毎日ため息で否定され続けた私、公の場で婚約者を一人にした結果
「……リリアーナ。君は、自分の無能さを自覚しているのかな?」
婚約者のエドワードは、私が三晩かけて書き上げた隣国との通商条約案を、汚れた雑巾でも扱うように指先で弾いた。羊皮紙の端が、磨き上げられた執務机の上を滑り、床へと落ちる。
「この第4項、数値の根拠が甘い。君の独りよがりな文章には、正直、反吐が出るよ」
彼の声には、怒鳴るなどの粗暴さはなかった。それが余計に質が悪かった。穏やかで、丁寧で、まるで愚かな子どもに言い聞かせる家庭教師のような口調。その落ち着き払った声音こそが、彼の言葉をナイフではなく毒にしていた。ナイフなら傷口が見える。しかし毒は、気づかぬうちに全身へ回る。
「……いいかい、よく聞きなさい。君は一人では何もできない。私という光がなければ、君はただの価値のない暗闇なんだ。……分かっているね?」
分かっている、と思う。
思ってしまう。それが怖かった。
二年前の私なら、この言葉を笑い飛ばせただろう。根拠のない断言だと、反論できただろう。しかし今の私は、頭を下げながら「そうかもしれない」と考えている。「そうかもしれない」が「そうに違いない」に変わりつつある。人間は、何百回も同じことを囁かれ続けると、いつの間にかそれを自分の声だと錯覚するようになる。エドワードはそのことを、本能で知っているようだった。
「……はい、エドワード様。ご指導、感謝いたします」
私は深く頭を下げ、震える指先をドレスのひだの内側に隠した。
最初に彼の言葉を「おかしい」と感じたのは、婚約して間もない頃だった。
社交シーズン最初の夜会。私はその場の出席者の多くと顔見知りだったし、貴族の令嬢として場慣れしていた。ところがエドワードは、私の幼馴染みであるシャーロット・ハーヴェイ嬢と二言三言交わした直後、私の耳元にそっと囁いた。
「……ねえ、リリアーナ。さっきの彼女、君のことを笑っていたよ」
「え?」
「君が背を向けた瞬間に、隣の令嬢と何か話して、くすくす笑っていた。……気づかなかった? 君はいつも、そういうことに鈍いね」
私はシャーロットの方を振り返った。彼女は別の令嬢と談笑しており、私の視線に気づくと、いつも通りの明るい笑顔で手を振った。
あの笑顔が嘘だとは、到底思えなかった。
でもエドワードが「見た」と言うなら。私が「気づかなかっただけ」なら。
その夜以来、私はシャーロットの言葉の裏を読もうとするようになった。裏など、どこにもなかったのだと今は分かる。しかし当時の私は、エドワードの「観察」を信じて、少しずつ彼女との距離を置くようになった。
同じことが、何度も繰り返された。
幼い頃から親しかったアメリア嬢は「君の悪口を言っていた」と聞かされ、読書会で仲良くなったヴィクトリア嬢は「君を利用しようとしている」と告げられた。エドワードは毎回、ひどく心配そうな顔をして、「君のために教えてあげているんだ」と言った。
気づけば私の周りから、友人と呼べる存在が消えていた。
残ったのはエドワードだけだった。そしてエドワードは言った。「私だけが、君の本当の味方なんだよ」と。
家族も例外ではなかった。
兄のフィリップは、エドワードと対立した。理由は些細なことだった。エドワードが私の仕事を「指導」と称して自分の名で提出し始めた頃、フィリップがそれを指摘したのだ。「リリアーナが書いたものだろう」と。
翌週、エドワードは父のもとを訪ねた。何を話したのかは知らない。しかしその後、父は私に言った。「フィリップは嫉妬深いところがある。エドワード卿のような優秀な婚約者を持って、焦っているのかもしれない。あまり近づくな」と。
フィリップが最後に私に声をかけてきたのは、半年ほど前のことだ。
「リリアーナ、本当に大丈夫か」
私は笑って答えた。「大丈夫よ」と。それ以上の言葉が出なかった。エドワードに「フィリップは君を不安定にさせる」と言われていたから。
兄の顔に浮かんだ、何かを堪えるような表情を、私は今でも思い出す。
公の場での辱めは、私が最も恐れるものになっていた。
三ヶ月前の王宮晩餐会のことを、私はまだ夢に見る。
ちょうど財務卿が隣国との貿易赤字について話していたとき、私は小声でエドワードに「魔力銀の輸出規制が影響しているかもしれない」と囁いた。彼は頷いて、しばらくして、財務卿の言葉が途切れた間に口を開いた。
「実は、私も先ほどそれに気づいておりまして。魔力銀の輸出規制が根本にあるかと」
周囲が「さすがだ」と言った。
私は何も言わなかった。
それだけなら、まだ耐えられた。問題はその後だ。食後の歓談の中で、私が同じ話題に触れようとした瞬間、エドワードが穏やかに、しかし明確に、私の言葉を遮った。
