよ、神父殿。
また機会があれば、お話を拝聴したいものだ」
「ええ、こちらこそ。いつでもお待ちしていますよ」
もう一度アーサーと握手を交わすと、女性は颯爽ときびすを返す。
そして立ちつくしているマキのそばを通り抜けざま、「――可愛らしいシスターも。ごきげんよう」と含みのある微笑を浮かべながら言い置いて、礼拝堂から去っていった。
「…………。
今の女の人、誰?」
「僕の評判を聞きつけたとかで、わざわざ訪ねて下さったお客様ですよ。
お名前は――ああ、そう言えば聞きそびれましたね」
「あの人……何で普段着のあたしを見てシスターって分かったんだろ。
それに……何か、会ったことがあるような……」
怪訝そうに再度入り口を振り返るマキへ、アーサーは唐突に注意を呼びかける。
「……気を付けなさい、マキ君」
「――へ? い、いきなり何なのよ、神父様」
「あなたを見たときの、彼女のあの鋭い眼光……。
あれは、タダの女性のものではありませんよ」
「ちょ、ちょっと、それってどういう――?」
つい昨晩、悪魔に天使という超自然的な存在と遭遇したばかりのマキは、アーサーの持って回った言い方に、過剰な程の反応を見せた。
「つまりですね。あの方は――」
「あの人は?」
「そっちのケがあるに違いない、ということですよ。
……いやあ、目を付けられてしまいましたねぇ、マキ君」
「…………………」
「うーん、しかし……まだまだ色々お子様なじゃじゃ馬シスターと、妖しい雰囲気たっぷりのクールな美女、ですか……。
おぉ、想像するだに実に耽美な光景が――あだっ!」
締まりなく微笑むアーサーの額を、マキは思いっきり指で弾く。
「仮にも聖職者がつまらないこと言うんじゃありません」
まったく、と肩をすくめながら、しかしマキの表情はどこか安堵したかのようだった。
「――お帰んなさい、姐御」
二車線道路を挟んだ教会の真正面、その路肩に駐車していたジャガーから降り立った眼帯の男オーズは、教会の敷地から戻ってくる女性――サミアを、苦笑混じりに出迎えた。
「つい今しがた、礼拝堂へ入っていった娘っ子……あれが新しい運び屋ですか」
「そういうことだ。――行くぞ」
言葉短くそれだけを告げると、サミアは一足早くジャガーの助手席に乗り込む。
慌てて後に続き、運転席に座ってエンジンをかけるオーズ。
「――で、評判の神父とやらはいかがでした? 姐御」
穏やかに行き交う車の流れにジャガーを滑り込ませ、オーズははっきり面に出ているわけではないが、それでも幾分機嫌の良さそうなサミアに尋ねる。
果たしてサミアは、彼女には珍しい、さも愉快だと言わんばかりの微笑を浮かべた。
「なかなかに面白い男だった。
聖職者としては問題があるのだろうが……しかしよほど、天界の連中の考えを理解していたよ。皮肉なことにな」
「いやいや、そいつはまったく……確かに皮肉なこって」
「あわよくば、闇に誘うのも面白いと思ったが……あれでは無理だな」
前方の交差点の信号が赤になった。
オーズはゆっくりジャガーを停め、改めてサミアの横顔を見やる。
「……いやいや、そう言うわりにゃ、ずいぶん楽しそうな顔をしてますぜ?」
「そうだろうとも。
……ヘビは、抗う生き餌を丸呑みするのが好みだからな」
頭を窓にもたせかけるサミア。
前方では、横断歩道を様々な人々が、それぞれの目的のために行き交っていた。
「これだけいても、同じだけ活きのいいものがいるかどうか……」
「そいつぁ仕方ありませんやね。
……そもそもの元凶、『深淵』に闇を求めたのは他ならぬコイツら――人間たちなワケですから」
まるで子供の他愛ない悪戯を慈しむような、そんな微苦笑を浮かべ……。
オーズは信号が青に変わるのを待ってから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。