55人目『信じる男』
親父が死んだ。
享年70。
「まだ若かったのに」
葬式ではそんな言葉もちらほらと耳にした。
そりゃ親父が死んだことは悲しい。
だけど、涙を流すことはなかった。
俺にとって、親父は仕事人間だった。
朝、俺が目を覚ますと同時に、玄関の開く音がした。
夜、風呂から出ると同時に、玄関の閉まる音がした。
一人静かにビールを飲み、テレビを見ながら眠るんだ。
もちろん会話なんてなかった。
1週間しゃべらないことなんて日常だったし、最後にしゃべったのはいつだったのか、そしてどんな言葉だったのか。
思い出すことは出来ない。
こうやって、親父の部屋に入るとなぜだか緊張してしまうのも、そのせいなのだろう。
整然とした部屋。
それはどこか現実味のない世界。
たとえるなら、そうだな、モデルルームってところか。
親父は俺に興味がなかった。
どんなときも無関心だった。
小さくうずくまって泣いているときも、夜中まで遊んでいたときも、進む道がわからず立ち止まっていたときも、親父はいつもと変わることなく玄関を鳴らす。
親父の目に、俺はどう映っていたのだろう。
どんな息子だったのだろう。
ただそこにいるだけの存在だったのだろう。
好まれもせず、嫌われもせず、愛されもせず、憎まれもせず、
―ほっとかれたんだ―
「見せるなって言われてたんだけね」
母が押入れから出したのは、古ぼけたダンボール箱だった。
俺は横に座って、ふたを開けた。
整然とした部屋のなか、現実味の感じられない部屋のなか、人を感じることの出来ない部屋のなか、このちっぽけなダンボールのなかだけには
―人の生きた証が溢れていた―
とっくの昔に捨てられていたと思ったおもちゃたち。
ぎりぎり読みとれる汚い字で書かれた作文。
やる気の感じられない空白だらけの解答用紙。
いつ撮っていたのだろう。
自分でも忘れていた自分の姿が納められたアルバム。
そこには
―俺の生きた証があった―
「これ、お父さんから」
母の手には、俺の名前宛ての白い封筒。
親父の書いた字をはじめてみたが、それが親父の手によって書かれたのだとすぐにわかった。
俺は受けとると、中から3つに折りたたまれた1枚の紙を、丁寧に取りだした。
「………………」
「…………………う……」
「…………………くっ……」
全身を震わせ
泣いた
涙はすぐに紙に染み込んだ
どんなに悲しくても
どんなに辛くても
俺は初めて
―声を出して泣いた―
この、止めようにも止まらずに、こみ上げてくるものは何なのだろう。
親父を失った悲しみか
間違った認識で親父を見ていた自分への怒りか
いや
そんなもんじゃない。
そんなもんじゃないんだ。
嬉しくて
嬉しくて
言葉では到底あらわせられない。
誰にも伝えることなど出来ない。
ただ
―嬉しすぎて―
濡れてしわがよっている男に握られた1枚の紙。
そこには、たった一言。
―信じてる―