5 白人
バタルは悲鳴もあげられなかった。背中から地面へ落ちていく感覚よりも、視界から鳥影が去っていくのに絶望を覚えた。地上からの熱い風を切りながら、バタルは自身の無力さに目を閉じた。
その時、全身が柔らかなものに包まれた。背中からくるみ込まれる感触は、砂に埋もれたわけではなさそうだ。肌にぶつかる熱波は消え失せ、奇妙な浮遊感だけが背中に残る。指先がよく知る糸の感触を拾い、バタルは仰向けたまま顔を傾けて、うっすら目を開いた。
茜を基調に織り上げられた幾何学文様と、それをふちどる金の房飾りが見えた。
「……絨毯?」
陽炎のようにぼやけた思考でも、それだけは認識することができた。バタルを乗せた絨毯は緩やかに高度を下げ、やがて砂丘の作る影の中へと彼を運んだ。
絨毯越しに背中で大地を感じた直後だった。バタルの目の前に、見知らぬ男が現れた。バタルと同じくらいの歳だろうか。白く輝く肌をしたその男は、力なく横たわるバタルの顔を興味深そうに覗き込んだ。
「たまげたな。空から人が降ってくるとは。君、大丈夫かい?」
本当に驚いた様子で、男は空色の瞳を丸くした。ターバンから細くこぼれている髪は、太陽と同じ金色をしている。砂漠の地で初めて見る、白人だった。
「あ……」
あんたは、と問おうとして、バタルはそれ以上の声が出なかった。喉が貼りついたようで、息さえも真っ直ぐに吐き出せない。
「あまり大丈夫ではなさそうだね」
呟きながら身を屈めた白人は、バタルの頭を持ち上げると、自身の膝で背中を支えるようにして上体を起こさせた。
「飲めるかい?」
問いかけと共に、バタルの唇に冷たいものが触れた。それが水であると認識すると、バタルは夢中で口に含んだ。熱波に煽られ続けた体に、よく冷えた水が救いのように染みる。飲ませて貰うだけでは飽き足らず、水筒を支える白人の手をつかんで引き寄せ、浴びるように水を喉へと流し込んだ。
やがてバタルが満足して手を離すと、白人は彼の頭を支えて慎重に絨毯へ寝かせ直した。
「動けなくはないようだけど、ひどい状態だ。傷だけでも洗わないと」
服をまくり上げて怪我の具合を確認する白人の動きを、バタルは無感動のまま視線だけで追った。肌から引き剥がされた着衣はあちこちが裂けていて、血と埃で真っ黒にべたついていた。それを自身の目で確認すると、バタルの体はこれまで意識されていなかった痛みに襲われた。
痛みは全身におよび、具体的にどこに傷を負っているのかも分からない。痺れた両腕は、今となっては指一本も動かすことができなかった。
むき出された脇腹に、冷水がかけられた。同じ場所を白人の指が数度撫でると、ちりちりと焼けるように痛む。傷を洗ってくれているのだと分かれば、その感触もしだいに心地よく思えてきた。
纏わりつく痛みと心地よさに押し流されるように、バタルの意識は急激に遠くなり、そのまま気を失った。
次にバタルが目を開いた時、視界を覆ったのは、満天の星だった。雲もわかぬほど澄んだ砂漠の空で、星の輝きは冴え渡り、かすかな瞬きの差だけで夜闇に七色の陰影を描き出す。砂漠の暮らしは楽ではないが、この星空だけは他では見られぬものだろうと、ぼんやり考える。少なくとも、記憶の中にだけあるもう一つの人生の景色に、印象づくほどの星空は存在していなかった。
今にも降り注いできそうなきらめきをバタルが眺めていると、星でなく声が降ってきた。
「起きたかい?」
声と共に、白い煙が視界をふわりと漂った。独特の甘ったるい香りで水煙草の煙だとすぐに分かった。
声のした側へ目線をやると、夜闇にほの白く映える白人が枕元に座っていた。彼の頬に揺らぐ光から、近くで火が焚かれているのが分かる。白人は目覚めたばかりのバタルと目が合うとかすかな笑みを見せ、手を伸ばして額に触れてきた。
「傷はすべて手当てしておいた。発熱はしていないようだし、ゆっくり休めばすぐに回復するだろう。なにか食べるかい?」
白人の声と口調はごく落ち着いていて、疲弊したバタルの意識にもすんなりと入ってきた。彼に命を救われたのだという事実が、にわかに実感をともなう。
バタルは昼間と変わらぬ体勢で、絨毯の上に寝かされていた。全身の傷には清潔な布が巻かれ、痛みも昼間に比べればいくぶんましになっているようだ。顔を撫でる砂漠の夜風は冷たかったが、厚い外套を被せられていて寒さは感じなかった。
