04 野獣死すべし
ボスン!
鈍い音を立てて30センチメートルくらいの高さからベッドの上に落ちた光波は一瞬ポカンとして固まった。ここがどこかはすぐに分かった。馴染み深い自分の部屋、ではなく、兄、剛史の部屋のベッドの上である。
なぜに自分の部屋ではなく兄の部屋……、と思う間もなく、身体が自然に跳ね起きた。勝手知ったる兄の部屋。自動的に身体が動き、机の二番目の引き出しを開けて手を突っ込む。
(え? あれ? え~と、ここ、お兄ちゃんの…。あれ、狼は? 夢? コレットちゃんは……)
光波の友人達が言うところの「みつはちゃんの脊髄反射」が起動していた。考える時間すら惜しい時、僅かな時間の無駄が致命的である時、光波の身体は瞬時に出した『とりあえずの暫定的な答え』をもってとりあえずの行動を先行して行う。通常の思考はそれに追いつけず後追いとなる。
(え~と、靴はいたまま、服に葉っぱ付いてる、身体ボロボロ、夢じゃない? じゃあコレットちゃんは…)
引き出しから出した小さなナイロン袋には灰色の小さな粒がたくさん詰まっていた。光波はその袋を引き破ると服の右ポケットにその小さな粒をザラザラと流し込む。小さい割にその粒は数もあって結構重い。
次に、部屋の壁面全てを埋める大型の本棚のうち、小物置きになっているところからあるものを取るとその取っ手の部分をズボンのベルトに差し込んだ。
『ファルコンⅡ』
スリングショット。日本ではパチンコとも言われる。しかし子供の玩具であるものとは一線を画するそれは、下手をすると22口径の小型拳銃並みの威力を発揮する。光波は兄にレクチャーを受け何度か使わせて貰ったことがある。
次にガラスケースを引き開けた光波は1個の美しい金属の塊を手にし、灰色の粒と同じく右ポケットに突っ込んだ。
『ガーバー・フォールディング・スポーツマンⅡ』
ある国では男の子が10歳になると父親が1本のフォールディングナイフを与えると言われている。流麗なフォルム、美しい金属の輝き、飾り物ではない実用品のみが持つ力強い存在感。……と剛史が熱弁を振るっていた、早い話が折り畳みナイフである。
光波は階段を駆け下りて台所へ。流し台の取っ手を引き開け包丁を抜き出す。ここは出刃包丁である。柳刃の方が鋭く長いが、多分毛皮に通らず折れる。その点、出刃包丁は安心の強さである。安全のためタオルで刃の部分を巻いてベルトに差す。
次に、キッチンタオルを手に取って1メートルくらい繰り出すと二つ折りにして床に敷く。棚から業務用の胡椒と七味唐辛子、粉末鷹の爪を取り出してそこにぶちまけ、クルクルと巻いて左ポケットへ。
(どうしてここに…。いや、それよりもコレットちゃんを助けないと! でもどうやって? あ、ピンポイントでここに、ってことは、偶然じゃなく私の意思? それならまたコレットちゃんのところに行ける? なら何か狼に対処できるようなものを…)
残念、その部分はもう終わってる。
それに気付いた光波は、自分が思いつく最適の準備が既に終わっていることに気付く。暫定行動が正しかったと認識し、思考が一挙に現在と同期する。光波がこれに付けた名称は『承認』であった。
(本当に行けるの? いえ、行くの? こんなもので野生の獣をどうこうできるの? 今度こそ本当に死ぬかも知れないのに! せっかく安全な日本に帰って来れたのに!! どうして行かなきゃならないの? 何の理由があるの?)
その時、つい思ってしまった。兄なら、剛史ならこんな時に何て言うかと。
あ、ダメだ、と思った時にはもう遅く、脳裏にその言葉、その声が流れてしまった。
『え? お前は可愛い女の子を助けるのに、何か理由が要るのか?』
はいはいはいはい、分かりましたよ、この、ウザくて面倒くさくて、……大好きなお兄ちゃんめ!
