25人目『落とした男』
ある日、自転車に乗っていると道の脇にある草むらで必死に地面を掻き分けている男の人がいた。
私は気になって自転車から降りて話しかけた。
「どうしたんですか?」
男の人は切羽詰った表情で答えた。
「落としてしまったのです。落としてしまったのです」
誰が見ても必死だということが伝わってくる。
「なにを落としてしまったんですか?」
「とても大事なものなのです。私にとって、なくてはならないものなのです」
「それは大変。私も探しますよ。それは一体どんな形ですか?どんな色ですか?」
すると男はいきなり黙り、止まってしまった。
「あの〜……。もしもし?」
男は焦点の合っていない目で一点を見つめながら言った。
「……わからない。どんな形だったか……どんな色だったか……覚えていないのです……。それは、あまりにも当たり前にそこにあって、絶対になくならないと思っていたものです。ですから、よく見ようともせず、大事に扱いもしなかった……」
「それじゃあ、見てわからないんだったら探しようがないんじゃ……」
「いいや!!見えればわかるのです!!今は思い出せなくても、それを見れば必ず思い出すのです。そして、もう二度と忘れることはないのです!!」
「それなら、なぜそんな大事なものを落としてしまったんです?」
「私は知らなかったのです。これほどまで私にとって大切なものだったとは。失って、離れてみて初めてその大切さがわかったのです。しかし、
―気づくのが、遅すぎました―
近くにあったとき、当たり前だったとき、
―なぜもっと大事にしなかったのか―
ただただ、今は後悔するしかないのです」
「だけど、そのときは知らなかったんですから。これから気をつければいいじゃないですか」
「違うのです。ホントに知らなかったのなら、こんなに後悔していないでしょう。私は
―知っていたのです―
心の隅っこでは思っていたのです。
大事にしなくてはいけないと。
離してはいけないと。
しかし……私は……」
男の人は背中を丸くして落ち込んでいる。
「さあ、早く探しましょう。そんなに大事なものならなおさらですよ」
「ありがとうございます。早く探……」
「ど、どうしました?」
「……そ、それは……」
男の人は、目を丸くさせながら私を指した。
「これですか?これがどうかしたんですか?」
「……それなのです……それなのです!!私が落としたのはっ!!!」
「えっ!?これですか!?本当にこれですか?こんな当たり前で、どこにでもあるようなものがそうなんですか?」
「お願いです!!どうかそれを私に分けてくれませんか!?このとおりです!!お願いします!!」
「本当にこれですか?これは私がずっと前から持っていたもので、あなたが持っていたものとは違うと思うんですけど」
「いいえ。それでいいのです。だから、お願いです。分けてください!!」
「ホントにこれでいいのでしたらどうぞ。もし良かったら全部あげてもかまいませんが」
「何を言っているのですか。あなたはまだ気づいていないのです。それがどんなに大切か。どんなに自分に必要なものか。この世で一番大切なものなのです!!」
「本当ですか?私にはよくわかりません」
「失くしたときに気づくのです。しかし、こんなに辛いことはないのです。ですから、あなたには失くして欲しくないのです。落として欲しくないのです。どうか、大事に大事にしていただきたいのです」
「わかりました。それではどうぞ」
私は大事に大事にそれを手渡した。
男の人は、それは嬉しそうに受け取って、
「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」
と、この世で最も美しい言葉を何回も言った。
「このご恩は一生忘れません。何かお礼をさせてください。なんでもさせて頂きます」
「いえ、お構いなく。私はもう、お礼を貰いましたから」
自転車に乗りながら思う。
こんなに人に感謝された事があっただろうか。
こんなに人に頼られたことがあっただろうか。
私は、今まで感じたことのない幸福感に満たされていた。
あの人が言っていたように、私はこれを一生大事に大事にすることでしょう。
だってこれは当たり前で、ごく自然に誰もが持っているものだけど、
―最高の幸せをもたらしてくれるから―