雨降る日には。
第1話
日は落ち、雲が立ち込めている夜のことだ。
外では、ざあざあと雨が降っていた。
この時期特有のもので、一度振りだすとなかなかやまない。
「……またこの季節か」
梅雨になるといつも憂鬱な気持ちになってしまう。
雨のせいだ、と自分の弱さを否定するが、今回ばかりはそうはいかないようだ。
上司からこっぴどく叱られ、二度と顔を見せるなとまで言われた。
頭ごなしに怒られるほど、悪いことはしてないのだが、きっとこの季節のせいでイライラしていたのだ。
きっとそうだ。そうに違いない。
そうでなければ、私はクビということになってしまう。それだけは、何としても避けたかった。
「明日謝らなきゃいけないのかぁ……また注目の的になるなぁ……嫌だなぁ」
はぁ、と溜め息をつくと、先程ついだコーヒーに口をつける。
いつもよりも苦く感じるのは疲れているせいだろうか。思わずつけた口を離し、流し台に中身を出す。
勿体ない、と思いながらも流れていくコーヒーを見つめる。
自分も、コーヒーのように流れて溶けてしまえばいいのに。排水溝の中に流れる水になりたい。
「……馬鹿みたい」
空になったコーヒーカップを水でさっと洗い流すと、テレビの前にあるソファに身体をゆだねる。
気がつくと、そのまま眠っていた。
次の日の朝。目が覚めると、外から小鳥の泣き声と雨音が聞こえた。「また雨か……」と気が重くなりながらも、仕事の支度を始める。
ジャケットのポケットの中身を漁っていると、鍵がでてきた。どこの鍵だろうか。見覚えはあるが。
「あっ」と声を漏らすと、鍵が本来あるべき場所を思い出す。
「会社の資料室の鍵だ……!」
まずい、と冷や汗を掻き、急いで支度を済ませると、戸締まりの確認もまばらなまま家を飛び出た。
恐らく、この鍵は会社の資料室の鍵だ。
昨晩上司に怒られる前に、資料室で過去のデータ整理をしていた。
私の事だから、怒られたショックのせいで鍵の事を忘れてそのまま帰ってきてしまったのだろう。
「本当に馬鹿だ!」
涙目になりながら、駆け込み乗車をする。
いつもならばまだとぼとぼと駅に向かって歩いている最中なのだが、今日は事情が違う。
満員電車の、加齢臭やタバコ臭、香水のキツい匂いが混ざる中で、小さな体を支える。
――これだから朝は嫌いなんだよな……。
世に言う通勤ラッシュというものが苦手な私にとって、この状況は最悪なものだった。
朝からこんな思いをして通勤するぐらいなら、といつも一本遅い電車で行くのだが、仕方がない。
「もうやだ……うぅ……」
込み上げてくる吐気を必死に堪えながら立つ。
もう、目をあけているのすら辛くて仕方がなかった。
倒れてしまう、と思った瞬間、大きな身体が私の目の前に現れ、ドアのところまで押しやられてしまった。
「だっ、誰……!?」
「あ、すいません。俺のこと知らないっすかね、新入社員の岸辺っていいます」
こんな窮屈な空間で、すがすがしい笑顔を浮かべているこの青年は誰だろうか。
新入社員らしいが、こんな男性見たこともない。というよりも、そんな余裕がなかったという方が正しい。
「……ごめんなさい、分からないです……」
「そうっすよね、俺そんなに目立つ行動してないし。一応同じ部署なんすよ?」
「……そう、ですか」
同じ部署というのに気づかなかったことに対しての罪悪感が一気に込み上げてきた。
心の中で、ごめんなさいというワードが何度もリピート再生されている。
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくていいっすよ。にしても、今日は早いっすね?いつも俺が一番なんですけど」
「今日はちょっと、ね……いろいろあって……」
「あ、もしかして部長に怒られてたからっすか?あの部長、変なとこで怒りますよねー」
さっきから、百面相のようにコロコロと表情が変わる。
見ているだけで何だか楽しい人だ。案外、満員電車も悪くないかもしれない、と思ってしまう。
「なんすか?俺の顔、何かついてます?」
「ううん、何でもない」
片手に抱えたビジネスバッグを脇に挟み、両手で自分の顔をまさぐる。
その行動を見ているだけで、クスクスと笑いが込み上げてきた。
「ふふっ……」
「もう、何なんすかーもやもやするなぁ」
「ごめんね、岸辺君」
「いいっすよ、春山さんですし」
「え?」
「いえ何でも」
ニコリ、と微笑む岸辺君に違和感を覚えながらも彼の顔を見つめる。
先程からなれなれしく接してくるが、一体何のつもりなのだろう。
見た目はそんなに悪いわけでもないが、耳にピアスはついてるし、髪の毛は茶髪だし。
正直、自分のタイプではなかった。どちらかといえば、自分にとっては苦手な人種でもある。
「……春山さん?」
「え?」
「大丈夫っすか、顔色悪いっすよ」
「あぁ……大丈夫、雨のせいだから」
それならよかった、と安心そうに笑みを浮かべる彼に、胸が苦しくなった。
何だろうか、この胸のもやは。
「あ、春山さん。もうすぐ着きますよ」
「うん」
脇に挟んだビジネスバッグを手に持ち替えると、私をかばっていた身体を縦に起こす。
改めてみてみると、かなりの長身のようだった。
彼に見とれていると、もたれかかっていたドアが開き、そのまま後ろに倒れそうになってしまう。
「危ないっすよ」といって私の腕を掴むと、彼はそのまま歩きだした。
その強引さに、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
「岸辺君……?」
「春山さん、危なっかしいんで改札出るまでこうしときます」
そういう彼の耳は、赤く染まっているように見えたが、きっと私の気のせいだろう――。