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お金が欲しい男が神様と出会うお話

作者: 俊介俊太郎

大幅に加筆いたしました。




 平屋の古びた倉庫から出た男は日没後の街をぼんやりと眺めた。

 外を見たのは午後の小休憩以来だ。倉庫で働くと空とは離れ離れになる。確か今朝の天気予報で、全国的に行楽日和だと報じていた。出勤中に満開の桜を堪能しに向かう連中と重なったのを思い出した。

 無骨な工業地帯は、慣れない活気を吸収できずに反響させていた。何処かの工場で回るファンやモーターに混じって、花見客の活気が伝わる。倉庫裏の公園は花見客で賑わっているらしい。

 どうせ夜桜には目もくれず、ゴミを撒き散らして騒ぐのだろう。呑気な奴らだ。男は軽くなったリュックサックを背負いながら家路につく。




 誰かの楽しみを間近にして虚しさを高める。

 春の訪れとは裏腹に、懐は当座冷え切った日々が続きそうだ。

 朝からの肉体労働で幾ら稼げたのだろう。七千円程だろうか。毎日この稼ぎを得られるならまだしも、ワンコールワーカーの身ではそうはいかない。明日、明後日の仕事が得られるのかどうか、全くの不透明だ。

 多少待遇が悪くても正社員になりたいが、大した学歴も資格もない自分を雇う企業は何処にあるのだろう。重い荷物を抱えていると安定を誓うが、帰途につく頃にはすっかり疲弊し脱力している。正社員募集の求人をチェックすることもない日々を何年も繰り返した。

 この現状に妥協しつつあるが、金への執着心を絶った訳ではない。




 一縷の望みとして、宝くじを買うのを趣味としていた。これが唯一の娯楽だが、残念ながら一度も当選を果たしていない。

 買わなければ当たらない。僅かな可能性に掛け宝くじを買う。

 券をズボンのポケットから取り出した。肌身離さず持ち歩けば苦労を理解してもらえる気がした。

 番号を六つ選ぶ単純なくじ。見事に一等を掴めば、生涯を安泰に暮らせる金が転がり込む。番号に拘りはなく、時間や日付など偶々縁のあった数字を元にするのが常だ。当選番号を熱心に研究する者もいるが、数字の羅列とにらめっこするより、日常に溢れる数字からヒントを得た方が退屈な日々を特別に感じるスパイスになる。




 さあ、今回は何をヒントに番号を決めようか。立ち止まって辺りを見渡す。

 一台の黒いセダンが路上に駐車されていた。確か一千万はする車種だ。今の収入では夢の夢だが、宝くじが当たれば余裕で買える。

 そう考えると希望が沸いた。表情を緩ませながら、掌で券の数字に線を引こうとした。

 その時、風に舞ったスポーツ新聞が足に纏わりついた。

 屈んでスポーツ新聞を掃おうとしたが、ふと乱れた紙から‘億’‘金’のワードが目に留まる。

 くしゃくしゃのスポーツ新聞を広げた。一面に飾られているのは野球選手の契約金。ワインドアップポジションの写真に添えられる契約金の額は、二億円。




 途端に腹が立った。こいつは球を投げて棒を振り回すだけで億単位の金を稼ぐのか。翻って自分は逃げ出したくなる単純作業と、悲鳴を上げたくなる肉体労働を雌伏して働いても手取り十万たらずだというのにあんまりだ。

「馬鹿にするな!」

 スポーツ新聞を丸め怒りに任せて放り投げた。その新聞は、黒いセダンのリアガラスに命中する。




 怒りに溢れる心中から一変して、恐怖へと変貌を遂げた。不味い。高級車に当たってしまった。面倒な人種が因縁を付けてこなければいいが。

 運転席がゆっくりと開かれる。顔を逸らして体を硬直させた。

「御立腹のようね」

 降り立ったのは意外にも女だった。黒いセダンに合わせてか、黒いトレンチコートに黒いシャツ、黒いボトムス。LEDのルームライトに照らされた為か、女の濡烏が殊更艶やかに見えた。女は車に新聞紙を当てられた事より、激昂の理由に関心を寄せたようだ。




