「軍、か……」――ユリアナ・カストリオティ大統領は呟いた
谷への突撃を敢行した警備中隊本隊は、左側面からの攻撃を受けながらも攻勢を続行。後続の歩兵部隊も続き、作戦開始より30分ほどで谷のほぼ全域を奪還することに成功した。
セプルヴィア軍残存勢力は陣地が残っているチッサイ山中に撤退するものの、合流したイリリア軍第二歩兵連隊の力もあり山中に包囲される。持ち運びにくい重火器や火砲の類はイリリア側に鹵獲されてしまったため、包囲された部隊は貧弱な火力で山の中に立てこもるほかなくなっていた。
「作戦はほぼ成功とみていいだろうね」
参謀総長のニナはクリスタル作戦をそう評した。ユリアナはその報告を黙って聞いていた。
「我が軍の損害は死者56人、負傷は77だと。敵は……、死者92を確認した」
ユリアナはそれを聞いて、深いため息をつく。
「最初に突撃した部隊のほとんど全員が……」
「……ああ。中隊長も重傷だよ。指揮は第二連隊長に移譲されたが……、独立警備中隊はほぼ壊滅だね」
二人に勝利を喜ぶ顔はない。勝利と言うには犠牲が大きすぎた。
「ただ、目的を達成したという点では成功だよ、ユリアナ。そっちはどうだい?」
「うん、エルザちゃんが必死で頑張ってくれてる。私も出るとこは出てるけどさ。決め手に欠けるんだよねぇ」
ユリアナは疲れを隠すことなく机にうつぶせる。正直、戦争を拡大させるか終わらせるかの主導権はイリリアではなくセプルヴィアにある。イリリアからは、抗議に次ぐ抗議、そして国境封鎖や経済制裁をちらつかせて迫るぐらいのことしかできないのだが、
「イリリアからの経済制裁って自分て言ってて笑っちゃうよねぇ、ルカ」
「大した経済規模ありませんしね、うち」
自虐をかますユリアナに、ルカも同意するほかなかった。元々イリリアとセプルヴィアの貿易量は大したことないので経済制裁など大したものではないのだ。と言うより、イリリアが受けるダメージの方が大きかったりする。
「で、国際連盟への提訴の件はどーなったの?」
「わかってて聞いてるでしょう、大統領も」
もう一つの策として、戦後組織された国際調停機関「国際連盟」への提訴も一応行っている。しかし結果の方は不調、ほとんど無視されているレベルだ。
「そもそもうちって連盟の理事国とのつながり薄いしね。連中もレヴァント情勢に足突っ込んで大戦争の悪夢を見たくないんじゃないの?」
「そもそも連盟に紛争解決能力なんてないでしょう。コルフ島紛争とか、犬戦争とかじゃ役に立った気もしましたが……」
「恐慌前ならともかく今はねぇ。ジュネーブの連盟代表が事務局に提訴しに言ったら露骨に嫌な顔されたらしいよ?」
厄介ごとに巻き込むな、と言うのが連盟を牛耳る連合王国やフランクの本音なのだ。だからこそエトルリアやセプルヴィアが好き勝手出来るし、「戦後体制の破壊」を訴える人間がドイトに独裁政権を打ち立てても何もしようとしない。
ユリアナは諦めて言う。
「どっちにしろ迅速な対応は期待できないねぇ。私たちだけで何とかするしかない、か」
「軍も頑張ってくれましたからね」
ルカも顔を引き締めた。
「軍、か……」
「大統領?」
「ちょっとエルザちゃんと電話繋いでくんない?」
――――――――――――
セプルヴィア王国首都、ベオグラードのイリリア大使館では西ダルダニアで起きた事件の解決を探った交渉が夜を通じて行われていた。
まもなく昼前になろうかと言うとき、大使はセプルヴィア外務省の担当者に告げる。
「……我がイリリア軍は、今回の事件で我が国に侵入した貴国部隊を包囲するに至りました」
セプルヴィア担当者の顔色が変わる。大使は初めて優位に立ったことを自覚して続けた。
「現在、戦力差は圧倒的に我々が有利です。貴国より撤退承諾の返答がいただけない場合、本日15時の時点で殲滅する、その場合将兵400名あまりのお命の保障は致しかねる、と軍は申しています」
担当者は「上に確認する」と早口に言って席を立つ。残された大使は、
「超、キモチイイ……」
恍惚とした表情でその背中を見送るのだった。ここまで交渉で優位に立ったのは、彼女の外交官人生で初めてのことだったという。
結果的に、この人質カードはうまく作用した。さらにエルザがイルマ駐イリリア・エトルリア公使に手を回し、エトルリア外務省声明として今回のセプルヴィアの対応を非難させることにも成功。事態拡大の場合には介入することすら示唆した。
正午前になって、セプルヴィアは包囲された部隊の即時解放を条件に部隊の撤収を提案、イリリアは同意し、後に西ダルダニア事件と呼ばれるイリリア・セプルヴィア間の武力衝突は終結したのだった。
