2.借りたものは、返すのが道理ですわよねェ?
「……むっ? な、なんじゃそら~っ!」
今日も今日とてマキに送ってもらおうと、講義の後、連れ立って駐車場へやって来た祥子は、マキがため息混じりにドアを開けた車を見て、裏返った声を上げていた。
「……なに、って。見ての通りのミニクーパーだけど。キライ?」
「い? いーやいやいや、日本じゃしょっちゅう見かけるからもちろん知ってるし、キライどころかむしろスキだけど、そうじゃなくって……。
――あの、エリーゼちゃんは?」
透き通った空のような青色をしたミニクーパーの、磨き抜かれたボンネットをさすりながら、祥子はマキの顔を覗き込む。
「……ふぅ」
「な、なに? もしかしてどこか壊れちゃったの?」
「まぁ……そんなトコ」
マキの投げやりな返事に、祥子は心の内で納得する。
朝からどことなく無気力なのはこのせいだったのか、と。
「それは何と言うか……お気の毒さま。
んじゃ、このミニクーパー、代車?」
「まあ、ね……。
さぁカブちゃん、あたしも忙しいんだから、乗った乗った」
祥子を急かし、早々に運転席に乗り込むマキ。
後を追って助手席に座った祥子は、シートベルトを締めながら、今にもエンジンをかけようとマキが握り直したキーを珍しそうに見やった。
「そのキーホルダー、エリーゼを修理に出してるお店のやつ?
……ふーん、水星のマークをデフォルメしてるのか」
「……ん? これって、そうなの?」
マキは手を止め、まじまじとキーホルダーに目を落とす。
銀のような材質のその小さなメダルには、体に比べて特別大きな頭をし、2本の角を生やした、小鬼の絵柄が彫り込まれていた。
「そーよ。……ほれ、女のコを表す、丸と十字をくっつけたマーク、あるでしょ? あんな感じのやつのてっぺんに、この小鬼みたく角を2つくっ付けるとだね……あら不思議、『水星』のマークになるってわけだ」
「……へぇ……。カブちゃん、さすがと言うか」
「そうかね? 結構みんな知ってると思うけど。
でもそれだけじゃなくって、ほら、そのメダルの縁に『ラファエルの工房・マーキュリー』って店の名前書いてあるし」
「あ……ホントだ。いちいち見てなかった」
「ラファエルって有名な天使でしょ? で、確か水星を司るって話もあったと思うから、それにならって、自分の名前から連想して店の名前をつけたってことでしょーな」
「自分の名前から――ね。
カブちゃん、まさにそれ言い得て妙……」
「お? おお……そうかい? そんなに?」
祥子の予想を越えて、深く深くうなずいて納得していたマキは、ようやくキーを挿してエンジンを掛ける。
駆動音はマキのエリーゼほど甲高く響くものではなかったが、同時に、手を加えられていない市販車のように大人しいものでもなかった。
「ああ……やっぱりターボはちょっとなあ……。
自然吸気特有の、あのハイトーンボイスでないと、盛り上がりに欠けるよぉ……」
「エンジン音をハイトーンて。あんたも根っからのメタルっ娘だねえ」
マキがダッシュボードから出してプレーヤーに入れたCDを目で追って、祥子は楽しげに笑う。
車輪のマークがロゴにあしらわれた、幻想的なジャケットデザインのそれは、日本のヘビーメタルバンドのCDだ。
「どの口が言うやら。留学仲間のメタル偏見に本気で噛み付いてたのはどこの誰?」
「そりゃー文句も言いたくなるってもんですぜ。『へぇー、鏑木さん、ヘビメタなんか好きなんだ、もっとトゲトゲしたカッコしなくていいの?』とかぬかしやがって。
なんかってなんだ、なんかって! ポップスがそんなに偉いってのか?
それに何だ、メタル好きは普通のオシャレするなってことか?
