二人だけの秘密
第三話
彩花さんはだいたい、フロントでチェックイン、チェックアウトをする客の対応をしていた。接客はとても丁寧だし、言葉遣いもきちんとしていて、女将さんも驚いている様子だった。それに、俺以外に若い従業員はいなかったから、彩花さんが来て、湯浅野旅館が少し活気づいた気がする。
それは、喫茶店の件から数週間がたったある日、その日は夕方から雨が降だした。俺は母に傘を親父に届けるよう頼まれ、足早に家を出た。そういえば、今日親父は社長と会食するとか朝言ってた気がする。
俺は懐石料理屋の店員に事情を伝え、親父と社長がいる個室に向かった。
案内された部屋から女の人の話し声が聞こえた。どうやら中にいるのは二人だけじゃないようだ。
「ん?」
この声、どこかで聞いた声だ。
「失礼いたします、息子様がお見えになられました。」
「えっ社長、息子さんもいらっしゃったんですか?」
「いや、うちは全員娘だが」
「親父、傘届けに来たぞ」
「きょっ恭介! 何しに来たんだ⁉」
「いやだから傘...えっ?」
俺は思わず傘を握った手を放してしまった。彩花さんが社長の隣にいる!? しかも随分と親しそうじゃないか、まさか……
「しっ失礼しました」
「あっちょっと! 和泉君!」
俺は、目の前の状況が理解できなくて、バタンッと個室のふすまを閉め、逃げるようにお店を出た。
家に帰ってからもさっき見た光景が何度も脳裏をよぎった、俺はベッドに横になったまま動けなかった。今はとにかくこの現実から目を背けたかった。彩花さん…… 俺には知らない事情が確かにそこにあった、あの距離感は普通じゃなかった、そんな、あんまりだよ。確かにおかしいとは思った、彩花さんみたいな人があんな旅館に働きに来るわけがない。
翌日、俺は重い足取りで湯浅野旅館に向かった。正直もう、彩花さんと普段通りに話せそうにない。
「和泉君」
更衣室で着替えを済ませ、従業員の休憩室に入ると、彩花さんがいた。
「和泉君」
「あっどうも……」
「ちょっとこっちに来て」
「えっ?」
「いいから早く」
俺はあとをついていった、彩花さんは人気のない廊下で止まった。きっとこの前のことを口止めしにきたんだろう。
「和泉君、あのね、この前のことなんだけど」
「もうわかってます、みんなには内緒にしておきますよ」
彩花さんはやたら周囲を気にしながら、俺の耳元でささやいた。
「実はね……」
「……私社長の娘なの」
「えっ……」
「だから、ここだけの秘密にしてね」
「えっ……」
「ええ!!?」
「ちょっと! 静かに!」
「あっすいません……」
俺は手で口をふさいだ
俺はしばらく誰もいない廊下で呆然としていた。
「和泉君、これからもよろしくね」
「こっこちらこそ……」
彩花さんはいつもより輝いて見えた。もちろん、このことを誰にも話すつもりはない、少なくとも――今は。