「納得いかないんだよ。こっちは朝から晩まで肉体労働して、たった七、八千円ぽっちだぜ。サラリーマンみたいにしっかり働いてるのが高給取りでも許せるんだよ。でもな、野球選手だの芸能人だのが、何億も稼いでるのは腹立つんだよ。肉体労働よりスポーツで汗流すのと、美味いもん食ってコメントする方が楽に決まってるだろうが!」

 日頃の鬱憤を晴らすように女に愚痴をぶちまける。見ず知らずの女にみっともない行為だが、ずっと誰かに不満をぶつけたかった。それに、このまま新聞紙をぶつけた事を誤魔化せるかもしれない。

「低所得の貴方の言いたい事は分かるわ。だけど、才能に恵まれない単細胞の人種は、力で稼ぐ以外にない」

 痛烈な言葉を浴びせてくれる。初対面にも関わらず、何故こうも相手を熟知している口振りなのか。

腸が煮え返りそうになるが、期待が叶ったのだからこの場は堪えなければ。苦り切った表情で同調した。




「かもしれないな」

「無学な貴方は、これからも末端に相応の収入しか得られないでしょう。これは貴方の人生における最大の不幸。だから、これから貴方に不運が襲う度に、私が金を払うわ。不幸の度合いによって金額は上下する。面白いでしょ?」

 女は微笑んだ。金が貰えるのか。目が輝きそうになったがこんな旨い話には裏がある。確かにこちらとしては面白い企画だが、それでこの女にどんな得がある。対価のない金程恐ろしい物はない。

「面白いけど、あんたがそんな事をする理由が分からないな」

 警戒して眉根を寄せた。すると女は目を伏せた。




「実は私、万人の運命を握る立場にあるの」

「はあ?」

 女は罪悪感に苛まれているのか、声を沈めて語る。

「多くの人が、私の掌で転がり転落した。貴方はそんな小物の中でも特に無様だったから、興味が湧いたの。短い間だけど、慰謝料のつもりで私が金を払う。落ちこぼれにさせてしまった責任として」

 失笑するのを必死に耐えた。何を言い出すかと思えば、知的そうな振舞いの割に正気ではない発言だ。だが、この高級車と整った身なりからして、退屈な金持ちが娯楽を欲しているかもしれない。ならば誘いに乗っても損はなかろう。



「万人の運命をどうのって、神様なのか?」

「どうかしらね」

 金を恵んでくれるなら神様も同然だが。そう呼ばれるのが気にいらないらしい。女は笑わなかった。

「取りあえず、金が貰えるなら素直に貰っておこうかな。頼むよ」

 意気込んでみせると女は安堵したように微笑んだ。

「そう。それなら早速、明日から始めるわ。よろしく、無様なお方」





 毎日苦労の連続だから、これは立派な副業になるはずだ。この馬鹿な金持ちから一円でも多くむしり取ってやる。

 せせら笑うと、女の目が据わった気がした。




 翌朝、愛車の自転車に跨り出勤した。

 今日は倉庫で只管段ボールを宛先毎に仕分けする作業だ。夕方には軽い腰痛になるだろう。この時点で、箸より重たい物を持った経験のなさそうな女からすれば、十分不幸として成立する気もするが。期待を裏切って女は現れない。