そもそもだ、ヘビメタとかダサい略し方するなってんだ、メタルって言え、バカにしてんのかー!」
助手席でじたばたわめき散らす祥子。
余計なこと言ったかな、とマキは少し後悔する。
「まあでもほれ、そうやってカブちゃんがメタル好きを貫いてたお陰で、あたしたちが仲良くなったってところもあるわけだし」
「……ンだね。メタルはヨーロッパが本場とは言え、まさか、このセフィラでソロネリアスのファンに出会えるとは思わなかったからねえ」
言って、祥子はマキがプレーヤーに入れたCDのケースを手に取る。
「…………。
早く現役復帰してくれるといいねぇ、エリーゼちゃんのハイトーン」
「ん。ありがと」
小さく礼を告げて、マキはCDをかける。
エンジンの音に負けじと、壮大なイントロ曲が始まった。
(さて……実際、あたしとエリーゼは、一体どうなるのやら……)
静かに車を駐車スペースから出しながら、マキは朝から何度となく思い返してきた昨夜の出来事を、もう一度頭の中で繰り返す。
……それは、たった一日で理解し、納得できるものではなかったから。
* * *
――昨夜、クラッシュしたエリーゼのそばで途方に暮れていたマキのもとに現れた、青年と少女の二人組。
彼らは、手配していたらしい作業車に手際よくエリーゼを牽引させると、マキも一緒に、古色蒼然とした街並みが続くホッド地区の、工場と言うよりは工房という表現がぴったりな、レンガ造りの小さな修理屋『マーキュリー』に連れていった。
そして、その軒先で……何の疑いも抵抗も無しにそこまで付いて来てしまったことを不思議に思うマキに彼らは、自分たちが人間ではなく『天使』であることを告げたのだ。
「……はぁ? て、天……使ぃ?」
「その通り。わたしはカマエル。そしてこのコが――」
「今はカマエル兄様の補佐を務めています、サリエルです。
よろしくお願いします」
身をひるがえしながら気取った仕草で挨拶するカマエルに対し、サリエルはごくごく普通に丁寧に、マキに対してペコリと頭を下げる。
「は、はぁ、テンシ……ねぇ……。
そうデスカ、あははー……」
「…………。
何だか思いッきり、『うっわ、フリフリの見た目からしてアレなのにこのオネエ野郎、自分で天使とかぬかしやがったマジヤベー』って目をされてますわ、サリー」
「アレな自覚、あったんですか……兄様」
心底意外だ、と言わんばかりに目を丸くするサリエル。
「あら、それは違いましてよ、サリー?
これはね、偏見に満ちた悪意ある客観的意見の中でも最も極端なものを一例に挙げただけで、自覚とは違いますの、自覚とはー」
ニコニコと顔だけ笑いながら、カマエルはサリエルの頬をぐにぐにと引っ張る。
「ふ、ふいまふぇん……」
そんなやり取りを見ていたマキは、そこで声を荒げて強引に割り込んだ。
「えー、すいません、盛り上がってるところ悪いんですけどっ。
その偏見に満ちた悪意ある極端な客観的意見の持ち主に、天使サマが一体何の用だって言うんですか?」
「……あら、聞いてくれるの? 自称天使のお話」
「もちろん本心から言えば、さっさとおいとましたいですけどね。
エリーがあれじゃあ、動きたくても動けませんから」
腕を組んで、ちらっと修理屋の作業場に運び込まれたエリーゼを見やると、マキは声のトーンを一段低くする。
「――で、あたしに一体何の用なの。
車を運んでくれたことへのお礼なら、もちろんするつもりはあるけど、そっちが勝手にやったことだし、常識以上のものを支払うつもりはないから。
……場合によっては、出るとこ出るし」
「ああ、もちろん違いますわよ。わたしたちの用件は先に言った通り。
……貴女に、約束を果たしてもらおうという、ただそれだけなの」
カマエルの台詞にマキは困惑する。
カマエルの柔和な表情の、その瞳の奥は真剣そのもので、決して嘘偽りではないことを明確に物語っていたからだ。
「約束――って、人違いじゃないの?
