本当の自分、あるいは存在しない私②
電車から降りて数十分、圭と澪は潮風の待つ方へと幅の広い歩道を歩んでいった。休日の午後三時、かなりの車が彼らを追い越していく中で、人の数は数えるほどだった。
「俺はさ、俺じゃない俺を演じて俺であることを確認してる。俺じゃない奴がいれば、あとは俺ってことだろ?」
「空虚ですね」
「は?」
「俗にいう、本当の自分っていうものですよね。私、運命の次に大嫌いな言葉です」
言葉を聞き違えたかと思うほどに颯爽とした笑みを浮かべて澪は言った。圭の思いを感じ取ったかのように、澪は嫌いは好きの裏返しですけどね、と繋げた。いつからか風は後ろから、背中を押すような形で流れていた。流されているのではない、そう圭は自分に言い聞かせる。
「本当の自分って、存在しないと私は思います。誰も知らない本当の私。私らしい私。そんなもの、存在しないんです。環境に適応するので精一杯な自分に見せる、夢の虚像ではないですか」
「……存在しないっていう答えか」
「そうですね。もっと現実的に言うなら、誰も知らない自分のことを、多くの人は本当の自分だって言うんじゃないかなと思います」
「一理あるな」
澪がデートという大義名分を掲げて圭を海に連れ出したのはほかでもない、篠原祐が二度目に仕上げたクレインの小説をもとに圭の様子を見てみたかったからだ。ここで澪が観察するという感覚を持っていないのは、偏に彼女の好奇心の純粋さからである。そびえ立つビルの群れを抜けると、モザイクアートのような白いさざめきが彼らを出迎えた。道は右か左かの二択、どちらに進んでも「果て」が待っているわけだ。それとない歩みから、二人は左へ進むこととなった。
その場所に、冬の匂いはほとんど感じられなかった。ランニングする人間の息遣い、体を震わせて駆けていく犬、自転車で風を切っていく者、砂浜で走り回る子供たち――紛れもない躍動が、そこにはあった。どの人間にも平等に同じ時間が流れていたし、それに関しては圭も例外ではなかった。ただ、そこに存在するどの人間も持ち合わせていないものを彼は持っていた。それは、篠原祐が衝動という衝動を追いかけて予てより知りたがっているものであったかもしれないし、澪が好きなクレインの要素を一まとめにして名付けたようなものかもしれなかった。
「西崎さん。あんなに低いところを鳥が飛んでいます」
「ん? ああ……」
「雲がほとんど動かないですね。こんなに動きがないのも珍しい」
「動いてるじゃないか。お前はいつどこのどんな雲と比べてそんなことを言ってんだ」
「いつ、どこの!? そこまで考えたことなかったです……」
「雲に流れる時間ってどういうものだろうな」
出会って当初の何やら近寄りがたい顔とは打って変わり、すっかり無防備な圭の横顔を澪は見つめた。その顔をずっと見ていたいと思った。このまま時間が止まってしまえばいいのにと、そんなことを思うくらいに。時間を止めるのは簡単なことだ。自分を透明にすればいいのだ。何者でもない自分になる。そうすれば、何も自分を流れていくものはない。誰からも認知されず、自分自身ですらその存在を忘れていく。誰かの記憶の彼方で、それは「存在しないという答え」に収束されていくのだ。