 そもそもあの女は何処から審査しているのか。連絡先も交換せずにどうやって金を受け渡すつもりなのか。




 通勤のラッシュで車が連なる国道を窺う。昨夜のセダンが紛れていないか。

 その時、ぱんと乾いた音が響いた。自転車の挙動が途端に乱れる。即座に自転車を止めて振り向くと、後輪のタイヤが潰れていた。

 パンクだ。金がないから安いモデルを買ったが、こんなに脆いとは。後輪が簡単にパンクしたとなると間もなく前輪も。修理費を考えると高い自転車を渋った意味がない。

 女。あの女は何処にいる。まさに不運に見舞われたぞ。辺りを見渡しても、歩道を塞ぐ自転車を邪魔そうに避ける通行人しかいない。

 宣言通り金も受取りたいが、今日の現場まで車で送ってもらえないか相談もしたい。女はまだか。




 希望が苛立ちに変わった頃、このままでは遅刻してしまうと気付いた。自転車を押して目的地の倉庫へ向かったが、乗れない自転車は足手纏いでしかない。後輪がぶるぶる震える自転車を忌まわしく思った。

 結果は遅刻。門で派遣社員の点呼を取っていた社員はご立腹だ。相手は年下だが平謝りするしかない。

「人数が足りないからどうしたのかと思えば、二十分も遅れて来るなんて。その歳で迷子になったの?」

「すみません。自転車がパンクしてしまいまして……」

「まあいいや。早く向こうに行って仕事しろ。とっとと行け」

罵声を浴びせると携帯電話で納期の相談をしつつ先に立ち去った。その背中に向け舌打ちする。




「朝からついてないわね」

 耳元で囁いたのは女だ。気配もなく背後から近寄ったらしい。度肝を抜いて飛び退いた。

「自転車が壊れて遅刻した挙句、お説教を受けたわね。慰謝料はこれくらいかしら」

 微かな悲鳴を上げた事に笑いもせず、女が差し出したのは五百円玉だった。

「これだけかよ? これじゃ、自転車の修理代と遅刻の分引かれる日当の穴埋めにならないぞ!」




 女は自転車の前輪を蹴った。

「安物でしょ、この自転車。自転車の価値と専門さの欠片もない仕事を踏まえたら、これが妥当よ」

 それでも自分にとっては身過ぎの道具と手段だ。反論したい所だがそんな時間はない。受け取った五百円玉を握り締め仕事に走った。

 遅れた戒めか、任される荷物は重たい物ばかりだった。汗だくになってトラックのコンテナへ積み込みをしていると安息の昼休みは直ぐに訪れた。

 通勤の途中に買ったおにぎりとパンの入った袋を持って休憩所に向かった。まだ午後が残っているのに、腰と膝に違和感がある。これ以上心証を悪くさせまいと力み過ぎた。



 

 狭い休憩所に入ると、そこはパートの女共が少ない席を占領していた。

 同じ立場の派遣社員が床に胡坐をかいて昼食を取っている。姦しい上に、惨めさに包まれながらでは昼食が取れない。

 これなら外で食べた方が余程休まる。休憩所の扉を閉めて身を翻した。

 そこへ、フォークリフトが接近し甲高いクラクションを鳴らした。驚いて手から袋を落とした。空足を踏み、袋を思いっきり踏み潰した。安全靴越しに伝わる、柔らかいおにぎりとパンの感触。

「おら、邪魔だよ!」




 フォークリフトに乗った、黄色いヘルメットを斜めに被った男が空を払う。すれ違い際、露骨に馬鹿野郎と怒鳴られた。確かフォークマンは自給が八百円高い。だからあの男は驕った態度で一般の派遣を無下にする。

 踏み潰した物を食す気にならない。これで一食を無駄にした。出鼻を挫かれればその日の調和は乱れる。失望しながらコンビニで昼食を買い直すと、女が出現した。




「散財したから、三百円かしら」

 また小銭だ。金持ちの癖にこんな端金ばかり寄越して。

「もっと貰えないのか? 札をくれよ」

 差し出された小銭を受取りつつ、不服を唱える。

「難しいわね。不幸の度合いは主観で大きく変化する。その人にとっては大規模でも、傍からしたら小規模な場合もあるでしょ。大金を得たいならもっと明らかな不幸に見舞われないと」