「リリアーナ、君はこういう話は難しいだろうから、あちらの方たちとお話していなさい」
笑い声が、どこかから聞こえた気がした。
「あちらの方たち」とは、飾り物のように壁際に立っていた若い令嬢たちのことだ。政治も経済も関係のない世間話を続けている輪。私はそちらへ促され、反論する言葉を見つけられないまま、微笑みながら席を移動した。
その夜、私は自室に戻ってから、ひどく長い時間、何もできなかった。
怒りではなかった。怒るための体力が、もう残っていなかった。
ただ、ぼんやりと天井を見上げながら、「私はこの場所で何をしているのだろう」と思った。考えているはずなのに、思考がどこかに流れていってしまう。自分の輪郭が、じわじわと滲んでいくような感覚。
それが三ヶ月前の話だ。
「……君のためを思って言っているんだよ。私がいなければ、君は社交界の笑い者だ。……さあ、顔を上げなさい。私がこの泥のような案を、まともな公文書に直してあげよう」
彼は優雅に微笑み、私の数夜にわたる努力を、当然の権利のように鞄へと収めた。
羊皮紙が鞄の中に消えていくのを、私は見ていた。
消えていく。また消える。私の三晩が。
「……ありがとうございます、エドワード様」
声は、なんとか平坦に出た。震えていなかったと思う。
彼が部屋を出て、扉が閉まった後、私はしばらくそのまま俯いていた。
指先が、冷たかった。
おかしい、と思った。
何かがおかしいと、どこかではずっと分かっている。しかしその「おかしさ」に触れようとすると、すぐに別の声が被さる。「エドワード様のご指導のお陰でしょう」「支えてもらっているのに贅沢だ」「あなたが無能だから、こうなるのよ」。誰の声でもない。でも確実に、誰かの言葉が私の中に棲みついている。
私は、冷えた指先を見つめた。
明日、この書類は彼の名前で発表される。
それが、どうしてこんなに当たり前のことになってしまったのだろう。
◇
王宮の円卓会議室は、国内外の重鎮たちの圧によって空気そのものが重かった。石造りの高い天井、長く伸びた楕円のテーブル、両脇に立ち並ぶ騎士の甲冑。中央に座る王太子殿下の横には、隣国から派遣された特使―「氷の知略家」の異名を国境の向こうにまで轟かせる人物が、射抜くような静けさで椅子に収まっていた。
エドワードは、私の書いた最終案を自らの手元に広げ、朗々と披露していた。
その声は自信に満ち、立ち振る舞いは堂々として、傍から見れば完璧な交渉官だった。しかし私には分かる。彼の言葉の美しさは全て形式だ。中身を理解せず、表層だけを磨いて提示している。料理を作れない者が、他人の作った皿を運んで「これが私の料理だ」と言っているようなものだ。
「……以上が、私が不眠不休で構築した新スキームです。これこそが唯一の正解であると確信しております」
不眠不休。
その言葉を聞いた瞬間、目の奥が、じくりと熱くなった。不眠不休だったのは私だ。羊皮紙の角で指先を切り、それでもペンを握り続けたのは私だ。魔力銀の市場推移を過去十二年分遡り、変動係数を一から算出したのも、隣国の貴族院の記録を原語で読み解いたのも、全て私だった。
「素晴らしい。さすがはエドワード卿だ」
王太子が満足げに頷く。重臣たちが追従するように頭を垂れる。
そのとき、特使が口を開いた。
「見事な論理だ」
一拍の間があった。
「ではエドワード卿、この第3項にある『魔力銀の価格変動に対する相殺条項』……この精密すぎる数値の算定根拠を説明願いたい。卿が構築したスキームなのだろう?」
エドワードの言葉が、一瞬だけ詰まった。
ほんの僅かな間だった。しかし私には、その沈黙がどれほど致命的であるかが分かった。本当に構築した人間なら、詰まらない。算出過程が頭の中に存在しているから。答えは出発点から手繰り寄せられる。だが彼には、出発点がない。地図を持たずに目的地を語っていたのだから。
しかし彼は、人当たりの良い笑みを浮かべ、王太子の方を向いた。
「閣下、それは後ほど事務方に。今は大枠の合意を優先すべきかと……」
「逃げるな。私は根拠を問うている。卿が答えられないのであれば、そこの補助役でも良い」
特使の言葉は短く、しかし鋭く、会議室の空気を断ち切った。
それを遮ったのは、王太子だった。
「特使。エドワードの才は私が保証する。……リリアーナ嬢のような補助役が書いた稚拙なメモより、彼の『結論』を信じるべきだ。そうだろう、リリアーナ嬢?」
王太子の冷淡な視線が、私を貫く。