ごん。
大木に額をぶつけた。くそ。
あたりを見回すが、狼の姿がない。あっちへ戻ったか。
光波は急いでコレットを登らせた木の方へと戻る。風はない。音に気をつけて慎重かつ迅速に。大丈夫、木にはきっと登れないはず。
全力で走った往路よりは時間がかかったが、大した距離ではないのですぐにあの木のところへ着いた。木陰から様子を窺うと、狼は4匹揃って木の上に向かって吠えていた。よし、まだ大丈夫だ。
光波は右ポケットからナイフを出すと刃を起こして自分の身体を傷つけないよう慎重にベルトに差した。そしてスリングショットをベルトから抜き出し左手に握ると、右手でポケットから小さな粒を取り出した。
ペレット、鋼弾。
スリングショットの弾は鉛が主流である。曰く、値段が安い、重くて威力がある、加工が容易、柔らかいから跳ね返りにくく目標に運動エネルギーをぶつけやすい、等々…。しかしこれは鋼製である。貫通力重視、真っ向勝負の漢の弾である。と、剛史が熱弁を振るっていた。
そうは言っても一応鉛のペレットも用意していたが、今回は厚い毛皮の貫通を考えて剛史の熱弁に従うこととしたのだ。ペレットを挟み、左手を突き出し右手を肩のあたりまで思い切り引く。
なぜ非力な光波に強力なゴムをいっぱいまで引くことができるかと言うと、単に身体が小さくて腕も短いから光波が普通に構えても剛史に較べてゴムが引き伸ばされる長さが圧倒的に短いからである。
勿論、その分威力も落ちる。成獣では急所に当たらねばとても毛皮貫通で一撃、とは行くまい。仔狼の防御力が低いことに期待するしかない。剛史の部屋にはボウガンもあったが、使ったことがないし1発撃ったら次弾装填は間に合いそうにないので断念した。脊髄の人が。多分。
慎重に狙いを付け…たかったが、腕がぷるぷる震えるのでさっさと発射した。ぴしゅん、という小さな音と共に高速で目標に向かう鋼弾。
ぎゃん!
悲痛な声とともに一匹の狼が倒れた。あ、頭に当たった? 筋肉に護られていない頭部には効いたか? 頭蓋骨を抜いたか、ただの脳震盪か…。
でも、実はあの仔狼じゃなくて、親を狙ったんだよねぇ。一番の強敵だから、倒せなくてもいいから初撃でダメージ与えたかったんだけど…。まぁ、一匹倒せたなら上々か。外れるよりはずっといい。
親狼は仔狼が倒れた原因が判らず仔の周りをぐるぐる廻りながら混乱している。まだ、こっちのターン!
再び慎重に引き絞り、第2弾目を発射! バシッ! 2発目も命中したが、親の右太腿のあたり。一番ダメージが少なそうな場所である。しかも当然のことながら攻撃に気付かれた。ギッとこちらを睨み付けている。
親、多分母親だろう、母狼の視線に気付いた2匹の仔狼がバッと飛び出してこちらに駆けて来た。母狼は一瞬とまどったような動きをしたが、仔狼に任せることにしたのかそのまま動くことはなかった。こちらを先程の無力な子供と思ったからかも知れない。
急いで3発目を発射したが、外れた。そううまくは行かないか。
4発目。多分スリングショットはこれで最後になる。もう次は間に合わないだろう。気はあせるが、距離が近くなった分、命中の可能性は上がる。そして威力も。
バシッ!
一匹が倒れ込んだ。どうやら喉のあたりに当たったらしい。喉も守りが少ない急所のひとつである。ラッキー!
兄弟が脱落したのを知ってか知らずにか、仔狼最後の一匹が飛びかかる。その時既に光波はスリングショットを放り投げベルトに差した出刃包丁を握り締めて刃に巻いたタオルを振り落としていた。
ズバッ
しっかり見てさえいれば何の捻りもなく真っ直ぐに飛びかかるだけの経験の浅い仔狼を避けるのは動体視力と反射神経に恵まれた光波にはそう難しいものではなく、避けると同時に振り切った出刃包丁に首のあたりをざっくりと裂かれ、最後の一匹もまた地に沈んだ。
ウオォォォ~~ン!
血を吐くような咆哮が森に轟いた。
仔が、大事な仔が3匹とも倒された。もしまだ生きてはいたとしても、過酷な自然界での重傷はそう遠くない死を約束するものである。
大事な仔。あの強く荒々しい立派な雄の仔。ここまで必死で育て、あと少しで一人前になれたのに。しかも、爪も牙も毛皮もない練習用の餌生物なんかに!
ニクイニクイニクイニクイコロスコロスコロスコロス
母狼は光波に向かって突進した。
来た!
ここまで幸運に護られてきたけど、残り一匹とは言え最強の親狼だ。経験のない仔狼ならまだ何とかなっても、こいつには小手先のごまかしは利かないかも。でも、こっちも経験のない子人間、それしかないんだよね、残念ながら。
どんどん距離が詰まる。光波は右手で出刃包丁を握り締め、左手は服のポケットに差し込んでいた。
あと15メートル、10メートル……
5メートルを切った時、光波の左手が勢いよく大きく振りかざされた。同時に右側へと全力で飛びすさる。
グアァァァァァァァ~~~!!
