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黄余暉ウォン・ヨキと呼んだ方がいいか」


 その声は恐ろしいほど平然としていて何も読み取れない。

 昨日美術館で出会った日本人の泥棒。名前は確かヒカル。

 黄余暉の名前を知っているとなると、彼もあのサングラス男の仲間だったのだろうか。泥棒と偽り近づいたのだろうか。そうでなけはればただの日本の泥棒がそのことに気付くわけがない。


「……俺のことはどこまで知っているんだ?君は一体……」


 ヒカルは勘ぐるザックに失笑を漏らし、自分の頸髄を人差し指で叩いた。


「安心しろよ。俺が暗殺者アサシンなら声をかける前に刺してる」


 はっきりとしない口調だった。ヒカルはザックがあのサングラス男に追われていることとその正体が暗殺者だと知っているのに、自分は暗殺者ではないと言う。じゃあ誰だと尋ねてみたいが、その瞬間に向けられた鋼のような視線に躊躇ってしまう。その視線はヒリヒリとザックを追い詰める。


「……全て知っているんだな」

「そうでもないさ。聞きたいことならある。例えばお前がなぜ香港マフィアにいたのか、命を狙われているのにどうしてそこまで『silver tiara』に執着するのか、とかな」


 教えるわけにはいかない、と良い言い訳はないかと頭を巡らせるが、ヒカルは目ざとかった。


「嘘は下手か?目が泳いでる」


 まるで尋問だ――ザックは手に冷や汗を感じながら思った。そしてヒカルに追い詰められる度、徐々に血の生臭さが強くなっていく。

 鉄臭さに気が遠くなりマフィアのボスが死に際に浮かべた血塗られた表情が浮かんだ時、ザックはポツリと言葉を溢した。


「香港マフィアのボスがあの絵を持っているという噂があってね……それを確かめるため俺はあの穢れた組織に潜り込んだのさ、黄余暉として」


 黄余暉の盗人としての能力は重宝され、黄は対外マフィアの情報収集をするようになった。そしてすぐにボスに気に入られたのだった。黄が酷く潔癖だと言えば汚れ仕事が回ってくることはなかったほどに。それでも偶に見たその道の仕事は穢らわしいことこの上なかった。


「潜入して半年が経った頃かな、あの絵はついに俺のものになったんだ。汚れた奴等の手から解放されてね。だがまたしてもあの絵の価値を知らない奴のせいで俺の元を離れていった。その時喪失感にさいなまれた俺は、俺は……」


 ザックは左手で右手に強く爪を立てた。その手は穢れた者の汚い血にまた塗れている。


 ついこの前まで世話になっていた中国マフィアのボス。あの男はザックの目的を知って、わざとザックの手からあの絵を奪い取った。それを知った時のザックの行動は潔癖な泥棒としてあるまじき行為だった。


「あの絵は人の心を変える。それでも俺はあの絵を愛している……けど」


 ザックは自分の血が滲む爪痕を哀しそうに見つめた。その先の言葉を言うのは正直怖いし、認めたくもない。

 けど、と手を震わせながら息を吐く。


「俺の手は穢れてしまった。もう、この手で崇高な美術品を触ることは出来ない……」


 それが、この島に来て絵の在り処を知りながら盗るのを渋っている理由だった。

 頭を上げて鏡の奥を見ると、まるで同情するかのような視線を向けられていた。


「君になら分かってもらえるかな?同じ怪盗として。君には君の、俺には俺のポリシーがある。俺はそれを破ってしまったんだ」


 ザックは震える手を握りしめる。触れることはできないが、それでも独占欲が収まらないのは泥棒の性なのだろうか。

 だがこの欲を一人で満たすのはもう無理だ。


「……だから君に頼みたいことがある。知っての通り、俺は命を狙われている身だ。このまま逃げきれるとは思わない。ならせめて、あの絵だけでも守ってほしい」


 お互いのことをよく知りもしない同業者にこんなことを頼むなんて、普通は信じられないことだ。だが出会ったばかりのヒカルに『silver tiara』のことを話したのは、きっと心のどこかで彼に託したかったからなのだろう。