 事務的に告げ肩を竦ませてから、腰に手を当てる女。

「今のは明らかな不幸だろ!? 俺は飯踏んで怒鳴られたんだぞ!」

「彼がクラクションを鳴らさなければ、貴方は轢かれていたかもしれない。まだ言うことがある?」

納得がいかず頭を掻く。しかし、金を払うのはこの女だ。損害が発生している中、雀の涙程度でも金を貰えるなら貰っておこう。そう宥める意外に選択肢はない。

 自称万人の運命を握る女の、罪滅ぼしの慰謝料の支払いはその後も続いた。

 財布を忘れて家に引き返せば、玄関で待ち受けていた女に十円を渡された。

 退勤しようとした途端、土砂降りに見舞われたら、百円を渡された。

 駅の階段を踏み外し、みっともなく転んだら五十円を渡された。




 女は金だけ残して去ってしまう。慰めの言葉はない。

 慰めの言葉の代わりが金であると理解している。だが、金を払う前に女が警告してくれれば、数多くの不運を回避出来たはずだ。

 決して無理な望みではない。あの女は常時こちらを監視している。そうでもしなければ、他人の不幸に気付けるはずがない。

 慰謝料が貰えなくなるが、結果を見れば損しているパターンが多い。初日が良い例だ。パンクはともかく、遅刻するのは明らかだったのだから、車で送ってくれてもよかった。昼食を踏み潰す前に、フォークリフトが迫っていると知らせてくれればよかった。

