58人目『泣くとわかっている男』
20歳。専門学校生。実家暮らし。いつもの平日。
朝飯を食べていると、突然母の体に異変が起きた。
「あ、たちくらみ。ああ、だめだ。立ってられない」
そう言いながらイスに座る。
「ああおかしいこれ。頭だねきっと。ああだめだ。気持ち悪い」
俺はいつものようにテレビを見ながら「そろそろ着替えないといけない」と思っていた。
母はイスに座ったまま、両手を顔に当てて「ああどうしよう。だめだね、お母さん。倒れちゃうね」とネガティブな発言を繰り返す。
最近の暗いニュースや、凶悪な事件を毎日みているせいだろう。
脳梗塞で倒れる芸能人なども多い。
俺は「深く考えすぎなんだ」といちおうの答えを出し、服を着替え始める。
その間も、「このまま倒れたら救急車呼んでね」、「遺書とか書いていたほうがいいかしら」、「病院へ行くまでに倒れちゃったらもうだめだね」と、自分はもうこのまま死んでしまうと決め込んだ言葉を言い続ける。
最初は母の思い込みだと気にもしていなかったが、心の隅っこで小さい、本当に小さい一つの疑問が浮かび上がった。
「もし、ホントに病気だったら?」
その疑問は驚くほどの速さで膨張していく。
「学校行っちゃうからあれだね。家で倒れたら帰ってくるまで倒れたまんまだね。そしたらもうダメだね。帰ってきたとき倒れてたら、まずお父さんに電話してね。ああダメだ、どうしよう」
いつもの声と、かすかだが違いを感じた。
恐れているような、そして、どこかであきらめているような声だ。
20年間一緒に暮らしてきたんだ。
それくらいわかる。
「お葬式はしなくていいからね。親戚だけでいいから。ちゃんと働いて、仕事して。でも、どうしても辛かったらやめていいんだから。それは自分がわるい訳じゃないから。ね。辛かったらお父さんに話してね、一人で抱え込まないで」
まるで遺言じゃないか。
「これは遺言だから。ちゃんと伝えたからね」
そう言うと、「ああどうしよう」と言いながら立ち上がりトイレへ入って行った。
もう行かないと遅刻だ。
玄関へ行く。
トイレの中からしゃべりかける。
「やっぱり病院までもたないかもね。帰ってきて倒れてたらよろしくね」
靴を履く。
どうしたらいい。
俺は何ができる?
何もできない。
ドアをあけたら、もう母に会えないかもしれない。
いや、まさか。
でも……。
俺は母に最後の言葉をかける。
「歩けないんだったら……すぐに救急車呼んで。並ぶのが嫌だってだけで、呼んでる人もいるんだから」
声が震えそうになった。
必死で抑えた。
トイレの中から声がする。
「そうかい?」
「ああ」
俺は急いでドアを開けた。
いつものように階段を下りる。
俺はこのまま学校に行っていいのか?
とつぜん、ある想いが胸をよぎった。
「これは、小説にできるかもしれないな」
俺は趣味で小説を書いていた。
そのネタになると思った。
朝、突然母の体に異変があって、だけど今日は絶対に休むわけには行かない日。
そうだな、なにかの試験の日とか。
しばらく話を考えていたら、いつのまにか駅に着いていた。
また、母のことが頭をよぎる。
俺は薄情な息子だ。
こんなときに小説のことを考えている。
ホームに電車がやってきた。
珍しく席が空いていたので座った。
あんな状態でも、母は俺のことを気づかっていた。
自分の心配をよそに、遺言を書く暇があったらすぐに病院へ行って欲しい。
死んだ後なんか考えないで、なにごともなかった場合、なにをするか考えて欲しい。
生きていて欲しい。
なんだか涙が出そうになって、寝るフリをした。
必死で小説の内容を考えた。
家に帰った主人公が見たのは、倒れた母か、それともいつもどおりの母か。
どうしても倒れた母を想像してしまう自分がいやになった。
授業を受けている最中も、ときどき母のことが頭をよぎった。
ちゃんと病院へ着いていると思ったり、家で一人、静かに倒れているかもしれないと思ったり、なるべく考えないようにした。
帰りの電車。
ふと、詩のようなものが頭をよぎった。
小説で使えそうだ。
忘れないように買ったばかりの携帯電話に打つ。
そして、自分のパソコンに送信した。
それと同時に駅に着く。
エレベーターから降り、通路を歩く。
通路側の窓に光はない。
体が震えているのがわかった。
小刻みに揺れる手でドアノブに手をかける。
回して引っぱる。
ガチャン
鍵が閉まっている。
別に驚くことはない。
いつものことだ。
いつもこのあと、インターフォンを何回か押す。
そうすると母が開けるんだ。
自分に言い聞かせた。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
電車の中で浮かんだ詩が再び頭をよぎる。
家に着き
あなたがテレビを見ていたら
私は安心して泣くでしょう
家に着き
あなたがどこにもいなかったら
私は悲しくて泣くでしょう
家に着き
あなたが笑って出迎えたら
私はうれしくて泣くでしょう
家に着き
あなたが静かに倒れていたら
私は後悔して泣くでしょう
なんにせよ
私が家に帰ったら
私は
ひとりで泣くでしょう