「……あんたはいいのか?」


「あぁ。こんな血に塗れた手で触れてもあの絵が汚れてしまうだけだ。それならば君に、あの絵を託したい」


 鏡越しに、真剣な目で見つめ合う。これで断られたら、自分は大人しくマフィアに殺され絵にはもう一生会えないことになる。

 必死の思いで鏡の中を見つめたら、ヒカルは目を伏せて長い溜息を吐いた。


「……分かったよ。あんたのその潔癖なポリシーも、大切なものを失う哀しさも。けどあの絵を俺のものにして何になる?俺は自分の欲しいと思ったものしか盗らないし、他人の獲物には手を出さない、それが俺のポリシーだ。そしてあの絵はあんたの物だろ。泥棒の俺としてあの絵に盗む価値はない」


 そうか、とザックは声を絞り出して俯いた。


 こうなったらもう、あの絵が美術館の裏で人目つかず保管されるのを願うしかないのか。それも望みは薄いだろう。あの絵の本当の価値をマフィアの奴等も嗅ぎつけているはずだから、すぐ処分しにくる。だからといって自分が救い出せるわけでもない――


「……でも」


 ふと、ヒカルが小さく呟くのが聞こえた。


「何か思いついてくれたのか?」


 弱々しく鏡を見上げると、後ろにいたはずのヒカルの顔が真横にあった。


「あんたが俺を雇うってなら話は別だ」


 近くで顔を覗き込まれ、その表情に慄く。その顔には今の今までとは別人のように不適な笑みが浮かんでいた。


「俺が盗んで、アンタに渡す。これならあんたは直接手を触れずにあの絵が手に入るだろ?」


 一転したヒカルの静かな迫力に気圧され、ザックは半歩後ずさった。その言葉の意図が読めない。


「や、雇うってことは……報酬が欲しいのか?」


 そしてそれを聞いた途端、ヒカルの目つきが変わった。

 不敵な笑みを浮かべるその瞳の奥で、何かが宿ったように赤いランプが揺らめき出す。


「代わりに俺が欲しいのはあんた、いや黄余暉の言質だ。香港マフィアについて、黄余暉が持っている情報が欲しい。向こうじゃ情報収集をしていたんだろ?」


 そこから漂う雰囲気は常人のものとは思えず、ザックは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。今のヒカルは――怖い。


「……それを知ってどうする?」


 なぜ日本の泥棒が香港マフィアの情報を欲しがるのか。ヒカルが黄余暉の正体を知っていたことと何か関係があるのだろうか。

 ヒカルがニヤリとその口元を歪めた。


「生かすのさ」


 あっさりとした答えに、ザックはまさかと目を見開く。それを見たヒカルが人差し指を唇に当てる。


 情報を生かす仕事。そして香港マフィアの内情を知りたがる日本人。


「俺の盗みは趣味止まりなんでね」


 つまりこの男は泥棒などではなく――日本のスパイだったというのか。

 ヒカルの背後で、赤い照明がその顔を妖しく照らす。


「黄余暉から情報を頂くのが俺の仕事だ。だからそれまでは殺されるなよ……『silver tiara』が欲しいのなら、な」


 唖然とするザックにそう言い残し、ヒカルはスッとダンスフロアへと続くドアの向こうに消えた。


 ちょっと待てよ――とその影を掴むように手を伸ばす。

 君が日本のスパイだと言うのなら、君は『あちら側』の人種になるじゃないか。

 今自分の命を狙っている、穢れた連中と同じ。

 ヒカルがそうだとは思いたくないが、ザックの物差しで言えばそうなってしまう。


「……言ったじゃないか。穢れた手で崇高な美術品を触らせるわけにはいかないと……ヒカル!」


 後を追うようにフロアに顔を出したが、そこにはタンゴの音楽に合わせて身体を揺らす人ばかり。

 ヒカルの姿は霧のように消えていた。


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