夢は夢でしかないと知っていても④
◇
長らくの落下からはすっかり解放されたようだった。閉じた瞼の上に光の厚みを感じ、俺は薄く目を開く。見たことのない景色であるはずだが、相も変わらずその場所には既視感もあった。
「ねぇ、聞こえてるんでしょ? 返事してよ」
俺を上から覗き込むように、企み顔で微笑む母の姿があった。母の顔を見るのは久方ぶりだ、何年も前に離婚して、自分が父親に引き取られて以来母と会うことはなかった。いやしかし、それにしても目前の母の顔は幼い。下手をすれば自分よりも年下なのではないかというほどにだ。笑顔に面影があるからわかるというものの、つまりこの状況は――と揺蕩う思考を遮るように母が俺の体を揺する。
「寝すぎだよ、お父さん。こんなに天気もいいんだから、どこかに出かけようよ」
母が俺に寄りかかる。何ということだろうと俺は内心毒づく。どうやら俺はまだ悪夢から解放されていないどころか、最も避けたかった「祖父」の役をさせられているようなのだった。祖父の声の出し方など知らない。ましてや対するは自分の母親だ。拷問でしかない。
「夢を見ていた、久しぶりに」
「なぁに、どんな夢?」
「……掴みどころがなくてよく思い出せない。だが、初めてではない気がする」
俺が意識するより早く、「祖父」は言葉を繋いでいた。夢なんてそんなものよ。そう母が笑って返す。ただの夢ではないのだと、そう抗議したい俺の思いはまるで反映されず、「祖父」はとりとめのない話を続ける。俺でない誰か、そう認識すれば少なくとも自分は保っていられるはずだった。ところがどうだろう、明らかに「祖父」の身体は俺のものなのだ。生々しいまでの生の実感、目を向ければ移ろう視界、俺の意識さえなくせば、俺は「祖父」になれるのではないか――そうも思えた。
不吉な砂嵐に似た戸惑いを押し隠し、俺はクレインを探そうと思い立った。そもそもの元凶はあいつなのだ。
「やっぱり僕が必要なんだろう?」
すぐ隣でクレインの声が聞こえた。それまで実感していたはずの景色が、音が、言葉が、砂となりその場に一斉に崩れ落ちる。気が付けば四方八方が闇により囲まれ、俺は立っているのか浮いているのか、それすらもわからない空間に一人投げ出された。どこを向いても先は見えず、得体の知れない恐怖感に完全に支配される前に俺は叫ぶしかなかった。
「俺を夢に閉じ込めてどうする気だ!」
背後に感じる何者かの息遣いに、俺は思わず身体を硬直させる。
「だから、さ。僕は君自身なんだ。夢から出られないというのなら、それが僕のせいだというのなら、それは君が下した決断に他ならないわけだよ」
「……何をほざいてやがる」
「君自身が選んだのさ。大丈夫、身体は朽ちても僕たちは、ずっと同じ感性の中で生き続けるよ。楽しいことも、悲しいことも、そのままにね」
「望まないと言っただろ!」
「どうして?」
「現実に、返してくれ……」
「さっきのは過去の回想。現実なんて過去の積み重ねなんだからさ、夢の中だって現実には変わりないんだよ。君の記憶は非常に忠実に再現してくれるからね」
「未来に生きないといけないんだ、でないと俺は……」
「君が選んだんだ」
「違う、俺は俺であるために、俺だけの時間を持たないといけねぇんだよ!」
「過去の君を捨てるのか」
「……」
「僕を切り捨てるということはそういうことだよ。君がこれまで感じてきたことの一つ一つが、失われていくんだ。自分が持ち得たはずの感覚を失っていく辛さを、君は受け止めることができるというの?」
「それは……」
「それが君の答えだ」
あらゆる色の行き交うその空間で、俺は俺自身の存在を見失った。俺はこのときを最も恐れていたような気もするのだが、俺には生の実感というものがまるでわからなくなってしまったのだ。一つ心残りがあるとすれば澪だ。クレインが俺であったと知れば、彼女はどんな表情をするだろう。どんな言葉で、どんな仕草をもって返すだろう。きっとその時の君は、俺の知らない君なのだろう。




