18人目『見つめた男』
扉を開けると、すでに客席は落ち着きを見せていた。
そりゃそうだ。
もうすぐ始まるのだから。
俺も早く座らなくては。
「ちょっとすみません。前すみません」
結構いい席に座れた。
これなら顔が見える。
会場が暗くなり、幕があがった。
照らし出される舞台の上にはピアノが黒々と光っている。
それと合唱用の壇と指揮者用の檀。
ぞろぞろと壇上に上がっていく。
みんなでお辞儀をして指揮者が腕を振ると音が踊りだす。
「そういえば、順番聞いてなかったな」
音が飛び交うなか、そんな事を思っていた。
何組か過ぎたとき、会場が明るくなった。
「ただいまより、30分の休憩にはいります」
席に戻るとき面倒だからいいか。
……。
早く戻ってくれば大丈夫か。
席を立って会場の横にある入り口を見ると、人で溢れかえってる。
段をのぼるのは面倒だが後の扉から出るか。
扉を開けると目の前が正面玄関になっている。
正面玄関はガラス張りになっていて外がよく見える。
「あれ……?」
おもわず声にもらしてしまう光景が網膜に飛び込んできた。
見慣れた人物が会場から遠のいていくではないか。
バンッ
ドアを乱暴に開けて駆け寄った。
「ちょっと待てって。どこ行くんだよ」
振り返った彼女の目は赤く、涙がポロポロと流れていた。
そんな彼女を見て、思わず俺は動揺してしまう。
わけがない。
彼女の涙は見慣れてるというか初めて会ったときも泣いてたし。
これまで幾度となくこんな場面に出くわしてきた。
今まではどうしたら彼女が泣き止むかを考えていた。
だけど今回は違う。
泣いててもいい。
ただ、舞台の上に登ってもらいたいんだ。
「ほら、戻ろう」
手を掴んで戻ろうとする。
だけど彼女は手を払って拒んで泣いた。
「やっぱり無理っ。出来ないよ」
両手で顔を覆いながら泣く彼女に言葉をかけた。
「大丈夫だって。いつもどおりでいいんだから」
「こんなの全然いつもと違うもん。こんな大勢の人の前でなんか絶対に無理」
首を横に振るたびに涙が飛び散り地面をぬらした。
「大丈夫だって。ほら、よく言うだろ?みんなかぼちゃだと思えばいいんだよ」
「そんなの無理っ!みんなはかぼちゃなんかじゃない。生きてる人間だもん!!」
彼女の両肩を掴んで顔を近づけて言った。
「だったら、
―俺に唄えばいい―
いつもみたいに、俺だけに唄えばいい」
しばらく時間が止まったかのように見つめ合った。
「それなら、大丈夫だろ?」
彼女は何もしゃべらず、ただ首を小さく一回下に傾けた。
涙で濡れた彼女の手を握って会場へ戻る。
「舞台の上に立ったら、俺だけを見ればいい。俺も、
―おまえだけを見るから―
な。わかったな」
聞き取れる限界の音量で“わかった”と彼女は言って、関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアの向こうへと旅立っていった。
バタン
「……そうだっ!!トイレ!!」
本来の目的を思い出したが、目の前には長蛇の列が並んでいた。
ま、間に合うのか……?
急いで戻るとすでに会場は真っ暗で、アナウンスが流れていた。
「続きまして、特別プログラム……」
「すみません。前失礼します」
なんとか間に合ったみたいだ。
すると、光溢れる舞台のそでから、彼女が現れた。
広い舞台の上にただ1人。
伴奏者も指揮者もいない。
舞台の上にはただ1人。
臆病で泣き虫で。
お世辞にも強いとはいえない。
かよわい彼女がただ1人。
会場は静寂に包まれていた。
中央まで歩き、会場を向いた瞬間。
彼女の目が俺を捕らえた。
彼女の目が、まだすこし赤いのがわかった。
彼女はゆっくりとお辞儀をした。
静寂を拍手が切り裂き、再び静寂が覆い尽くす。
彼女は俺だけを見る。
俺も彼女だけを見る。
彼女は深呼吸をするでもなく、大きく息を吸い込むでもなく。
いつものように。
口を開いた。
会場は
―奇跡で溢れかえった―
彼女は
―奇跡の声を持つ―