それは、確かに何だかアンタのこと、見たことあるような気はするけど……。
でも、約束なんて覚えがないし……」
「でしょうね。でも貴女の言う通り、わたしたちは初対面ではないの。
会っているのよ、七年前に……貴女が入院していた病院でね。
――ほら、思い出してごらんなさいな………」
カマエルは自らの手を、そっとマキの額にかざす。
――その瞬間。
マキの脳裏に、いくつもの映像が立て続けに閃いた。
「――――っ!?」
それが、何度も夢に見る、死に面した幼い頃の記憶の……ぽっかり抜け落ちていた『その先』を埋め合わせるものであることに気付くまで、そう長い時間はかからなかった。
「ウソ……まさか、まさか……あのときの!」
治らないと言われていた病により垣間見た『死』の淵。
世の通説とは異なり優しく暖かなそれを、しかし受け入れることは拒んだ彼女の、心の声を聞き届けた『存在』――。
その光り輝いていた存在が、目の前に立つカマエルに間違いないことを、理屈を抜きにして彼女の心がはっきり認めていた。
「……思い出していただけまして?」
「――そう、そう言えば、確かにアンタ言ってた……あのとき。
あたしの願いを聞き届ける代わりに、いずれ働いてもらう、って……」
「ええ、そう。
ですから貴女は今も、こうしてピンピンしているでしょう?」
「……ホントに天使、だったんだ……」
マキは小さく首を振ると、大きなため息をついた。
「そっか。天使……ね」
「あら、案外落ち着いてますのね。
もっと驚いたり、感動してもらえると思ったのに……ちょっとショック」
冷静なマキの様子に、カマエルは物憂げに息をついた。
「そりゃアンタのその物腰のせいでしょうよ。
――ってちょっと待って。
働いてもらう、っていっても、実際に何をするかは聞かされてなかった気がするんだけど……」
「当然ですわね。言ってませんもの、そこまで」
さらりと言ってのけるカマエル。
その言葉に何やら不穏なものを感じて、マキは半歩身を退く。
「ああんもう、大丈夫ですわよ。
車を愛するがゆえに純潔を守り通しているような貴女でもまったく問題ない――いえ、むしろだからこそ適任のお仕事ですから」
「……は?」
カマエルの発言の内容を反芻するのにしばし。
――その後、文字どおり火が付いたように真っ赤になるマキ。
「ひ、人をヘンタイみたいに言うなあっ!
オトコには縁がないだけだべらんめー!」
「……それはそれで、お気の毒な。素材は良いのですけれどねぇ……」
「真面目にあわれむなっ!
だいたいアンタ、あたしに何させる気だ!」
「なにって、それはもちろん、ナニをアレして――とか言うといい加減サリーもキレて収拾がつかなくなりそうなので止めときましょ。
……マキ=エモン・アーロッド」
改めてマキの名を呼ぶカマエルの顔が、引き締まった。
「な、なによ……何度もフルネームで呼ばないで欲しいんだけど」
あからさまな気配の変わりように、マキも悪態をつきつつ、無意識に身をただす。
それを待ってカマエルは、朗々と響く、威厳に充ち満ちた――いかにも天の御使いらしい、聞く人の身をその魂から震わせるような声で――粛々と告げた。
「大いなる神の代行者たる、聖炎のカマエルが名において命じます。
今日このときより、貴女は――『魂の導き手』となりなさい」
「……え?……は?
ゴ、ゴーストキャリアー……って、あの? おとぎ話の……アレ?」
マキはあ然として問い返す。
魂をすくい上げる神の救いの御手――。
そこからこぼれ落ちてしまった魂を、付け狙う悪魔たちから守り、神の御元へ送り届けることを役目とした聖者。
それこそがゴーストキャリアーと呼ばれる、この国で生まれ育った者なら老若男女問わず誰もが知る、最も馴染みのある伝説に謡われる存在だ。
「そう、そのゴーストキャリアー。
貴女はこれから正真正銘の聖女として、人々の魂を悪魔から守るために働くの。
……カッコイイでしょう?」
急にまた元通りのくだけた調子に戻るカマエル。
だが、動揺するマキはそんな変わり様にすら気付かない。
「ちょ、ちょちょちょっと待って、そんなのいきなり言われても――」
「ああ、ちなみに貴女に拒否権はありませんわよ?
……なぜなら、本来は7年前に命を落とすハズだった貴女は、理由のいかんにかかわらず、このわたしに、借金ならぬ『借命』をしてしまったんですもの。
――借りたものは、返すのが道理ですわよねェ?」
唇の端を吊り上げ、ニヤリと……カマエルは天使という言葉のイメージからは最もかけ離れた邪悪な笑みを浮かべた。
「いぃっ? で、でもあのときは、そんなご大層なことやらせるなんて一言も――って、そうか、だからか……!
