Ⅵ
黄余暉がその男を見たのは大勢の人が行き交う通りの真ん中だった。
人混みの中、黄と数十メートル離れた先にいるその男だけが別の空間にいる感覚に襲われた。
煌々と輝く夕日を背にサングラスをかけた男がニヤリと薄気味悪く笑いかける――
逃げろ。
本能が叫び、黄は咄嗟に身を翻す。
逃げろ。捕まるな。捕まったら最後、殺されるのだ。自分があの男のボスをそうしたように。
黄が逃げ出したと同時に男も走り出したようで、背後が騒がしくなる。
必死だった。
大通りから逸れて小道に入り、建物の影に入り込む。
数秒間息をひそめるがすぐに遠くから走る靴音が聞こえ、背後にあった地下階段を駆け下りる。地下の扉を開けるとそこはダンスフロアとなっていて、ドレス姿やタキシード姿で混み合うフロアの中央では一人の女性がタンゴを踊っていた。
赤いドレスを纏い蠱惑的に踊る女性に視線が注がれる人の群れを掻き分ける。
そして駆け込んだ洗面所で、黄は激しくなる呼吸を必死に抑え込もうとした。
走っただけにしては心拍数の上がり方が異常過ぎる。頭に浮かぶのはあのサングラスをかけた男の不気味な笑み、そしてそれにリンクするかのような血塗れの男のこちらに向かって手を伸ばす姿――
「やめろ……ッ」
頭を強く抱え込んで振り払おうとするが、チラリと見えた鏡に映る自分の手が真っ赤に染まっているのが見え、どこからか血の鉄臭さが漂ってくる。
「……あ、あぁ……ッ」
忘れろ、あれは俺じゃない。俺は悪くない。
脳裏にこびりつく血に塗れた男が迫る。
血と、その臭いを流そうと手を強くこすり洗う。
「消えろ、消えろ、消えろ……」
だが水の勢いを強くする程に手が汚れていく感覚が増す。
「何をそんなに焦っているんだ?」
突然した声に振り向くと、そこには知っている顔が悠然と涼しげに壁にもたれかかっていた。
「あ、あぁ……偶然だな。また会えるなんて」
慌てて平然を装って前を向く。血生臭さも手に付いた血もそこにはなかった。息苦しさも消え去った。代わりに見られたくないものを見せてしまった焦りがあった。
「追っ手がいるってのにこんな逃げ場ない所に逃げ込むなんて、よほど焦ってんだな」
そして彼は目を光らせて付け加えた。
「……ザック」