周囲の重臣たちも、「無能な女が口を挟むな」と言わんばかりの冷笑を浮かべていた。会議室全体が、そういう場所として設計されているかのようだった。女性が同席を許されているだけで十分だろう、という暗黙の了解。その了解の上に、エドワードは安全に立っていた。
この部屋に、私の居場所はない。
エドワードの「指導」という名の搾取を、王家が、国家そのものが、当然のことのように追認していた。
私は、そのことを初めて冷静に理解した。そして同時に、これが最後の機会だとも。
エドワードは笑みを貼り付けたまま、テーブルの下で私のドレスの裾を強く引いた。
「(……おい、無能。今の質問の答えを早く耳打ちしろ。一言でも間違えたら、明日は無いと思え)」
小声だった。しかし、その声に滲んだ焦燥は剥き出しだった。これが彼の本性だ。余裕があるときは毒を薄めて注いでくる。しかし追い詰められると、こうして醜さが溢れ出る。
私は、震える手でペンを握った。
いつもなら、ここで書く。彼に言われた通りに、彼のための言葉を、私の手で綴る。そうすることで今日をやり過ごして、また明日も同じことが繰り返される。
しかし今日は違った。
私は、ペンを静かに置いた。
「……何をしている! 早くしろ!」
エドワードの焦燥が、抑えきれない苛立ちとなって漏れ出た。その声は、しんと静まり返った会議室に、予想外に大きく響いた。重臣たちが一斉に視線を向ける。特使の目が、細く、鋭くなった。
「どうしたのかね、エドワード卿?」
王太子の不審そうな声に、エドワードは慌てて表情を取り繕う。
「い、いえ! リリアーナが、また緊張で何もできなくなっておりまして。私がフォローしてやらないと、一文字も書けない始末でして……はは、困ったものです」
笑い声まで完璧だった。自分が焦っていたという事実を即座に塗り替え、問題をすべて私に転嫁する。これも彼の得意技だ。しかし今日は、その技が空を切る。
「……左様でございますか」
私は、椅子を引く音を立てて立ち上がった。
周囲がざわめく。王太子が不快そうに眉をひそめ、エドワードが「座れ!」と目を剥く。重臣の誰かが、呆れたように小さく嗤った。
しかし私は、その全てを背景の音として聞き流した。
「――ねえ、エドワード様。いつも仰っていましたよね」
私は、彼の目を正面から見た。初めて、まっすぐに。
「“君は一人では何もできない”と」
会場の空気が、ぴきりと凍りついた。
「……リリアーナ! 今、そんな話を……!」
「いいえ、今こそ証明していただきたいのです」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「慈悲深いエドワード様。あなたはいつも、私という『無能』を指導してくださっていました。では今ここで、皆様に示していただけますか? “あなたは一人で、一体何ができるのか”を」
特使が、氷のような声で畳み掛けた。
「……エドワード卿。数式の前提条件だ。答えろ。君の口から、今すぐにだ」
一瞬の沈黙。
エドワードの目が、素早く室内を泳いだ。王太子を見た。重臣たちを見た。そして、何かを掴むように、口を開いた。
「……それは当然、私の指示に基づいたものです」
声に、わずかだが力が戻っていた。
「この書類は、私がリリアーナに逐一指示を出して作成させたものだ。彼女はその”文字を起こした”に過ぎない。算定根拠の詳細は膨大な口頭指示の積み重ねであり、今ここで一から再現するのは……」
うまかった、と思った。
追い詰められた人間が思いつく言い訳としては、これ以上ないほど現実的だった。証明も反証も難しく、かつ私を「書記」に格下げする論理が含まれている。私が反論しても、それは「書記が上官に楯突いている」という絵になってしまう。
室内の空気が、僅かに揺れた。
重臣の一人が、低く呟いた。
「……それは、あり得るのでは。実務では口頭指示から文書化されることも多い。エドワード卿の言葉には一理あるかと……」
別の重臣が頷く。王太子の表情が、決断を先送りにするように曖昧になった。
「特使、エドワードの言う通り、実務の手順としては……」
特使は答えなかった。ただ静かに、私を見ていた。
場が、ゆっくりと、エドワードの側に傾き始めていた。
三ヶ月前の晩餐会と、同じ匂いがした。私が言葉を飲み込んで、場所を移動させられた、あの夜と。
しかし私は今日、席を移動しない。
「……なるほど」
私は静かに言った。
「では、確認させてください、エドワード様」
エドワードが、わずかに顎を引いた。勝ちを確信したときの、彼の癖だ。
「あなたが私に”指示”を出して作成させたと仰るなら」
私は、鞄から一枚の書類を取り出した。条約案の、第3項だけを抜き出した別紙。
「その内容は当然、すべてあなたの頭の中にございますね?」
