「イリリアの大統領なんて、何もできない」――ユリアナ・カストリオティ大統領は思った
ユリアナ・カストリオティがユリアナ・カストリオティとして保持している記憶で最も古いものは、大戦争時に両親が反逆罪で殺害された場面に出くわした時のことである。
大戦のかなり早い段階で、イリリアは中欧に存在した大国エスターライヒ二重帝国により占領、支配された。そこそこに裕福な地主だったカストリオティ家はエスターライヒ軍への戦争協力を強要され、それを拒否したゆえの銃殺であった。当時別段珍しいことではなかった。
幼かったユリアナの目前で行われた死刑執行は彼女に強い衝撃を与える。そして思い出したのだ。自分には前世、と呼ばれる存在があったことを。
ユリアナの前世は、日本という国で暮らす平凡な男性だった。学生だったような気がする。西暦20××年の日本国はおおむね平和で、隣国の火遊びに悩まされながらも戦争だのとは無縁の、豊かで恵まれた国だった。
男は父親と母親に囲まれ、若干のオタク趣味に首を突っ込み、取り立てて優秀ではないが、平均的に生活をしていた。
それがここにきてどうだ。人の命は野菜クズのような扱いを受け、力を持った他者に簡単に奪われてしまう。両親を殺され、後ろ盾というものを失った幼いユリアナはそんな暴力の中に放り出されてしまった。
今日の食事も事欠くどころか、明日の命すら保障されない。そこには何もなかった。希望も、絶望もだ。それが、ユリアナが見た戦場だった。
ユリアナは誓った。
こんな思いなど二度としてなるものか、と。
男の、というかユリアナの記憶が正しければ、後二十数年で更なる悲劇、第二次世界大戦がはじまる。イリリアという国が存在したかどうかは分からなかったが、この地域も甚大な被害を出したはずだ。この悲劇が、またこの地で繰り返されるはずなのだ。
「もう、それは嫌だなぁ」
記憶を取り戻したユリアナの第一声それだった。他者から見れば、両親の死に際を見た直後の言葉だったわけだからさぞかし困惑したことだろう。
それから数年後、イリリアは解放された。しかし待っていたのは、戦前の君主が逃亡したことに端を発する泥沼の内戦だった。ユリアナは再び、野菜くず以下の命となって戦場に放り投げられることとなる。
ここに至って国外に脱出したユリアナは、その後親戚を頼りどうにか後ろ盾を得る。
それからは大戦を回避するために全力を尽くした。権力争いと内紛に明け暮れるイリリア政府を一掃し、自分が最高権力者に、大統領になろうと決めたのだ。そうすれば少なくとも、この国が戦乱のさなかに放り込まれるのを阻止することができると信じて。
幾多の困難を乗り越え、ユリアナは勉強と、前世の知識を用いた多少のズルとを駆使してイリリア共和国最高権力者の座に上り詰めたのである。そして気づいちゃったのである。
「イリリアの大統領なんて何もできない」
ということに。
ユリアナはルカから手渡されたドイトラント情勢に関するレポート、通称ドイト・レポートを流し見ながらため息をつく。
内容はドイトラント共和国で極右政党『ドイト急進国家主義民族戦線党』の独裁が強化されたこと。そしてこの国の大統領の健康状態が悪化し、独裁を続ける戦線党党首にして首相カーラ・ハラーの暴走に歯止めが利かなくなりつつある事など。
「はぁ」
ユリアナは大きなため息をつく。この先の展開を知っているのに全く手が出せない歯がゆさを感じていた。
ここに至るまでに、ユリアナは二つの点を勘違いしていたのだ。
まず一つ目は、この世界はユリアナの前世とは微妙に異なった歴史を歩んでいるという事。史実ならばこの時代、女性政治家などいるはずもないのだが、この世界では「政治は女、軍事は男がすべきもの」という分業意識が古来より根付いていた。
加えて産業革命時、「これからの新しい時代には、老人より若者の方が国を率いることに向いている」という学説が民主主義の総本山たるアングロサクソン連合王国で発表され、大きな支持を受けたのである。
それ以降、議会制民主主義を取る国家では議員や元首が軒並み若年化。ユリアナのような若い女性が国家元首になることも普通になっていったのだ。
それに合わせてというべきか、国名や国境も微妙に変化している。その最たるものがイリリアのあるレヴァント半島だ。前世でバルカンと呼ばれていたこの地域は、史実ならユーゴスラヴィア王国という多民族国家が成立していたはずだが、この世界ではいくつもの小国家に分裂している。
第二の勘違いポイントは、そもそもイリリア共和国大統領などという立場に歴史を変えるだけの力はなかったという事だ。
