溶ける記憶②
「あの、篠原さん。そういえば小説の最後でクレインが言うじゃないですか。今度は君の方から僕に会いに来てくれ……って。でも、そもそもクレインという人間は存在したんでしょうか。クレインがどの人間も持ちうる普遍的な要素の一部だとすれば、クレインそのものは……存在しない?」
祐が答えるより先に、圭が口を開いた。
「クレインと呼ばれる人間を俺は記憶では知らない。あいつは、俺が夢の中を彷徨っている中で自分のことを俺の記憶の一部だと言っていた。俺の記憶と言えば前世の記憶のことなんだろうけどな、それらのうちのどれというわけでもなさそうだった」
そう言って片頬に手をあてる圭の表情は、今や会えなくなってしまった知己を懐かしむかのようだった。澪はその横顔を見つめる。当初はあれだけ「クレイン」と話がしたいと意気込んでいたものだった。その勢いが西崎圭との出会いによってすっかり方向性を見失ったのだ。澪の中で確かなのは、圭がクレインではないということだけであった。しかし今度は、そもそもの「クレイン」とは一体何だったのかという疑問が浮かび上がる。
圭の考えを受けて祐が繋いだ。
「成る程ね。クレインという名前はあくまで僕が与えたものだけど、澪ちゃんも僕が作ったキャラ、あるいはそのモデルの少年に近しい存在をクレインと呼んでいた。だからクレインという名前が漠然とした存在ながらも圭くんの記憶に取り込まれたわけだ。
圭くんは夢でそのクレインに会い……、いや『会う』という表現はおかしいのかもしれないな。クレインに遭遇して、過去を共有したんだろう。そのとき圭くんは、自分ではない人間の過去と融合したかのような気持ちになってしまった」
「その通りです。一番強烈だったのは祖父の記憶でした。俺に似てるって言うのは聞いていたんですけど、目の前で母親が話しかけてきて。祖父の身体を所有している感覚は確かにあって、それはもう生々しい感覚で、でも勝手に口が動いて喋るんです。何が現実だかわからなくなりました」
勢い付いているのだろう、祐の前でも一人称を変えることなく話に夢中な圭の姿を、澪は微笑ましく見守った。澪は以前に祐から一つの問いかけを受けている。すなわち「クレインは実在するかどうか」ということだ。その問いを受けた当時に澪が出した答えは、「クレインは実在した」というものだったが、今となってはその答えも怪しいと澪は考える。クレインとはまるで形を持たないものだ。言うなれば、過去を回想したときの過去にあたる。過ぎ去った時間を振り返るとき、そこには何もないのだ。過去があったという事実は残るし、写真なり記憶なり、その存在を実証するものもある。しかし人間の連続性の過程で抜け落ちていくものを考えたとき、それらには形がないことに気づく。それは心と言ってもいいのかもしれない。
「私たちは、常に自分は連続していると思い込んでいます。でも時間を経るごとに記憶は薄れて、少しずつ過去の自分ではなくなっていく。クレインはそうした過去の自分の象徴なんじゃないでしょうか。篠原さんの小説のラスト、私本当にお気に入りなんです。でも……クレインが誰を待っているのか知りませんが、その待ち人は永遠に来ないと思います。だって私たち、もう過ぎ去った当時の自分とはすっかり身も心も変わってしまって。いわば別人なんですから」
「過去の自分の象徴、か。とすると、クレインのモデルにした彼も同じことを思っていたんだろうか。永遠に訪れることのないものを、ひたすらに待つ……。どうして僕は彼に羨望の念を抱いたんだろうな」
「今のままがいいって思うこと、あるじゃないですか。結果的に私はまた西崎さんと付き合えましたが、この後のことはよくわからないし。でも、時間が経ってしまう以上、私たちが触れ合ってしまう以上、変化していくほかないんです」
澪の言葉に聞き覚えがあることに気付き、圭は自身の顔が火照るのを意識した。クレインに説得される中で、「今の澪がいなくなってしまうことになってもいいのか」ということを言われたのだ。そんなことは覚悟の上だったはずなのだが、自分を好きでいてくれる澪がいなくなることをやはりどこかで恐れていたのもまた事実であった。それにしてもと圭は思う。すっかり澪に思いを寄せている自分の存在を無視するわけにはいかないと。
そんな圭の思いは知ってか知らずか、澪が圭の頬を「どうしたんですか」と言わんばかりに突いた。圭はすぐさまその手を握って制し、「これだからお前は」と呟く。
「今経験していることの全てを記憶に留めることはきっと不可能だ。それでもな、どんな時も昔の自分に共感していたいと思うぜ。例え今の自分が別人になっていようとも」
そう言い終えた後で、圭は二人の様子を窺った。店内の音楽は既に次の曲へと切り替えられている。祐も澪もそれぞれに解釈したことがあったのだろう、二人の口元では静かな笑みが湛えられ、そのあとに訪れたのは余韻のない沈黙だった。
時刻にして開始から二時間ほどが経過したといったところだろう。窓越しの太陽が三人を見守るように照らす。当の三人は気にも留めていないが、ささやかでありながらたくましい光だ。その太陽の横を一筋の白雲が流れていった。白い時針の行方は誰も知らない。




