「以上を『クリスタル作戦』として大統領に決行許可を求める」――ニナ・ポポヴィッチ陸軍参謀総長は言った
援軍要請を受けたイリリア陸軍警備中隊が現場に急行した時、侵入したセプルヴィア軍はすでに南北5キロほどある谷をほぼすべて占拠しようとしていた。
イリリア側も引っ張り出してきた75mm野砲や迫撃砲、重機関銃を投入しての反攻を行ったが、物量火力ともに相手の方が上だった。
イリリア軍はひとまずの方針として谷の入口に防御陣地を構築。土嚢で30メートルほどの谷幅を固め、4門しかない野砲と3門しかない迫撃砲を配備し、火力の集中を行った。少しでもセプルヴィア軍が顔を出したら集中砲火を浴びせることでどうにか防いでいた。
すでに日没を迎える中、最寄りの村の集会所に置かれた前線司令部では、あわただしく兵士たちが動き回っていた。
「中佐、偵察部隊からの報告なんっすけど、どうも敵は一個大隊程度みたいっす。それに、谷を占拠したっきり動き出す気配はないっすねぇ。どーもあそこに陣地を構築してるみたいで」
少佐の階級章をつけた女性が、中隊長を務める男性中佐に告げる。警備中隊は全線を任される独立部隊であるため、隊長の階級も他の中隊より数段高いのだ。
「配置は?」
「それも大体わかったっすよ。……大隊だけに」
「そんなこと言うとる場合じゃないわ!」
中隊長は少佐の頭をはたく。しかし少佐の方は一向に気にした様子はなく地図を広げた。
谷は最初にセプルヴィア軍が出現した分岐点あたりから入口までだいたい五キロほど。左右に曲がりくねっており、谷幅は平均で20~30メートルはある。もちろん流れる川の幅も含めての値だ。
谷の斜面は崖になってはいるもののその高さは1~2メートルほどで、西側、つまりイリリア側は緩やかな斜面が百メートルほど続き稜線となる。標高は百メートルもない。
反対にセプルヴィア領へ続く東側の斜面は勾配がきつく、そのまま500メートルほどの高さまで続いていた。
「そんで、地形的にセプルヴィア側の斜面、便宜上デッカイ山って名付けたんっすが、こっちにはほとんど見張りはないっす。反対にイリリア側のチッサイ山には砲兵陣地と射撃陣地があるみたいで、向こうの兵隊さんたちがえっせほいせと働いてたっす」
「お前のネーミングセンスにはいまさら何も言わんが……、その口ぶりだと直接見に行ったな? お前」
「はいっす! あたしが偵察隊を率いていきました!」
「バカモンっ! どこの世界に偵察に出る作戦参謀がいる!」
「ここに」
「…………」
中佐は苦虫を百匹ぐらい一気食いしたような顔になったが、すぐに追及を諦めた
「まあいい。それで? ほかに何か分かったか?」
「大隊本部と思しき天幕が、ちょうど谷の入口と終点の真ん中あたりにあったっす。さすがにそこはがちがちに防備されてて詳しくはわかんなかったっすけど、たぶん間違いはないっすよ」
「……そういえばお前、どうやって偵察に行ったんだ? 西のチッサイ山は敵がうろついてるんだろう?」
「はいっ! なんで東側のデッカイ山から行ったっす!」
「は? おいおいおい、そっちは国境だぞ? おまえ越境とかしてないだろうな?」
「え? さあ、目印とかなかったからわかんないっすね。でも見張りもほとんどいなくて超ラクだったっす!」
中隊長はなんてこったいと言いたげな表情で天を仰ぐ。
事態拡大を防ぐために、現在防衛以外の戦闘は認められていない。つまり国境を超えることは許されていなかった。
相手から宣戦布告もなければ事件に関する一切の反応もない現在、無用に相手を刺激する行為を現場判断で行うことは許されないのだ。だからわざわざ大統領の署名入りで「勝手なことをすんなよ(要約)」という命令書まで来ているというのに。
「……黙っとけばばれねえか」
中隊長は自分に言い聞かせる。
「そーっすよ、ばれなきゃ大丈夫っす! 中佐は心配性っすねー」
「誰のせいでこんな思いをしてると! っていうか、デッカイ山は険しいんだろ? 大丈夫なのか?」
「あたし、代々猟師の家系なんで余裕っすよ。山の中駆けまわって鉄砲撃ってたんっすから。部下もそういう奴選抜しました」
「……そうか。ならいい」
中隊長は、偵察時に越境した事実を巧妙に伏せたまま参謀本部へ情報を送った。はずだったのだが、「その情報はどうやって入手した!」と本部からしつこく根掘り葉掘り尋問される羽目となり、結局すべてを白状することになったのだった。
――――――――
ニナ・ポポヴィッチ陸軍参謀総長は言った。
「以上を『クリスタル作戦』として大統領に決行許可を求める」
「わかった。最高司令官として、クリスタル作戦の発動を命じる」
ユリアナがうなずくと、ニナと後ろに控えていた作戦幕僚たちは一斉に敬礼をする。ユリアナはルカが差し出した万年筆で命令書に署名を入れ、それをそばに控えていたトルファンに手渡した。
「これを持って、大統領よりクリスタル作戦発動命令を確認しました。ただちに実行に移ります」
「頼んだよ、みんな」
ユリアナは拳を握りしめた。
作戦発動命令は、秘密回線を通して前線へと伝えられる。
――――――――――
タンタンタン、という連続した発砲音が真夜中の森に響いた。
