「はっきり申し上げれば、無理です」――トルファン・アリア陸軍大臣は言った
ユリアナが執務室に戻ると、中にはすでに数名のスタッフとトルファン・アリア陸軍大臣を筆頭とする軍関係者が待機していた。
「状況は?」
椅子に座るなりユリアナが問うと、トルファン陸軍大臣が机に地図を広げ説明を始めた。
「先ほど19時ごろ、我が国の西ダルダニア地方と接するセプルヴィアとの国境で、セプルヴィア陸軍第7師団の一部が移動を開始しているのを、我が軍の前線偵察部隊、及び陸軍情報部の無線傍受班が察知しました」
「具体的には?」
「第七師団隷下の第十五歩兵連隊が東へ……、国境地帯へと進軍していると。すでに国境警備所から視認できる位置まで」
「…………」
ユリアナは地図上に置かれた歩兵部隊を示すコマをにらんだ。
「セプルヴィア政府から何か反応はある?」
これには、官邸スタッフの一人が答えた。
「今のところ何も説明はありませぬ。国営ラジオも沈黙しています」
「……威力偵察ってところか?」
ユリアナがぽつりとつぶやいた一言に、トルファンもうなずく。
「大いに考えられますな。我が国の情報収集力と反応速度を調査しようと、ダルダニアという火薬庫に手を出してきた……」
ダルダニア地方はイリリアとセプルヴィアが双方領有権を主張して争っている係争地帯である。
ここはかつて中世セプルヴィア王国が生まれ、そして滅んだ土地で、セプルヴィア人にとって歴史的に非常に重要な意味を持つ。
しかし帝国支配の長い歴史の中でイリリア人が入植していった。現在この地の人口のほとんどはイリリア人であり、イリリアにとっても重要な地なのだ。
ダルダニア地方は大戦争までトルキスタン帝国が領有していたが、戦後列強の介入により東西に分割、東部をセプルヴィアが、西部をイリリアが領有することになった。
しかし、こんな中途半端な結果に両国は満足せず、双方「ダルダニアの統一、及び完全領有」を主張していた。
状況が悪化したのは、セプルヴィア国王アレキサンデル2世が対外強硬姿勢を鮮明にしだした1930年ごろからだ。ダルダニアでもセプルヴィア軍による威嚇が相次ぎ、このままでは全面戦争もあり得るとまで言われていた。
セプルヴィアは軍の強化を続けており、このまま戦争になればイリリアの敗北は必須だ。先の合同指揮所演習もセプルヴィアをにらんだもので、もっぱらエトルリアよりも危機の度合いは高いのである。
ユリアナはこういった状況を勘案しながら尋ねる。
「トルファン、今後の対応についてはどうすればいいのかな?」
「軍事的に考えられる対応策とすれば我が軍も前進し、国境付近に展開すること、でしょうな。このまま何もせずに傍観するわけにはいきません」
「即応可能な部隊は?」
「……西ダルダニア州都のプレズレン駐屯警備中隊ですな。ただ、馬での移動になりますので相手に後れをとることにはなりますが」
トルファンの言葉に、ユリアナは頭を抑えた。
「ねえトルファン。相手は連隊規模だって聞いたけど、中隊でどうにかなるの?」
「…………。何とかしてみましょうぞ」
「できるかできないか、それを聞いたんだけど」
「……はっきりと申し上げれば、無理です。機動性、火力、兵数、どれをとっても劣っています。今から国中の兵力をかき集めたところで」
トルファンは一度言葉を切って、そして「お前が悪いんだ」と言いたげな目でユリアナを見て言った。
「我が軍の総兵力は約七千。予備役を招集しても一万五千が精いっぱいです。総勢12個師団をそろえるセプルヴィア軍と対峙することはほぼほぼ不可能でしょう」
ユリアナはトルファンの眼差しを正面から受け止める。しばらく両者はにらみ合いを続けていたが、ほどなくしてユリアナは軽く息を吐いて視線をそらせた。
「…………。まあ、今はその話はよそう。ひとまずその警備中隊を前線哨戒部隊と合流、国境沿いで奴らの動向を監視させて。動きがあった場合すぐに報告すること。あと全軍に出動待機を命令。特に砲兵部隊はすぐに移動できるよう準備させておいて」
「了解しました。伝達させましょう」
陸軍省側のスタッフが、電話機に飛びつく。
「情報伝達だけは密に行う事。それとこちらから手出しすることは絶対に禁止だから。これだけは厳命しとく」
この命令にトルファンは、露骨に不満げな表情を作った。しかし、反対意見を言うことはなかった。
「大統領、私は指揮のため本省へ戻ります。部下を待機させますので、何かあればそちらに」
「わかった。ありがとうね、トルファン。よろしく」
トルファンの背中を見送ったユリアナはすぐにルカに言った。
「ルカ、この件、外務省には?」
「すでに大統領府のスタッフに伝達させています」
「サンキュー。ちょっとエルザ呼んでくれる?」
「了解です」
エルザ・フラシャリ外相はすぐ官邸に姿を現した。
「すでにセプルヴィアには大使館を通じて厳重な抗議と部隊の即時撤収を要請する準備をしてるわ」
開口一番、エルザは挨拶もそこそこにまくしたてた。すでに帰宅していたのか、スーツではなく紫のイブニングドレスにカーディガンを羽織っている。
「わかった。それでお願いね」
ユリアナは気にせず頷く。エルザは控えていた部下に耳打ちをして来客用のソファに腰を下ろすと、
「一服いいかしら?」
「どーぞ。ごめんね、急に」
「気にしないで。私の仕事だもの」