別紙を、エドワードの正面に置いた。
「“あなたが考えたもの”なのですから」
室内が、しんと静まり返った。
「……では、この魔力銀の価格変動モデル。算定に用いた三つの変数を、ここで口頭でお示しください。私が書き起こした”あなたの指示”が正しいかどうか、確認したいのです。……ご自身の指示ですから、当然ご記憶ですよね?」
エドワードの表情が、固まった。
先ほどまでの薄い笑みが、内側から崩れるように消えていく。口が開く。しかし言葉が出ない。変数の名前すら出てこない。当然だ。彼はこの書類を一度も読んでいない。読む必要がなかったから。私が全て処理してきたから。
「…………」
「…………エドワード様?」
私は、穏やかに繰り返した。
「ご自身の指示ですから」
沈黙が、会議室に満ちた。
重臣たちが、先ほどまでの「一理ある」という顔から、別の表情に変わっていくのが見えた。特使は何も言わなかった。ただ、答えの出ない男を、静かに観察し続けた。
「……これは、彼女が! 彼女がわざと間違ったメモを……!」
ついに出た。
「私は、一文字も書いておりませんわ」
私は、真っ白なままのメモ用紙を、王太子と特使の前に差し出した。インクの染みひとつない、清潔な白。
「エドワード様が私に耳打ちを求められた瞬間から、私のペンは止まっておりました。こちらをご確認ください」
特使が、静かに口を開いた。
「……エドワード卿。理解した。君は、自分が提出した書類の内容を、一文字も把握していない。そして今この場で、部下の女性に答えを求めた。それが事実だ」
「違う! 私は……私は確かに……!」
「“一人では何もできない”のは――私でしたか?」
私は、静かに続けた。
「それとも、あなたでしたか?」
「リリアーナァッ!!」
エドワードが逆上し、私に掴みかかろうとした瞬間、両脇の騎士たちが素早く動いた。エドワードの両腕を取り、会議室の床へと押し込む。床に這いつくばり、なおも喚き続ける彼の姿は、ただ一瞬前まで「王国の優秀な交渉官」として皆の賞賛を受けていた男の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
私は彼を見下ろし、最後の一撃を、慈悲深く投げかけた。
「安心してくださいませ」
声は、静かなままだった。怒りも哀れみも込めず、ただ事実として。
「私はもう、あなたに”指導”していただかなくても――自分で考えられますので」
王太子は、この光景に顔を歪めていた。
それはそうだろう。自分の「保証」が、ただの無能への加担であったことを、この会議室の全員の前で突きつけられたのだから。特使の前で。重臣たちの前で。そして今後、必ず外交記録として残るこの場で。
「……エドワード・フォン・バートリー。君を交渉官から解任する。……連れて行け」
「離せ! 彼女が、彼女が僕を嵌めたんだ! リリアーナ、君は僕がいないと……!」
騎士に引きずられていくエドワードの断末魔が、石造りの廊下に吸い込まれていった。その声が完全に消えるまで、会議室は静まり返っていた。
私は、気まずそうに視線を逸らす王太子に向き直り、静かに告げた。
「殿下もまた、彼の”才”を熱心にご保証なさいましたね」
王太子の肩が、僅かに揺れた。
「……では今の、みすぼらしい男をご覧になって、どうお考えになりますか?」
長い沈黙があった。
会議室の誰もが、息を詰めて王太子の次の言葉を待っていた。ここで誤魔化せば、この場の全員が見切る。そしてその判断は、外交記録だけでなく、王室への信頼という形で必ず返ってくる。
王太子は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、開いた。
「……すまなかった、リリアーナ嬢。私の不明であった」
その言葉が落ちた瞬間、会議室に満ちていた緊張が、音もなく崩れた。王太子が、大衆の前で一人の令嬢に頭を下げた。それは泥臭く、不格好で、しかし紛れもなく誠実な謝罪だった。
特使が静かに席を立ち、私の方へと向かってきた。
そして、一国の王に向けるかのような深い礼を、私に向けた。
「……素晴らしい」
特使の声に、今まで聞いたことのない感情の色があった。
特使は私を真っ直ぐに見た。
「リリアーナ嬢。私は、あの空っぽの男ではなく、“本物”であるあなたと話したい」
私は、かつてエドワードが「無価値だ」と切り捨てた私の指先で、新しい契約書の頁をめくった。
指先には、まだ羊皮紙で切った小さな傷の跡があった。三晩の証だった。
「……恐縮です、閣下」
私は、微笑んだ。
「では、続きを始めましょうか。“私一人で”ご説明いたしますわ」