イリリアは前述のとおり吹けば飛ぶような弱小貧乏田舎国家。その名前を知るものは国外にはほとんどいないし、国際的な発言力など皆無。外交関係を持っている国も少ない。
ユリアナにできることといえば、外務省から送られてくる国際情勢の最新情報を民間の新聞よりちょっと早く読むことぐらいであり、確実に第二次大戦の火種となるドイトラントの混乱やその他列強各国の動向に口を挟む余地などみじんもなかったのである。
それどころかイリリア自体、周辺各国との摩擦が絶えず、下手すりゃ1939年の開戦を待たずして消滅するのではないかとも思われる状態。
つまり苦労して大統領の座に上り詰めたにも関わらず、できることはものすごーく少なかったという事なのだ。
ユリアナは必死になって知恵を絞り、祖国存続のために動こうとしても議会だの憲法だの法律だの外国だのその他利益団体だの軍だのと言った抵抗勢力に阻止されるのが現状。もはやにっちもさっちもいかず、ユリアナの仕事ぶりはできることを淡々とこなすだけの単調なものへと変貌している。
「大統領になればなんとかなるかなーって思ってたけど、案外どうにもなんないんだねぇ」
ユリアナはあきらめ気味にコーヒーをすすった。今は一人っきりの執務室に、ズズズ、という音が響く。砂糖をたっぷりと入れた甘く濃いコーヒーは、イリリアやレヴァント各国で広く愛飲されているものだ。
ユリアナはレポートを置くと机の横の掲げられたイリリア国旗を見つめた。
中世の独立闘争を指導した、イリリアの英雄が用いた旗だ。金縁に黒地、中央には赤く双頭の竜のシルエット。
その時扉がノックされた。
「大統領、ルカです」
入室の許可を求めたのはルカ・ペトロヴィッチ首席補佐官だ。
「どーしたの」
「失礼します」
ルカは愛用している黒いファイルを片手に入ってきた。
「午後から行われる定例閣僚会議の資料が完成したのでお持ちしました」
「ありがと。あ、このドイト・レポート読んどいたから。外務省にお礼言っといて」
「了解です。……しかしなぜまたドイトラントのレポートを? 我が国とは関係の薄い国ですが……」
ルカは首を傾げる。このドイト・レポートはユリアナの命令により作成されたものだが、なぜこの国にユリアナが執着するのか、彼には今一つ理解できていなかった。
「まあ、ほら。ドイト新政府は全体主義とか帝国主義とかいろいろ推し進めてるじゃん? いろいろまずいことになってから調べるんじゃまずいよなぁって思ってさ」
ユリアナは今まで何度も言ってきた理由を口にした。しかしルカは要領を得ない、という顔のままだ。
「全体主義というならエトルリアの方がよっぽど我が国にとって危機的ですがね」
「それについてもちゃんとやるからさぁ」
「ま、ドイトの動向が次期大戦の引き金になりかねないとは外務省の解析班の人間も言っていたことですし、それは構いませんが……」
ルカはそういって話題を切り替えた。
「実は、今日の閣議で、産業省が新たな工業整備計画を提案してくるそうです」
「へぇ、五か年計画とは別に?」
ユリアナは首を傾げた。
五か年計画というのは、ユリアナ政権が発足直後に定めた政府主導による大規模な経済開発計画のことだ。名前はあれだが別に共産主義的なものではない。イリリア共和国は一応、自由主義と民主主義を標榜している。
この計画は交通インフラ、電力網、そして工場の整備を軸とした産業近代化を目標としており、今まで農業や畜産業が主産業だったイリリアに新たな風を呼んでいた。
しかしこれとは別に、産業行政を広く担当する産業省が新たな計画を立ててきたのだという。
「はい、産業省策定の計画は五か年計画と特に変わりはありません。しかし計画完成年度を1年前倒しにしたほか、五か年計画よりも大々的な資本投下を行う内容となっています」
「はぁ、そんなことできるの? 五か年の時だって資金集めちょー大変だったのに」
「…………」
ルカはユリアナの疑問には答えず、代わりに数枚の資料を差し出した。
ユリアナは素早く資料に目を通す。
「なにこれ」
その一行を理解した時、ユリアナは思わず声を漏らした。
『財源:エトルリア王国からの資金提供(すでに先方との交渉はほぼ妥結)』
「産業省は、どうやら我々には一切報告もなく、勝手にあいつらと話を進めていたみたいです」
ルカは顔をしかめていた。
「マジかぁ……」
ユリアナは資料を投げ出し、机に顔を鎮める。
「敵は内外にありってことねぇ」
その呟きが静かにこだまする。
閲覧、評価ありがとうございます! お約束通り小躍りして舞い上がっております。ユリアナさんの過去やら大統領への道やらは多分一個中編規模になりかねないので余裕が出たら書きたいなぁ、なんて考えております。
次話もよろしくお願い致します!