 無様な出会いではあったものの、少なからず関係が芽生えたのならば、相手を慮るのが人間だと信じている。




 だから、仕事の帰りに電車乗った。混雑する時間帯だ。予想が通りめぼしい奴がいた。

 野球帽を被り、くたくたの服を着た中年の男。自棄酒を飲んだ帰りか、顔が赤く近寄っただけで酒臭い。中年の男は周りを顧みず、席に横臥し鼾をかいていた。

 中年の男の眠りは深い。だが、不思議と最寄り駅になるとぱちりと目を覚ますのが、酔っ払いだ。

 中年の男も例外ではなく、最寄り駅らしい駅のアナウンスと共に瞼を開いた。虚ろな目でふらふらと降車する。

 それとなく降車し後を追った。中年の男はまだ酔い足りないのか、駅前のコンビニで缶ビールを買い、一気に飲み干した。空き缶を豪快にポイ捨てする。

 転がった空き缶に見送られながら、中年の男を尾行する。やがて、人気のない住宅地へ入った。




 そろそろか。悪酔いした中年の男の肩を乱暴に引き、酒臭い吐息がかかる距離まで顔を近付けた。

「なあ、さっきの態度は酷くないか?」

「んだよ、この餓鬼! 俺に文句言うのかよ!?」

 やはり素直に非を認めはしない。だがそうでなくては困る。

「そうだ。椅子に汚い足乗せて、少しは周りの気持ちも考えろよ。この馬鹿」




 返答のつもりか、頭突きを顔面に食らった。顔を押さえて後退ると、中年の男は詰め寄り胸倉を掴んだ。おら、と怒鳴り躊躇う事なく頬を殴った。

「馬鹿野郎が」

 中年の男はずれた野球帽を直し、唾を吐くと夜の住宅地に消えた。

 暴力沙汰に発展するのを望んでいた。当然、女は現れるだろう。だが、現れるタイミングを試したかった。

「注意をしに男を追って、逆上されたわね。はい、九百円」




 女はようやく姿を見せた。差し出した額は過去最高だ。しかし、高額な慰謝料を求めて自ら雑輩に挑んだのではない。この女を試したかった。

 見るからに機知に富んでいそうでありながら、助けようとする素振りすら見せなかった。惨憺な暴行を終始認めていたにも関わらず。

「待てよ。あんたは俺が殴られるのを黙って見ていたんだ。どうして助けに来なかった?」

「あら、私に助けられるの、期待してたの?」

 失笑する女の態度に、更に気を悪くした。




「人間っていうのは、そういう生き物じゃないのか? 俺の代わりにさっきの男を殴れとは言わない。でも、助けを呼ぶ事は出来たんじゃないのか?」

 女は関心したように小刻みに頷いた。

「貧乏人程、倫理にやかましいのよね」

 何処までも泰然と構える女だ。猛烈に女の横っ面を張り倒したくなる。金に心を汚した女に、どれだけ訴えても常識は通じない。腕を振りかざした。

「私に手を出したら、後が大変よ?」




 腕がぴたりと止まった。この戒めが空威張りではないのは、冷静さを失っていても理解できる。逆に慰謝料を請求されてしまうような、可愛い話では済まされない。

「お前は何者なんだ?」

「言ってなかったかしら? 私は……」

 思わせぶりに漫ろ笑む女。万人の運命を握る、神様だから。そう言いたいのだろう。荒唐無稽な自己弁護に付き合っていられない。踵を返し駅に戻りかけた。女が背中に呼びかける。




「ちょっと、慰謝料は要らないの? 電車賃を取り返せるわよ」

 翌日は最悪の目覚めだった。

 アドレナリンが今頃になって衰えたらしい。顔に受けたダメージが主張し始めた。

 幸か不幸か今日は仕事がない。痛みを誤魔化すように何度も寝返りを打ちながら、昼日中まで布団の中で愚図ついた。

 布団から出て、小さなテーブルの上の食パンを齧った。ブランチを取りながらぼんやりと携帯電話を弄る。




 結局、女から貰った慰謝料の九百円が卓上にある。この九百円で憂さ晴らしがしたい。スーパーでステーキ用の肉と酒を買い、今夜は舌鼓を打とうか。

 そのステーキを食べ損なうのではないかと自嘲した。フライパンをひっくり返してしまいそうだ。あんな女に絡まれる、馬鹿で不器用な奴だから。

 昨日はその女と衝突してしまったが、慰謝料はまだ払ってくれるのだろうか。女ひでりの生活がもう何年も続き、異性から声をかけられた夢のような生活でもあったが。

 猛烈な虚しさに襲われた時だった。ぼんやり宝くじの結果を確認したが、その結果に驚愕した。

「まさか、そんな」




 身震いを起こしながら枕元の宝くじの券を取り、腹這いになって番号を確認する。指で幾度もディスプレイに映る結果と、券をなぞり照らし合わせるが、見間違いではない。

「当たった……! 宝くじが当たったんだ!」

 一等の当選を果たした。億万長者になりたいという野心が叶った瞬間だった。遂に念願の当籤を果たした。億単位の途方もない金が手元に舞い込んでくる。馬鹿が勢揃いした倉庫ともおさらばだ。仕事なんて当分忘れて暮らしてもいい。いや、起業するのも悪くないかもしれない。

