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白い時針は空の上  作者: 桧山いちか
綺麗な嘘、癒えない創傷
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綺麗な嘘、癒えない創傷④

 物言わず、だからといって拒否する姿勢を見せるわけでもなく家に入ろうとする圭に澪は続く。一歩足を踏み入れたなら、その場所に人の気配はまるでなかった。誰に言うでもなくお邪魔しますと声に出し、そしてこの空虚な感覚を、澪は以前にも知っている気がした。言葉ばかりが浮き、気持ちのこもらない状況。それでも会話は成立する。口にした言葉の数だけ世界は回る。しかし自分だけが取り残されたような気分になるのだ。まるで人知れずいけない嘘でもついてしまったような気がして。

 隅々まで整理された圭の部屋に辿りついたとき、澪は窓越しに闇夜から覗かれた錯覚に陥った。いくら日没が早くなった今の季節とはいえ、流石にそこまでの時間は経っていないはずだった。特に時間を気にせずに祐との話を切り上げてきたものの、夜というにはやはり早い。昼の空は黒い、澪は圭に聞かれないよう心の内でそのフレーズを唱えた。


「夢を見ていた、久しぶりに」


 唐突に、焦点の定まらないままの目をして椅子に腰かけた圭が口を開いた。立ち尽くす澪の姿など目に入らないといった様子で、独り言のような聞き取りがたい声音で続ける。


「掴みどころがなくてよく思い出せない。……いや、嘘だ。俺は知ってる。俺が見た夢が何だったのかを知っている。あんな夢を見るのは初めてなんかじゃない。俺は俺でない誰かの夢を見ているものと思い込んでいたんだ……それはもう本当に長い間、ひたすらにそう思い続けてきたんだ。でも……今となっては、思い込みだったんだと気付いた。全部俺で、いや……俺なんて最初からいなかったんだ。だって俺は……」


 そこまで言い終えると圭は何者かに許しを請うかのように天井を見上げ、目を閉じた。そうして初めて来客の姿を確認するかのように時間をかけて目を開き、その視線を立ち尽くす澪へと向けた。ようやく視線があったにもかかわらず、今度は澪の方が圭を直視できずにいた。


「やめてください、西崎さん……。西崎さんには西崎さんの時間があることくらい、わかってますけど……、私の全く知らないところで、それもずっと遠くで、西崎さんが苦しんでいるみたいで悲しいです……」

「悲しい?」

「西崎さんの言っていることが、まるでわからないんです。さっきから……何も……」


 何とか納得のいくまで話をするべく部屋に入れてもらわなければ、という澪が数分前にしたばかりの決意はすっかり姿を隠してしまったようで、澪はただただ状況についていくのに必死であった。圭はというと、相変わらず見慣れぬ微笑を投げかけてくるものだから、余計に調子が狂うのだ。圭が本調子でないのは確かな事実だ。そして、圭が自分を遠ざけようとしていることもまた、澪は事実として受け止めていた。

 それでもやはり素直に受け入れられない感情の波が澪の声をわずかに震わせる。


「クレインは、西崎さんに何を言ったんですか」

「俺たちは、感性に従って死んでいくらしい。今までだってそうだったんだ。夢で見た世界は全部俺のものだったんだよ……なぁ、信じられるか? 俺なんて、たった一人の俺なんて存在しなかったんだぜ……。俺が俺だと信じていたものの全ては、クレインだったんだ。お前と初めて会った時のこと、今でも覚えてる。俺をクレインだと言ったのも、今なら素直に頷けるんだ……」

「違います! 最初はクレインを被せていました、だけど……やっぱり違うんです。例え同じ言葉を言ったとしても、同じ世界の見え方をしていたとしても、西崎さんは西崎さんで、クレインじゃないんです! だから、『俺たち』なんて言い方はやめてください……」

「俺とクレインでは、何が違うんだ? ……一緒だよ、澪。最初からお前が正しかった」

「私は、クレインを知りません。でも西崎さんならほら、私の目の前に……」


 触れると消えてしまうのではないか、瞬時にそんな思いに掠められたため、澪が伸ばしかけた右手はある空間で動きが止められてしまった。そうなることがわかっていたとでもいうように圭は僅かに目を伏せる。


「俺は篠原さんを見たことがある。そして、その時の俺がクレインのモデルなんだろ。これ以上の説明が必要か?」

「クレインという名前は、篠原さんが便宜上つけたものです。篠原さんの作り出したクレインは存在しません。クレインと名前を与えたくなるほどのある種の人格……もしくはその人がいたにしても、その人は篠原さんのいうクレインではないんです。篠原さんが見たのはその人の一部分で、それを篠原さんはクレインと名付けて脚色していったんです……」

「お前は……クレインを否定するのか?」

「西崎さんの存在がなくなってしまうくらいなら、クレインの存在を否定したっていいです。私が好きなのは、西崎さんただ一人なんですから」


 視界の隅で、澪はたちまち外の景色に光が宿ったのを見た。色のない光だった。

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