だからアンタ、あたしが万が一にも断らないように、あのときはあんなあやふやな言い方をしたんだっ!」
「あら、借りてからイチャモンつけるのはどうかと思いますわよ? ね、サリー?」
「よくそれで堕天せずにいられますね、兄様……」
サリエルは気の毒そうにマキから視線を逸らす。
「悪徳金融も裸足で逃げ出すあくどさだな、べらんめー……!」
いきり立つマキに「そうは言いますけれど」と前置きして顔を近付けるカマエル。
「果たしてあのときの貴女は、交換条件がいかに過酷なものであれ、断る気がありましたかしら?
……わたしの目には、何が何でも生きたいっていう強い意志しか映りませんでしたけれど?」
心の奥底を見透かすようなカマエルの瞳に、マキは歯噛みしつつもたじろぐ。
実際、カマエルの言うとおりだった。
あのときの自分が、生き延びるためなら何でもするという覚悟でいたのは確かだったのだ。
「それは、確かに……アンタの言うとおりだけど……!」
「ともかく、もう決まってしまったことですから。
……大丈夫ですわよ、ちゃーんと適性を考えて貴女を選んだんですもの」
「はぁ……分かったわよ……。
ゴーストキャリアーにでも何にでもなる、なればいいんでしょっ?」
投げ遣りに言って、マキはスネたような目でカマエルを見上げる。
「……でもあたし、納得したわけじゃないからね」
「構いませんわ、いずれ納得してもらえると信じてますから。
では……ラファエル!」
カマエルは穏和に微笑むと、修理屋の奥へ向かって呼び掛ける。
すぐさま応じて姿を現したのは、作業服を着た大柄な、筋骨たくましい青年だった。
「よぅ、やっと終わったのかい?
……ったく、兄貴の話は回りくどくっていけねえな」
「まったく貴方も……わたしのことはせめてアネゴと呼びなさいと言ってるでしょうに。
――さて、紹介しておきましょうか。このコはラファエル。
そうですわね、たとえるなら、日陰でひっそりと美しく咲く控えめな花のごときわたしと違って、ポピュラーで、じゃんじゃんばりばり恥も外聞もなく色んなところで名前を出しまくってるこのコなら、貴女も知っているでしょう?」
「……なんか、言葉がトゲだらけだったような気もするが……まぁいい。
とりあえず――今、兄貴の紹介にあずかったラファエルだ。
つっても、天使としての仕事は他の兄弟に任せっきりなんで、あんましデカい顔はできねえが。
――よろしくな、マキ」
「あ、はぁ……」
ラファエルの快活さに毒気を抜かれたようになったマキは、差し出された大きな右手を両手で握り返した。
「そして、もう一人。
――ガブリエル、挨拶なさい」
カマエルが言った瞬間、いきなりマキのスマートフォンが着信を告げた。
ポケットから取り出してみると、勝手に電話が繋がり、液晶画面の向こうにピンクのパジャマにシブいどてら姿の少女が映し出される。
上目遣いの少女は、何事かをつぶやいてペコリと頭を下げたが、声が小さすぎてマキには聞き取れなかった。
どうしたものかと首をかしげていると、画面に今度は文字が現れる。
『わたし、ガブリエル。よろしく』
「あ、ああうん、よろしく――って、ガブリエル?
あ、それじゃあ、もしかして今晩何度かメール送ってきたのは……」
「ああ、そのガブリエルの姉貴だ。
お前が悪魔にちょっかいをかけられようとしてるのを知って、助け船を出したんだな。
……もっとも、姉貴は口ベタで引きこもりだから、そんな形になっちまったが」
ラファエルの言葉に、ガブリエルは恥ずかしそうに顔を伏せる。
ラファエルは姉貴と呼んでいるが、どう見てもマキには自分どころか、ソウよりも年下にしか見えなかった。
「――んん? 実年齢は上なはずなのに、中学生どころか小学生にすら見える引きこもりの女の子……?
