「人類っていうのは、結構バカなんだよ?」――ユリアナ・カストリオティ大統領は言った
アドリア海の北方、イストラ半島の付け根にある街が、港湾都市フィウメだ。街の人口の半分以上をエトルリア人が占めるものの、カランタニア共和国がアドリアの最奥に陣取り、大戦争後フルバツカ人過激勢力がこの街を占領したことも相まって、戦後もフルバツカ領に留まっていた。
しかしイストラ半島とエトルリアを隔てる壁であったカランタニアが消滅し、フィウメ問題はエトルリア・フルバツカ両国の紛争にまで発展する。
緊張が高まりつつあった10月15日、フィウメ市のエトルリア人居住地区をフルバツカ人極右武装組織が襲撃、50名以上のエトルリア人住民が惨殺される事件が起きたのだ。
フルバツカ政府はその日のうちに軍を投入して武装組織を鎮圧したが、これがエトルリアの虎の尾を踏んだ。いわく、『条約で定められた自由都市フィウメに軍を派遣するとは何事だ』という事である。
エトルリアは軍の即時撤退を要求するが、フルバツカは治安維持を名目にこれを拒否。両国の緊張はピークに達した。
そしてこの急転直下の情勢は、イリリアにも重大な影響を与えていた。
「……といいますと?」
ユリアナが思わず聞き返すと、同盟交渉問題エトルリア側全権特使を務める、在イリリア公使のイルマ・メローニは平然と繰り返した。
「駐屯条項、つまり同盟条約第6条に関して、我々は貴国の要望にお応えする用意がある、と申したのですわよ、カストリオティ大統領」
ユリアナは左右に控えるルカとエルザをちらりと見た後、口を開いた。
「なるほど、それで私を含めた会議の開催を打診してきたと」
「まあそういう事ですわね」
イルマ特使が草案をユリアナに手渡した。
「旧6条では、戦時平時を問わない相手国駐屯を規定しておりましたが、我々が提示する新6条は相手国領域の利用を戦時、及び両国軍の訓練時のみとしております。あなたがたの要望をこちらでも十分検討した結果ですけれども」
ユリアナが草案を開くと、イリリア側のスタッフも一緒に覗き込んできた。
「なるほど……」
「これは……!」
当初懸念していた恒久的な国土利用と、駐屯経費の全額負担を求める条文はきれいさっぱり削除され、イリリアが求めていたものに近い内容がそこには記されていた。
「ただし」
色めき立つイリリア勢を制するように、イルマ公使が言う。
「本条約の締結を、本年12月31日までに行うことを強く要請します。万が一それが叶わない場合は……」
イルマはちらりと、隣に控えていたエトルリア軍の将校に目をやる。
ユリアナはその様子を見て、にこりと笑う。
「わかりました。お任せください」
その日のうちに臨時閣議を招集したユリアナは、同盟条約案を閣議決定すると同時に、五日後の臨時議会の招集を決定した。
条約案は夕方のラジオニュースを通して国民に知らされ、粘り強い外交交渉を続けた政権の評価だと強調されることになる。
イルマが改正案を示した二日後には、全権特使としてのイルマと、イリリア政府代表としてのユリアナが条約に署名。これで条約の内容は確定した。
条約は速やかに議会に提出され、審議にかけられることになる。しかしユリアナは通常の委員会審議、及び採決を省略し、議会本会議での審議と即日採決を提案。与党の賛成で承認された。
『賛成82、反対17、棄権4。よって政府提出の、イリリア共和国とエトルリア王国の間の相互防衛援助条約は賛成多数で承認とするっ!』
十月三十日若干の質疑応答の末、猛反発の野党を抑えて同盟条約は議会の承認を得た。
「なんだかさ、こうしてみるとあっけないよねぇ」
「自分もそう思いますよ、大統領」
議会で賛成多数を得たことを示す赤い判が入った条約案を前に、ユリアナは感慨深げに言った。この紙にユリアナの、つまり大統領の署名を入れることで、『批准書』が完成し、これをエトルリアと交換することで正式に条約が効力を発揮することになるのだ。
ゴタゴタとすったもんだを経験した同盟が、案外あっけなく結ばれようとしているのはいろんな意味で不思議という事である。それもイリリアが求めていた内容で。
「批准式が一日にエトルリア公使館で行われる予定です」
「私、でなきゃダメ?」
「ダメ」
「……まそりゃそうか」
ユリアナはため息をついて、
「とりあえず、これで一仕事完了っと」
批准書にサインを入れたのだった。
一日にはイルマ特使との間で無事批准書の交換が行われ、イリリア・エトルリア同盟は正式に発効した。同盟が提示されてから6か月近くを経てのことだった。
「それでさ、あいつらったら私のドレスみてにやにやしてんのよ! こちとらスコダル1の仕立て屋に頼んだのに!」
そして批准式を終えたエルザが、エトルリアのスタッフの横柄さに文句を言いにユリアナの執務室に愚痴を言いに来ていた。
「向こうはあれでしょ? 芸術の都ローマだし」