喉が張り裂けるような凄絶な叫び。
母狼は苦悶の叫びをあげながら地面を転げ回っている。あたりに舞う、大量の胡椒、唐辛子の粉末。敏感な野生の獣の目や喉、鼻にはかなり厳しいかも知れない。光波自身も涙が止まらず身悶えしていた。
混乱が治まると勝ち目はない。目と鼻と喉の痛みを我慢して、涙と鼻水を垂れ流しながら光波は出刃包丁を振りかぶって狼に襲いかかった。
しかし狼も流石に野生の獣、殆ど利かない鼻、ろくに開けられない眼と最悪の状況ながらもこんな餌生物に遅れを取るような脆弱な生物ではない。牙を剥き、爪を振るう。下手に近付くと、爪の一撃、牙のひと咬みで終わる。しかし時間が経てば経つほど今の優利性は失われていく。安全に近付く方法はないし。どうする? こんな時、…あ、ダメだ、考えちゃ……。
ダメだった。つい考えてしまった。『兄ならどうするか』って。
そして脳裏に流れる、『光波が予想する、兄なら言いそうな台詞シリーズ』が脳裏に流れる。いつものように。
『重要なこと? それは、凶暴な自我と行動を支えるストイシズムだよ』
『知っているか? 狼の口って、奥まで突っ込まれると閉じられないそうだぞ』
いや、そんなこと教えられても何の役にも立たないから、って思っていたよ、今の今まで! 嘘蘊蓄だったら責任とってよ! 報酬は私の片腕だ! って、何言ってんの私いぃ!!
『腕を失ったら? 銃を付ければいいじゃないか? サイコガン、は無いから、マシンガンとか。知っているか、極道兵器、とか、片腕マシンガール、とかの怪作を』
あああ、頭の中でお兄ちゃんが絶好調!! 兄は、死んでも私を苦しめるうゥ!
とりあえず、突っ込んでみた。いや、頭の中にじゃないよ、狼にだよ。
前腕で眼を擦っている隙に後ろから突撃。途中で気付かれて牙を剥かれるが出刃包丁を振り回してなんとか回避、そのまま体当たりしてしがみついた。噛みつかれないよう背中側から抱きついてぴったり密着。この体勢だと手足で攻撃できないし、噛みつこうにも首が回らないから届かない…って、届くじゃん、何、狼って首の可動範囲広すぎ!
やむなく本当かの保証のない賭けに出た。左腕を思い切り狼の口に突っ込む。奥まで、もっと奥まで、もっと、もっと!
グエェェェ~~
嘔吐く狼。牙で左腕にかなりの怪我をする光波。
人間にしがみつかれた狼としがみついた人間。
しかし戦いはこれからだ。
光波は狼にしがみつく過程でいつの間にか出刃包丁をはじきとばされてしまっていた。しかし、光波には乱闘の中でも奇跡的に失われなかった武器がまだ残されていた。兄御自慢の、今では遺品となったあの美しき武器が。
「が、ガーバー、フォールディング、スポーツマン、ツウゥ~!!」
右手で、ベルトに刃を起こして差していたナイフを逆手に握り、抜き出した。叫んだのは、兄がそうすると喜んでくれそうな気がしたからだ。
刺す、刺す、刺す、刺す!
短い刃先に、非力な力。とても深くは刺さらないが、優れた刃物はそれでも厚く頑丈な毛皮を貫いてそれなりのダメージを与え続ける。
光波はとっくに限界を超えていた。ハイになった状態を超えて、もう意識が殆ど飛んでいた。安全弁が飛んでいるせいか、狼にしがみつく両足は万力のように強く狼を締め付ける。そして左腕は狼の口に深く差し込まれ、光波の身体を固定する。
刺す刺す刺す刺す腕が痛い刺す刺す刺す刺す手がだるい刺す刺す刺す刺す暗いよいつ夜になったの刺す刺す刺す刺すお兄ちゃんどこ刺す刺す刺す刺す
狼は暴れ回るが、両足と左腕でしがみついた光波を中々振り払えない。小柄で軽い光波の身体が幸いしていた。
口から奥深く突っ込まれた腕のためまともに呼吸ができない。力がはいらない。なにか大事なものが身体からどんどん抜けていくような気がする。
自分にへばりつくコレは一体何なのだ。餌生物? 違う! そんなものじゃない! 気持ち悪い! 怖い! 何だこれ! 何だこれ! イヤだ イヤだ 助けて、助け……
いつの間にか、物音もなく、動く物もなく、…いや、2匹の獣の仔は僅かに動いていたが、まともに動くものは何もなかった。
更にしばらくして、ずるずる、とん、と音がして小さな少女が木から下りてきた。少女は恐る恐る周りを確認すると、少し離れたところにある塊に近付き、それを見てヒッ、と小さな悲鳴を上げた。慌てて走り寄りその状態を確認すると安心したような顔をした。
その後、近くで見つけた包丁のような刃物でまだ息のあった2匹の獣に止めをさすと、急いで村の方へと駆けて行った。
流石コレット、そつがないし容赦もない。