溶ける記憶
◇
圭と澪、並びに祐が初めて出会ったときと場所と時間帯を同じくして再び顔を合わせたときには、澪が圭を説得しに奔走したあの日から一カ月近くが過ぎていた。当初は祐と澪の語らいの場になっていた喫茶店だが、この調子だと三人の集合の場になりそうだと、これは各々がうっすらと思ったことである。
「こうして二人を眺めるぶんには、大して変化は感じないんだけどね」
陰ながら自身の書いたクレインの小説を読み返すくらいには心配していた祐なのだが、思ったよりも元気そうな圭の姿を確認するなり素直な感想が口を突いて出たようだった。「またそんな他人事のように!」と仄かに顔を紅潮させる澪の姿に苦笑を向けながら、祐は圭の方を見やる。
その視線に耐えられなかったのか、圭は吸いかけた息を吐きだして意識的に視線を落とした。
「そういえば……篠原さんの小説、読みましたよ。澪に勧められて。クレインが、いましたね。でも……僕の知らない部分もありました」
「読んでくれて有難う。一応フィクションだからさ。澪ちゃんから聞いているかもしれないけど、あの小説っていうのは一部事実、一部僕の想像で成り立っているものでね。確かにクレインは存在したんだ。でも、それだけなんだよね」
「僕はクレインの一部を持ちながら、クレインにはない部分も持っている。でも本当にそれだけです」
以前よりも幾分棘のない祐の言葉に安堵したのか、圭はついさっき笑い方を覚えたかのような純粋な笑顔を見せた。
「昼の空は黒く――って、クレインが言うじゃないですか。僕はあのセリフを篠原さんの小説を読む前から知っていました。きっと誰かが言った言葉なんです。クレインを共有したこれまでの誰かが、これまでの過去の中で発した言葉」
「その言葉がなければ今頃こんなことにはなってませんよね」と澪が口を挟む。祐の方ではクレインならこんなことを言いそうだと、あくまで創作として付け足したセリフだった。しかしそのセリフが圭の中では事実だったのだ。この偶然のために各人の言動が空回りしてしまった部分があることは否めない。
結局さ、と祐が一度深呼吸をした後で言葉を発した。
「存在証明に必死だったんだよね。クレインも、圭くんも。もしかしたら澪ちゃんも。いや、僕だってそうかもしれないな。クレインのモデルにした少年は、当時の僕には大層輝いて見えた。この世界で唯一彼だけが彼のままであるように思えたんだ。それっていうのが僕の目にはすごく眩しく映るものだから、僕はこんなに素敵なことはないって思ったんだよ。だけどどうだろう。モデルの彼のその後を僕は知らないけど、彼もクレインを名乗ることに違和感を持たなかったとしたら、それはもはや彼というよりクレインに似た何者かでしかないわけなんだ。そうだろう、圭くん?」
「篠原さんの言うその人がもし僕と同じ境遇だったとすれば……僕はその気持ちが分かる気がします。クレインに似た何者かでしかない、というのも同意見です。澪がいなければ、僕はクレインになることへの抵抗を捨てたままでした」
店内を流れる音楽はいつしか転調したようだった。聞き覚えのあるはずの音なのに、どこか異なりを帯びて響く空気の振動。澪はいつしか祐と圭の二人の話よりもその音楽に気をとられ、外の光が差し込む方へ曖昧な視線を向けていた。不意に圭の発言の中に自身の名を聞いて刹那的に我に返るも、すっかり見解が一致したのか穏やかに会話を進める二人を眺めるうちに澪は一歩引いたところで思考を泳がせていた。
何か大きな問題を抱えていたような気がするのだが、それが何かを思い出せないのだ。そもそもそれは問題だったのだろうか? 自分は当初、何かをひどく渇望していた気がするのだが、それは一体何だったか――そんな考えが澪の頭を巡っていた。