しかし、この事件がイリリア政府に与えたショックは大きかった。わずか一個大隊がほんの少し国境地帯を占拠しただけで自軍に甚大な被害が生じ、奪還にイリリア軍総力の半数をつぎ込まねばいけないことがはっきりしたからだ。
このままでは来るセプルヴィア軍の本格侵攻に耐えられないことが、もはや誰の目にも明らかだった。こうして政府内部は、エトルリアとの同盟締結に前向きな勢力が一気に拡大する。
加えて事件処理の閣僚会議でユリアナ自身が同盟締結に賛成する考えを示したことから、イリリア政府はとうとう態度を決めた。
イルマ公使を通じた両国間の交渉で、今年中に同盟条約を発効することで合意。ユリアナは閣議で、6月から開かれる夏季定例議会に置いて条約への議会の合意を取り付ける方針を確認した。
五月の半ば、ルカは同盟条約批准のための議会工作の状況についてユリアナに報告した。
「すでに与党の国民党、及び連立を組む社会労働党は採決への賛成を取り付けていますが、野党の民族保守党の反発は大きいですね」
「ま、最悪無視していいでしょ。与党だけで三分の二は取ってるわけだし」
「しかし、エトルリアの全体主義には社会労働党内部に嫌悪感を持つものも多いと聞きます。採決は荒れそうですね……」
ルカは遠い目をする。ユリアナも嫌そうな表情を隠そうとしなかった。色々めんどくさい議会運営に関する考えを巡らせていた二人のもとに、来客を告げるノックがした。
「閣下ー、ちょっといいか?」
「あれ、ブレンカちゃん? どーぞー」
ブレンカ・プレヴェジが姿を現す。
「今日は何用? 機動防衛計画について?」
「いや、今日は参謀本部の人間としてきたんだ。……ちょっと大声で話せない話なんだが」
ブレンカは声を潜めた。
ルカは何かを察して、自分に部下へ電話をかけると、執務室への入室をしばらく禁止するよう命じた。
「どんな話なのさ」
ユリアナは眉をひそめるとブレンカは執務机の前に身を乗り出し、ユリアナと額がぶつかるのではないかというぐらい距離を縮めた。ルカもそっと聞き耳を立てる。
「実は参謀本部でデッカイチッサイ谷の戦いの反省と言うか、振り返りみたいなことをしてるんだ。兵棋演習ってやつなんだが」
現地の参謀が仮につけた名前がそのまま軍の戦史に記録されてしまったがゆえに起きたバカみたいな名前のバカにならない戦いだ。
「それで何だが……、どうもあんときのセプルヴィア軍部隊、第34歩兵大隊の動きが妙だって話になってな」
「……事件時もそんな話をしていましたね」
「あれはエルザちゃんが言ってたよね、あっちの政府の反応がおかしいって。それじゃなくて?」
「ああ、違う。軍の動きについてだ」
ブレンカは現地の地図を取り出した。
「一つはなんであんな辺鄙なところから来たのかってことだな。挑発っていうなら、それこそ警備所の近くの平野地帯でこれ見よがしに越境するか、あるいは国境の向こうから発砲するだけでいい。っていうかそっちの方が効果があるはずなのに、連中はその手を選ばず山奥の谷にこっそり侵入するっていうやり方を選んだ」
ブレンカは指を二本立てた。
「もう一つは、やつらの戦い方だ」
曰く、偶然の越境なら戦いを継続できるほどの弾薬を持っていないので、銃撃戦は起これどもすぐにひかざるを得なくなる。しかしあの第34歩兵大隊は重武装で越境し、国境地帯の占拠までやってのけたのだ。その点を鑑みるに、この事件は事前に計画され、その計画に則って実行されたに違いない。
にもかかわらずセプルヴィア軍本部は明らかに混乱し、結果事件に対する政府の行動を決定できないという致命的な失敗を犯した。援軍を送ればチンケなイリリア軍などあっという間にけちらせたにも関わらず、それもしなかった。
計画的なのか無計画なのか、まったくわからないのだ。この事実に頭を悩ませた参謀本部は一つの推論にたどり着く。
「つまりだ、このセプルヴィア軍第34歩兵大隊はセプルヴィア陸軍本部とは別の指揮系統のもと行動したんじゃないかって話になったんだ」
「別の指揮系統?」
ユリアナが思わず反復し、ブレンカも深刻な顔でうなずく。
「ああ。セプルヴィア以外の何者かが、両国間に戦争を起こそうとしている」
閲覧、評価、ブックマーク、ご感想など本当にありがとうございます! というわけで、ようやく対セプルヴィア国境紛争編が一旦の終結となります。
この事件の参考にしようとノモンハン事件に関する本や資料を軽く漁ったのですが……。うん、日本って感じ……、という感想が浮かんできてしまいました……。何はともあれ、今後のお話作りにも生かせそうです!次回もよろしくお願いいたします!




