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白い時針は空の上  作者: 桧山いちか
綺麗な嘘、癒えない創傷
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綺麗な嘘、癒えない創傷②

 さながら自分自身が物語の登場人物になったようだと、圭の住所を一目散に目指す中で澪は思った。小説の一節が浮かぶ。今度は、君の方から僕に会いに来てくれ――。物語の終いで、最後にクレインはそう呟くのだ。祐の描く物語の中で、主人公クレインは生涯で一度しか人を愛することができない。それまでもそうだったのだ。彼の前も、そのまた前も。そのせいか「彼」は大体が短命に終わるが、それは彼自身の手によってということもあれば、防ぎようのない環境要因による場合もあった。彼の死の基準はまるでわからないのだ。澪がクレインのことが気になって仕方がなかったのは、偏にこの点だ。彼は何を以って死ぬのか。

 作中クレインにはやはり愛情を捧げるべき相手ができ、しかしながらクレインの事情――前世に似た何かの存在であったり、それというのがどうやら連続しているようであることだったり、さらには生涯で一度しか愛することを許されないといったことだ――を知った相手は、故意に距離を置こうという考えに至るのだった。そうすればクレインは「失恋」することもないのだし、一緒にいては今までの繰り返しだと、そういう筋道だった。果たしてクレインは恋に破れたときに死んでしまうのだろうか? いや、と澪は思う。それは恐らく違うだろうと。彼には独自の連続性があり、彼と彼以外の人間の間には決定的な差があるのだ。彼は何度も「彼」であることを繰り返す。それはひたすらに、昼と夜が逆転してしまうくらいに。

 いよいよ目前に迫った圭の家を前に、澪はすっかり乱れた呼吸を急いで落ち着かせるべく大きく息を吸う。緊張している暇はない、圭の態度といい祐の表情といい大方が「いつも通りでない」顔を見せているという事は到底喜ばしく思えたことではないのだ。インターホンの音が響く。圭が以前話してくれた情報、並びに澪の記憶が正しければ、圭は父親と二人暮らし、ともすれば父親に会ってしまってもおかしくはない状況だが、どうもこうも言ってはいられない。無機質な音のあとには何の音も続かず、澪は半ば諦め気味に再度ボタンに置いた指に力を込める。いくらここまで来るのに何の躊躇もないほどの勢いだったとはいえ、さすがにいきなり押し掛けるのはまずかったかという考えも漏れ出してくるころだ。行動力にかけては自信のある澪だが、さすがに今回の状況は彼女にとっても不慣れな事態なのである。

 二度目の音とともに澪が冷静さを取り戻しかけていたころ、ようやく応じる声があった。圭本人だ。目の前に相手がいるわけでもないのに澪は身体を前のめりに、すぐ終わるから話をさせてほしいと願い出た。

 暫しの沈黙。

 ちょっと待ってろ、と気怠げな声を残し、稍あって圭が玄関からその姿を覗かせる。祐の脅し文句のせいで万が一のことまで思考を巡らせた澪は、まず圭が無事であることを確認できただけで任務を遂行したような気分だった。圭はと言えばまるで寝起きのような出で立ちだが、そんなことを気にしている暇はなく、何より澪の方でも冗談が言えるほどの余裕は持ち合わせていなかったのが実情であった。


「あ……の、突然すみません、いきなり連絡が途切れたもので心配で……」

「悪かった。終わりにしよう」

「……はい?」


 澪の火照った身体はそのときに限って思い出したかのように冷気を含む風を全身で感じ取ったが、だからといって澪がその場で即座に理性的な判断を下すには至らなかった。


「待ってください……。ほら私なら全然怒っていないし、ね? 西崎さん、具合でも悪かったんですよね。私別に催促に来たわけじゃなくて……そう! 篠原さんが、西崎さんに何かあったかもしれないなんて怖いことを言うから、私慌てて――」

「俺はいつも通りだ。もう俺に関わるな」

「い、いつも通りなんかじゃ……ないですよ……」


 切迫した圭の顔を前に、澪は思わずたじろいだ。まともに目を合わせようともしなければ、こちらの話など最初から聞く気のない、そんな有様だ。今までの一切が、瞬時にして灰にされつつあるような、そんな虚しさの募る思いを顔に出さないように懸命に堪え、澪はいっそこれが悪夢であったらと考えもした。


「こんなの、あんまりですよ……。今までの、私たちの時間は……そんなに簡単になくなってしまうものなんですか? 西崎さんが否定しまうのなら、誰も私たちとの時間を証明してくれません……」


 一向に澪の方を見ようとしない圭は、やはり虚ろな視線を地に落とすばかりだ。それでも澪が発する言葉の意味はわかっているようで、「それは悪いと思っている」と圭にしては似つかわしくない謝罪の言葉を述べるのみだった。

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