夢は夢でしかないと知っていても
歩き慣れたはずの見知った土地が、まるで旅行先のふとした偶然で降り立ったような、そんなよそよそしさを見せつけていた。圭の目には一足早い夜が訪れようとしており、意識を向ければ向けるほどにほの暗さを帯びる空を視界の端に追いやり、圭は時刻を澪に問う。幻覚というには些細な、それでいて正常とも思えない発作がまた始まったのだった。
圭の様子など意に介すこともなく、澪は呑気に答える。
「ああ……もうすぐ夜になりますね」
「違う、時間だ。今は何時だ」
「今が何時でもいいじゃないですか。もうすぐ夜が来ることには変わりないんですから」
「風景が変わっちまうんだよ……おかしいんだ。俺はこんなこと、望んでなんか……」
一点を見つめる圭の先に澪は立ち、両手を広げる。抱擁の時間は定かではなかった。何しろ澪の方ではただならぬ緊張を隠せないままに行動にうつしてしまったわけで、圭の方でも状況の把握どころではなかったからだ。双方が言葉にならない気持ちのやり場に困っていた。
その空白を埋めるかのように澪が切り出す。
「記憶って思い起こすたびに書き換えられていくんですよ。どんどん事実とかけ離れていく。尤も、事実をありのままに確かめられない以上、全く同じである必要はないんでしょうけど。西崎さんの記憶は変わりますか?」
「……わからない。一度見た場面を繰り返すことはないんだ、その続きを夢に見ることはあっても。いつかは今の俺の記憶もまた別の誰かの夢になるんじゃねぇかな」
「西崎さんは、それを望まないんですよね?」
「……」
「どうなんですか?」
圭の方へと身を乗り出す澪が動くたびに、ちらつく陽の光が圭を悩ませた。澪のその身が目の前からなくなれば、太陽と向き合うことになるのか、はたまた太陽の存在すら透明なものになってしまうのか――それを確かめる勇気すら圭は持ち合わせていなかった。信じられるものなど何もないのだ。概念に過ぎない時間に縛られ、誰のものともつかない夢の記憶に魘される。何が正しいのかという考えはとうの昔に捨てている。今更何を求めろというのだろうと圭は苦し紛れに目を瞑った。
「時間って何で一方向なのか、って考えてるんですか?」
「……んなこと考えてねぇよ」
「考えてみれば不思議ですよね。人間の知覚の限界から捉えるしかないんだっていう話もありますけど……西崎さんは過去も未来も同時に見ることができるってことでしょうか?」
「同時には無理だろ……。現に俺はもう限界だよ。一方向だかなんだか知らねぇけど、俺の記憶は事実のままの過去のはずで、でもそれが事実だろうがそうじゃなかろうがお前には関係ないんだよな」
「関係ないわけないじゃないですか! 西崎さんの過去か、別の人の過去か、その区別をするために必要です。望まないなら、打開しないと!」
徐々に開いた圭の瞳が一度瞬きした後には、彼の目前の風景は元のあるべきコントラストに戻っていた。真摯に自分を見つめる澪の視線に気づいた圭は、言葉を発そうとした口を閉じて澪の頭を撫でた。澪に触れているその感覚こそが、圭にとっては何より確実なものであったことは言うまでもない。