「敵襲っ!」
セプルヴィア兵は叫んで斜面に掘った穴の中に身を屈める。
「撃て! イリリア野郎に鉛玉をくれてやれっ!」
そういって、塹壕に据え付けられた機関銃を闇夜に向けて撃った。すぐに相手は攻撃をやめる。
「まったく、今何時だと思ってるんだクソが」
兵士はぼやく。時間は午前4時を回ったところだ。
すでに彼らがイリリア領に侵入してから丸一日以上が過ぎていた。イリリアからの攻撃は昼夜を問わず散発的に続いている。
小銃だけの時もあれば、野砲や迫撃砲を撃ち込んでくるときもある。わずか数十メートル手前まで接近され手榴弾を投げ込んでくることもあった。
兵士たちが防護しているのはイリリア軍が「チッサイ山」というあまりにもあんまりな名前を付けた山の稜線付近で、谷の入口に構えた正面部隊への攻撃はもっとひどいらしい。
どこからか響く銃声や砲声のせいで、この二日間、兵士たちはろくに眠ることすらできないのだ。
「大体、なんだって急にイリリアに攻撃なんかしたんだ」
兵士の一人がぼやく。もう一人がそれに答えた。
「知らねえよ。演習だっていわれて来て見りゃこれだ。訳が分からん」
兵士はブルリと震える。この時間、内陸部のこの場所はかなり冷えるのだ。しかし火でも炊こうものなら相手に自分の居場所を教えることになりかねないので、ひたすら耐えるほかない。
「まったく、どうなってるのか……」
「耐えろ。日が出りゃ奴らを狙い撃ちにできる。幸い昨日と違って明日は晴れるらしいからな。霧もねえらしいぞ」
「そうか、なら奇襲だのなんだのからは安心できるな」
「ああ、夜が明けるまでの辛抱だ」
日の出まであと2時間。兵士たちはどこから来るかわからない銃弾を警戒しながら、闇夜の森に目を凝らす。
山がちなこの地域は、明朝濃い霧に覆われることが多い。しかし事件発生から二日目の朝、珍しく霧は出なかった。
濃霧であれば奇襲攻撃も予想されたが、晴れた今朝は考えにくい。そんな空気がセプルヴィア軍将兵の間に流れる。
そして太陽が東の山から顔を出すころ、
その時が来た。
銃声は、正面ではなく後方から聞こえた。
「え?」
正面部隊を指揮すべき指揮官は思わず振り返る。銃声は、やがて本格的な銃撃戦の音へと変貌した。
「こちら正面。指揮所応答されたし! 状況報告を願う!」
指揮官は無線を使って後方の前線指揮所に問い合わせるが、返事は返ってこなかった。
「繰り返す! こちら正面。指揮所応答されたし!」
しかし何度か呼びかけてもスピーカーからはノイズしか聞こえない。指揮官は思わず立ち上がった。
「おい、誰か様子を見に行け! 後方から奇襲の可能性が!」
そう言いかけて、彼の頭が爆ぜた。
それを合図にして、弾丸の雨が空から降り注ぐ。
「て、敵だぁ! 上、上にいるぞぉぉおお!!」
塹壕と土嚢の仕組み上、横からの弾丸は防げても上からは無防備だ。セプルヴィア兵たちは逃げ惑うしかなかった。
それでも何とか、谷の出口を睨んでいた機関銃の銃口を上に向ける者もいた。そいつらは、
「撃てぇっ!」
ずっと自分たちを睨んでいたイリリア軍の野砲によって吹き飛ばされたのだった。
――――――――――――
イリリア軍は少数部隊を東側の山『デッカイ山』から侵入させることに成功した。谷に面したデッカイ山斜面が急であり、山自体の標高も西側より高い。下るのはともかくとして、上るのは困難だ。
その上セプルヴィアが、イリリア軍の攻勢が予想されかつ超えやすいチッサイ山に防備を集中させ過ぎたことが、奇襲成功の要因である。
昨夜のうちに侵入したイリリア軍部隊は、小銃の射程圏内まで近づくと斜面に生えている木に体を固定する。山での狩りに長けた兵士を選抜し、日の出、自分たちの姿が光に紛れる時間を狙って発砲した。
山中を駆けまわる獣を相手にする彼らにとって、油断しきっている人間を狙うことなど難しいことではない。部隊は二手に分かれ、一つがセプルヴィア軍指揮所を、もう一方が最も戦力が固められた正面部隊を狙った。
同時に奇襲によって混乱したセプルヴィア陣地に向け、百人余りの本隊が砲撃と突撃を敢行したのである。
「突撃っ!! 機を逃すな、進めぇっ!!」
中隊長の命令とともに突撃を知らせるホイッスルが鳴り響く。
「行けぇ、進めぇっ!!」
騎馬部隊を先頭に、歩兵たちが小銃を手に谷を進む。中隊長はその先頭にいた。
奇襲のおかげで、強固だったセプルヴィア正面陣地はズタボロだった。イリリアは難なく正面陣地を突破する。
「中隊長! 左側面より攻撃っ」
左側、チッサイ山にいた部隊が、反撃を開始する。
「構わん進め!」
しかし中隊長は前進命令を撤回しなかった。ここで引けばまた押し返される、という確信があった。
「いいか! これを機に谷を取り戻せぇ!」
『デッカイチッサイ渓谷の戦い』は名前のバカらしさに見合わず、激戦を迎えつつあった。
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一週間ぶりの投稿となってしまいました……。これからは土日更新が増えるかもしれません(予定は未定です)。ぼちぼちと書いていきたいと思いますので、これからもよろしくお願い致します!