何か、ごく最近誰かがそんな話をしていたような――って、いやいや、問題はそこじゃない。
――今『悪魔』って言った? やっぱりアレ、悪魔だったの?」
あわてて問い直すマキ。
その場にいた全員が、うなずいて答えとした。
「新しくゴーストキャリアーに選ばれる貴女の、腕試しのつもりだったのでしょう」
「……ちょっと。それじゃあゴーストキャリアーって、わたしだけじゃなく周りの人も襲われるような仕事ってわけ?」
もしそうなら断固辞退する、と言わんばかりのマキの強い眼差しに、カマエルはきっぱりと首を横に振った。
「それはないと断言しておきましょう。悪魔も、できてちょっかいをかける程度です。
現に貴女も貴女のご家族も、直接襲われたりしたわけではないでしょう?」
「それは……確かに、そうなんだけど」
「そのことについては、オレたちも大丈夫と請け負うよ。
まあ、簡単に言っちまえば、悪魔の習性みたいなもんでな。
ヤツらがマキ、ゴーストキャリアーのお前も含め、人間を直接手にかけることはまずありえないんだ」
「そうですか……ならまあ、いいんだけど……」
曖昧にうなずきながら、そう言えばあのバイパーも、直接体当たりをしてきたりはしなかったな、と思い返すマキ。
……そうして、ふと気付く。
「あれ。そう言えば、どうしてエリーゼまで運んできてくれたの? サービス?」
「まあ、サービスと言えばサービスですかしら」
言って、カマエルはラファエルを見やる。
「……このラファエルとガブリエルが、貴女のエリーゼを甦らせるの。
そもそも『普通』の車のままじゃ、悪魔相手には勝負になりませんもの」
「そうだな、このエリーゼはマキ、お前に大切に想われ……そしてお前を大切に想っている、実に良い車だ。
一週間もあれば、文字通りに生まれ変わらせてやれるだろうよ」
ラファエルは笑顔で親指を立ててみせる。
対してマキは一人、目をまたたかせていた。
「――は? え、ゴーストキャリアーって……車使うの?」
「適性を考えて貴女を選んだ、と言ったでしょう?
それに貴女自身、悪魔の車と競い合ったばかりじゃなくて?」
「え、いや、でも……」
「まぁ、戸惑うのも分かりますけれど。
……んー、そうですわね……長くなりますから、詳しい話はまた後日にいたしましょうか。
今日はもう遅いですし」
言われて、マキも改めて時間を確かめる。
――すでに日付が変わっていた。
「修理が終わるまでは、まあ代車ってことで、そこのミニを使ってくれ。
その気になればポルシェをチギれるぐらいには手を入れたクルマだからな、素人にゃ危なっかしいじゃじゃ馬だが、お前なら問題ねえだろ」
ラファエルは未だ混乱気味のマキに車のキーを押しつけると、修理屋脇の駐車場に停められている、透き通った青のミニクーパーを指さした。
「え、いや、ちょ、ちょっと待って!」
「それではね。……一週間後に、また会いましょう」
マキの制止にも耳を貸さず、穏やかに手を振ってカマエルはラファエルと二人で修理屋の奥へと姿を消す。
あわてて後を追おうとするものの、それをさえぎってサリエルが立ちふさがり、ペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい、兄様方はお二人ともあんな風に強引ですから、気を悪くされたでしょうし、あなた自身の置かれた状況について、納得も理解もできていないと思いますけど……。
今日のところは、天界にも事情があるということで、ご勘弁いただけませんか?」
「え……えっと、でも……!」
『わたしも、おねがい』
気付けば、スマートフォンの画面にも、申し訳なさそうなガブリエルの映像とメッセージが映し出されていた。
マキは、ともすれば強行突破しそうになる自分を抑え、大きい瞳でじっと見上げてくるサリエルと、スマートフォンの画面、そして修理屋の建物の間で視線をさまよわせる。
そしてやがて、ため息まじりに降参とばかり手を挙げた。
「――分かった。分かったわよ、えーっと……」
「私のことなら、サリーと呼んで下さって結構です」
『わたし、ガブちゃん』
「ん。それじゃサリーちゃん、ガブちゃん――。
……って、んん? ガブちゃん?」
一瞬、何かが脳裏で引っかかった気がするが、深くは考えずにマキは首を振る。
「あなたたちに免じて、今日は大人しく帰ることにする」
「ありがとうございます、マキさん」
『ありがと』
サリエルはもう一度頭を下げて礼を述べると、小走りにカマエルたちの後を追い、修理屋の中へと消える。
ガブリエルからの電話も、ふつりと切れた。
それらを見送ってから、マキはふと夜空を見上げ、
「……天使に、悪魔に……ゴーストキャリアー……?
冗談にもほどがあるよ……」
手の中の車のキーを、その実在を確かめるように何度か握りしめた。