 興奮から立ち上がると、テーブルに足が接触した。衝撃で昨夜の飲み残したチューハイの缶が倒れ、食べかけの食パンにチューハイが染みた。

 例によって現れた女が小銭を差し出す。

「食パンが濡れたから五円――」




「そんな端金いるかよ」

 五円玉を奪い取ると女に投げつけた。女は表情も変えずに硬貨を拾い上げる。

「今日から俺は金持ちだ。お前より高い車買って吠え面かかせてやる。ざまあみろ」

 そう言い放ち、券を掴んで家を飛び出そうとした。さっそく銀行に行って現金に換えてしまいたかった。

「ああそうだ、高額だから印鑑と身分証がいるんだったな。またあんたから慰謝料もらう羽目になるところだった」




 一笑し印鑑と財布をズボンのポケットに入れた。女は黙ったままだ。役目が終わり引き際を見計らっているのかもしれない。

「これまでの礼に、今夜は御馳走してやってもいいぜ? 金持ちの先輩のあんたなら、美味い店知ってるだろ? 好きな店選ばせてやる」

 女は五円玉を指で弾いた。くるくる回転しながら額の高さまで舞った五円玉が、腹の高さまで落ちると右手で掴む。

「上がるのも一瞬で、落ちるのも一瞬なのよね」

「それは忠告か? ま、留守番でもしてろよ」




 玄関は施錠してあるはずなのに、何時の間に女が侵入したのか不思議に思ったが、そんな事はこれから幾らでも考えられる。

 銀行で金を受け取る際の羨望と、あの女に現金を見せびらかす妄想で頭が一杯だった。

 今日からお前と同じ金持ちの仲間入りだ、もう偉そうな態度は許さないと指を咥えさせてやろう。もしかしたら、こちらの財産が上回り、形勢が逆転するかもしれない。そうなればこちらが屈辱を受けた分、あの女を辱めてやろう。

 浮足立ち日頃の抑圧から解放された気分だった。




 通学する小学生の少年におはようございますと挨拶をされ、うるせぇと怒鳴りつけた。少年はその場で泣き始めた。

 のんびり歩く老雄を突き飛ばすと、腰を押さえて悲鳴をあげた。

 女子高校生が乗った自転車にも構わず突進した。咄嗟に避けた女子高生は転倒した。

 文句があるなら後で幾らでも聞いてやる。慰謝料が欲しいならあの女ように払ってやっても構わない。金は人を強くすると学んだ。




 銀行が目前に迫った。これで貧乏ともおさらばだ。

 歩行者用の信号が点滅し、やがて赤に換わった。早く金を拝みたい。視界に入るあらゆる妨害を片っ端から突破したい。これでやっと尊厳が揺らぐ生活から脱出出来るのだから、些細な邪魔も許せなかった。

 路上に飛び出した。信号を無視したのは少年の頃以来だ。あれから几帳面に人気のない交差点でも、信号に従って生きていた。実直に生きれていれば何時か評価されると信じていた。真面目なのも大概にしなくてはならない。これまでずっと損ばかりして生きていたのだから。

 その結論を否定するような、強烈な衝撃が体を伝った。直進したセダンが激突したのだと揺らぐ視界で認めた。




 バンパーに足を掬われる形で体が浮き、頭部がフロントガラスにめり込んだ。そしてボンネットを転げ落ちた。

 痛みは感じなかった。騒然としているはずの周囲の音も耳に入らず、視界も霞み始めた。

 宝くじ。ようやく当選したのだから、早く金を受け取らなければ。事故のどさくさ紛れに券を奪われたら、目も当てられない。

 ズボンのポケットにしまっておいた券を、顔面に掲げた。




 汚れてしまった。頭に違和感があるから夥しい出血をしている。券を血で染めたのだろう。汚れていても問題ないだろうか。もし拒否されたら、女がまた慰謝料を払ってくれるのか心配になった。

 億単位の金を逃したら、然ものあの女も高額な慰謝料を支払ってくれるだろう。

「おい、早く、来いよ……。金を。俺に、金を」

「あーあ。せっかくの車が」

 セダンのドアを乱暴に閉ざすドライバーの声に、聞き覚えがあった。歩み寄った女の靴が胸を揺する。




「まだ生きてるかしら? これで貴方は死ぬわ。だから、それ相当の額を支払ったつもりだけど、満足してくれたかしら?」

 女はそう告げた。片頬を上げて嗤うその姿は神様ではない。

人生を弄んだこの女の正体は――。



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[一言] ドラ○もんに似た道具あったなぁ… 最高額の記録では、交通事故で数万円手に入ったけど、骨折で入院とかじゃなかったかな? 多分この男、 死なずに金入ったら仕事辞めるけど、 贅沢しすぎて数年…
[良い点] ただストーリーが面白いというだけではなく、内容に深みがありました。 [気になる点] 「……でもな、野球選手だの”芸の陣”だのが何億も稼いでるのは腹立つんだよ。……」 ” ”のところ、芸能…
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