本当の自分、あるいは存在しない私
「それって、小説の主人公が言った台詞なのか?」
「そうですよ。クレインって言うんです、名前」
「クレインか……」
「西崎さんと似てるんです」
「クレインが好きだから、それに似た俺が好きなんだな?」
つい澪の話の流れにのってしまったことを西崎圭は即座に後悔した。普段なら考えた上での発言を心掛けているのだが、いつ核心に触れるともわからない言葉の綾だった。先手を打ったようで絡めとられただけだったと相手の様子を窺う振りを決め込む。
「さては西崎さん。それはこんぷれっくすというものですね」
「……その馬鹿にしたような言い方はやめろよ」
「西崎さんはですね、私のイメージでは表外字のような人です」
「例えが人じゃないのは突っ込んでいいのか?」
何がそんなに面白かったのか、華奢な体のラインからは想像しがたいほどの大きな声で、いきなり澪は笑い出した。彼女は続ける。国語辞典なんかで、×がついている漢字があるじゃないですか。私、あれって難しい漢字についているものだとばっかり思っていたんです。でもあれ、表外字って言うんですよね。常用漢字表にない文字。西崎さんも一緒です。×がついているんです。でも、それは悪いっていうレッテルのもとの×じゃないんですよ。よく使うし、よく見るけど、だけど書いてみろって言われたら書けない、そんな表外字のイメージに似ています。
「じゃあお前自身はは常用漢字とでも?」
「私ですか? 私は、辞書を読む側の人間ですよ」
「何とも平和的な答えなことで」
この女は、と圭は考えた。俺の何かを突き止めるかもしれないと。しかし、自分という人間を語るには、圭は自分の何たるかをほとんど知らなかった。他人を否定することで、他人でない自分を自己としてきたのだ。繊細だとか壊れやすいだとか、もはやそういう次元ではない、そもそも存在するのか――なんて、そんなところから始めなければいけないくらいに圭が認識する自分像というのはあやふやなものなのであった。
「お前、俺のこと好きか?」
「澪です。名前で呼んでください」
「……澪」
「好きですよ。でも、これは西崎さんを知る前の『好き』です。好奇心って言った方がいいかもしれません!」
「俺を知る前の『好き』?」
「はい。人は、未知のものを愛します。何故なら、自分の理想を簡単に映せるからです。私は西崎さんのことをほとんど知りません。だから、私は西崎さんが好きです。大好きです」
「……」
「西崎さんは、私のこと好きですか?」
「俺は、失うのが怖い。だから、どの女にも本気になったことはない。どうせなくなってしまうなら、深入りするだけ馬鹿をみるだろ」
答えになっていませんねぇ、と上目遣いで見上げてくる澪に、圭は思わずたじろいだ。完全にこの女にペースを握られている……そう自覚しながらも、嫌いじゃないぜとその一言を渋々彼女に告げたのだった。