「まあローマとスコダルでは、すこし……」
「もう! ユリーも補佐官も自分とこの首都にもうちょっと自信持ちなさいよ!」
エルザの一喝に二人は肩をすくめた。虫の居所が悪いエルザをなだめようと、ユリアナは笑いながら話しかけた。
「まあ、これでしばらく二正面作戦の心配がなくなったし、エルザもらくできるんじゃない?」
東にセプルヴィア、西にエトルリアという仮想敵を抱えていたイリリアだが、西の大国は今や同盟国だ。これで今までよりは外交的に楽ができるだろう。
しかし、エルザは厳しい表情を崩さない。
「ユリー、わかって言ってんでしょ。もうすぐ戦争が始まるって言うのに楽なんかしてられないわ」
「ははは」
ユリアナは乾いた笑みでごまかした。
エトルリアが弱小貧乏田舎国家イリリアの要求を受け入れたただ一点の理由。それは、対フルバツカ開戦が直前まで迫っているからだ、というのがイリリア政府の、そして世界各国の認識だった。
フィウメ事件以降両国の交流はほぼ途絶し、水面下での外交交渉も決裂寸前に至っている。開戦は時間の問題だった。
エトルリアは外交工作を活発化させ、フランクやアングロサクソンと言った列強にも自国有利になるよう働きかけているという。イリリアとの同盟もこの一環だ。
「ブレンカも走り回ってたわよ、今までフルバツカ相手の戦争計画なんて決めてこなかったから」
エルザはそう言って、陸軍省がある窓の外に目をやる。ルカも今はいないブレンカの労苦をおもんばかって目を伏せる。
「参戦条項がある以上、エトルリアとフルバツカが開戦したらうちも巻き込まれることになりますからね」
「……部隊の実働は勘弁してもらえるように頑張ってみる」
ユリアナの言葉は、その展望の実現可能性の薄さも相まって、妙に軽薄に部屋に響いた。
「でもまあ、外務省として懸案事項の一つが片付いたわけだから、朗報と言えば朗報よ。おかげで前から進めたかった計画とかも進められるし」
「計画?」
ユリアナは初めて聞いたその存在に首を傾げた。するとエルザが逆に不思議な顔をする。
「え、ユリー発案でしょ? 大不況真っ只中のコロンビア合衆国から優秀な技術者や研究者を大金積んでスカウトするっていうの」
「…………。ああ! あったねそんなん!」
長き沈黙の末ユリアナは自分の政策を思い出した。いや、政策と言うレベルの話でもない。
かつて五か年計画を開始するさい、イリリアにまともな工業基盤がないという話になった際にユリアナがぽつりと漏らした言葉だ。
実は在合衆国イリリア公使館を通じての人材獲得は前々から進めており、イリリアの工業化に貢献してもらっている。
「それでさ、最近どうも、合衆国の恐慌に乗じてドイトの戦線系組織が勢力を伸ばしてるらしいのよ。今度の中間選挙でも大幅に勢力を伸ばしそうで」
「……え、なにそれ」
「何それって、戦線よ。ドイトラント急進国家主義民族戦線党。アーリア人優越主義とかわけわかんない主張してる極右政党にして、現ドイトラントの政権政党。そいつの親戚筋みたいな連中『合衆国第一戦線』ってやつ。おかげでというか、所謂『非アーリア人』系の合衆国脱出が相次いでるみたいなのよ。だからスカウトもやりやすくなって……。ユリー?」
「…………」
ユリアナは黙りこくった。そして低い声で言った。
「エルザ、万が一、万が一だけどさ。ドイトがフランクや連合王国に戦争を仕掛ける――第二次世界大戦が勃発するとした時、戦線党が影響力を持った合衆国がどう動くか、外務省でシュミレートしてもらってもいい?」
「え? まあ、別にいいけど」
エルザは困惑を隠さずに答える。
「第二次世界大戦ねぇ。大戦争を起こしといてまた世界戦争なんてする羽目になるんだったら、人類ってよっぽど馬鹿よ? 列強もそんなことにならないように今日まで動いてきたわけだし」
「……人類っていうのは、結構バカなんだよ?」
「まあ、そうかもね」
エルザは深刻な顔をしているユリアナにエルザは何かを感じたようだが、それついてには何も言わなかった。代わりに、
「あ、そうだ、これはついでなんだけどね」
そういって、一枚の上等な装丁がなされた便箋を取り出した。
「セプルヴィア王国から、次期女王の即位式への招待状が届いたわ」
「…………は?」
「だから招待状。セプルヴィアから。どうする?」
「「それをついでで言うな!!」」
ルカとユリアナのぴったりと合った怒鳴り声が、執務室に響き渡ったという。
閲覧、コメント、評価、ブックマークなど本当にありがとうございます! とうとうブクマ数が大台を超えさせていただきまして、うれしいやら恥ずかしいやらですね……。そんななか、私先週風邪をひいてしまいまして、投稿を伸ばしてしまいました……。うーん、うれしすぎて屋上で裸踊りしたせいでしょうか?
ともあれ、みなさんも季節の変わり目ですからお気を付けください。