エルザはたばこに火を点け、紫煙をくゆらせる。
「まったく、連中は時間が分からないのかしらね。せっかく今からディナーだったのに」
「パーティだったよね、エトルリア公使と。悪かったねぇ」
「いいわよ大統領。ディナーはともかくパーティの方は嫌いだったの。断る口実ができてよかったわ」
エルザは大げさに首をすくめた。コロンビア合衆国で生まれ育った彼女の癖のようなものである。
「ところで、わざわざ呼び出したってのは何かあるんでしょ? 抗議出すだけならTELするだけでいいのに」」
「ああ、うん。実はね、ちょっと気になることがあって」
ユリアナはエルザの前に座り直す。そして顔を近づけると、声を潜めた。
「……やるとしたら、いつだと思う?」
エルザは固まった。
時計の秒針がコチコチと音を立てる。エルザは妙に長い時間が過ぎたような感覚に陥っていた。
「ふぅ、そうね」
そういって自分を落ち着かせるために、煙を肺にいっぱいに吸い込む。
やる。
言うまでもなく、この言葉の主語は「戦争」だ。それがいつになるか、ユリアナは聞いているのだ。
「……軍事面に関しては参謀本部にでも聞けばいいわ。私は外交的にしか言えないけれども」
「それでいい。っていうかそれがいい」
「何も言わずに殴りかかってくることはまずありえない。何かしらの要求が最後通牒のような形で出されるはずよ。それがいつになるか……」
エルザの脳内で、レヴァント情勢とカレンダーが渦巻く。
「セプルヴィアは、ボスナ地方でフルバツカとも対立してる。ダルダニアにかまけてそこで隙を見せるわけにはいかない……。あり得るとすれば……」
エルザは眉にしわを寄せる。
「フルバツカ領フィウメで何かがあった時、ね」
フルバツカ国はイリリアと北方で国境を接するレヴァント諸国の一つだ。半島の覇権を巡ってセプルヴィアと敵対する地域大国でもある。
このフルバツカは、アドリア海沿岸の港湾都市フィウメを巡ってエトルリアとも対立していた。
もしエトルリアが実力を持ってフィウメ侵攻を行った場合、フルバツカはその対応のため、セプルヴィア国境に配備されている軍もそちらに移動させることになる。
この場合、セプルヴィアはフルバツカからの圧力を受けることはなくなり、何の憂いもなくダルダニアへ侵攻することができるだろう、という話だ。
「それに、エトルリアの軍事行動は国際的に注目を集めるだろうから、セプルヴィアの行動はその後ろに隠れるわ。そうすれば国際的な非難にもさらされず、そして全力を持って西ダルダニアへ侵攻できる。いや、もしかしたらイリリア本国も射程に入っているかもしれない。……事態は思いのほか深刻ね」
エルザは唇をかむ。ルカも口を開いた。
「フィウメを巡っては、エトルリア政府が『未回収のエトルリア』であるとし早期奪還を目指しています。国境付近では銃撃戦が発生しているとも聞きますし……。大規模交戦は時間の問題かもしれません」
ユリアナは再び考え込む。こういう時に頼りになるのは史実だ。
フィウメを巡る前世の歴史は1924年、ムッソリーニがユーゴスラヴィア王国に圧力と交渉を仕掛け、領土を回収したことになっている。しかしこの世界では元々、エトルリアは直接フィウメ市と領土を接していなかった。その上この時期に行われていたカランタニアへの介入に手いっぱいだったようで、この地の領土回収に至っていないのだ。
そうこうしているうちに大恐慌が発生し、フルバツカには民族主義的独裁政権が樹立。話し合いで交渉などできる状態ではなくなってしまった。
このフィウメ問題解決には武力行使も辞さない、というのが現エトルリア政府の主張でもあり、フルバツカ政府も一歩も引かない構えと取っているのだった。
一見、前世史実はもはや何の役にも立たないような気がする。しかしこの世界は前世史実世界と異なった歴史を歩んでいるとはいえ、ところどころリンクしているところがあるのだ。例えばカランタニア事件が起きた26年は、史実ではイタリアがアルバニアを保護国化した年。アルバニアの代わりにカランタニアがその犠牲となったということになる。
以上のことを踏まえれば、エトルリアが軍事行動を起こすのは、
「35年、かな……」
西暦1935年、第二次エチオピア戦争勃発。もしこれがエトルリアのフィウメ侵攻とリンクすれば、連鎖的にイリリアは戦争に巻き込まれることになる……。
「35年ですか?」
ルカが首を傾げた。
「根拠は?」
「うーん、直感?」
ユリアナはごまかす。馬鹿正直に「前世の記憶でーす」などとは口が裂けても言えない。
ルカは怪訝なそうな顔でユリアナを見た。
「はぁ、状況が状況ですから、直感だとかそういうのは」
「でもユリーの直感ってよく当たるわよね」
エルザがほほ笑む。
「まるで全部見てきたかのように」
「は、ははは。冗談きついね、エルザちゃん……」
ユリアナは乾いた笑みを浮かべるほかなかった。
閲覧、評価、ブックマーク等毎度ありがとうございます! 作者はこれをモチベにつらつら書き連ねているようなものですので、これからもお願いします(笑)。
さて、このお話の各話タイトルは半藤一利氏の「日本の一番長い日」をパクッて、もとい真似しております。あんな感じに仕立て上げればいいなぁと考えていますが、この辺は修行が必要ですね……。
次回もよろしくお願い致します。