バタルは喉に残っていた最後の熱を吐き出すように、やっと声を発した。
「……あんたは」
かすれた誰何に、白人は空色の目を細くした。
「名乗るなら君が先じゃないかな。ぼくから見たら、空から降ってきた君の方が不審者だ。それをこうして世話してやってるんだから、なかなか優しいと思わないかい?」
言葉の終わりと同時に、白人は水煙草を咥えた。もっともらしく言われると、今のバタルの鈍い思考力では、その通りかもしれないとしか受けとれなかった。
「……バタル」
「バタル――勇気ある者か。いい名前だね」
煙と共に吐き出された白人の声は、どこか嬉々とした響きがあった。
「ぼくはジャワードだ」
バタルと同じように、白人も名前だけを告げた。バタルが自身のことを話さない以上は、彼も話す気はないということなのだろう。それでも思うところがあり、バタルは空色の瞳に映る火の影を見詰めた。
まじまじと見詰める視線に気づいた様子で、ジャワードは絨毯に手を突いて顔を寄せてきた。間近に見ると、象牙色の肌は下の血管が見えないのが不思議なほど透き通り、空色の瞳には銀色の虹彩が走っていた。彼の呼気に含まれる水煙草の香りが、鼻腔を甘くくすぐる。
「ぼくの顔が珍しいかい」
白皙の美貌で挑発するように覗き込まれ、バタルはやや息をのんだ。
「……白人も、本物の魔法使いも、初めて見た」
嘘を言う意味はないと判断して、バタルは低く囁いた。するとジャワードは目を大きくし、直後には体を反らして大笑いをした。
「そうきたか。いやー、驚いた。どうしてぼくが魔法使いだと?」
座り直したジャワードに問われて、バタルは一度目を閉じてじっくり考える間をとった。
「昼の砂漠で、よく冷えた水なんて普通には用意できない」
「ありがたかっただろう?」
不敵な響きでジャワードが言い、バタルはつられるように少し笑って頷いた。
「うん。それに――」
言葉を続けながら、バタルは体の下の絨毯に手の平を当てた。
「絨毯で空を飛んだのも、初めてだ」
バタルはジャワードから視線をはずして、絨毯の毛足に頬を当てた。幼い頃から触れてきた織物の感触に、自然とくつろいだ心地になる。この絨毯が受け止めてくれなければ、バタルは地面に叩きつけられて確実に死んでいただろう。織物職人の息子である自分が一枚の絨毯に救われたというのもまた、妙な縁に思われた。
幾何学文様の織り目を一つ一つ辿るように、バタルは絨毯に指先を滑らせた。
「……いい絨毯だな」
それは無意識に出た言葉だった。
「分かるのかい」
問いかけるように言ったジャワードの声色の変化を感じて、バタルは再び彼へ顔を向けた。ジャワードの白い顔からは笑みが消えていて、静かな眼差しでこちらを見下ろしていた。推し量るような白人の表情に、バタルはかえってほほ笑み、自信を持って頷いた。
「古びてはいるけど、均質な絹糸で丁寧に織られてる。これだけ綺麗に目が詰まっていながら柔らかい手触りが保たれてるんだ。よほど腕のいい職人の仕事だろう」
自分では同じようには織れない。バタルはそう断言することができた。妹のファナンならばあるいは限りなく品質を寄せられるかもしれないが、量産は難しいと思われた。
そう思いを巡らせる中で、真剣な面持ちで機を織る妹の姿が脳裏に浮かんだ。
(ファナンを早く助けないと……)
どこへ連れて行かれてしまったのか、もはや分からないが、急がなければ巨鳥に食べられてしまうだろう。しかし体力も気力も尽き果てている今のバタルでは、即座に自分の体を起こすことさえままならなかった。二年前、異国へ旅立つ父の前で、妹は自分が守ると誓ったはずなのに、なんと不甲斐ないことか。
ふと、ジャワードの白皙の顔が笑み崩れた。これまでのどこか乾いた笑みではなく、ついこぼれたといった風が見てとれた。
「ありがとう。自慢の絨毯なんだ」
ジャワードがあまりに甘く笑うので、バタルは若干どぎまぎして顔をそらした。
「……感謝しなきゃならないのは、おれの方だ。ありがとう、助けてくれて。大いなるスライマンの恵みを」
バタルの素直な言葉にジャワードは軽く笑い声をたてると、横たわる体にもう一枚上がけを被せてやった。風が出始めていた。獣よけの火が揺らぎ、ぱちぱちと音を立てる。
「さあ、もう少し眠るといい。あまり喋ると体力を使う。回復したら、君の事情を聞かせてくれ」
そう言って、ジャワードはバタルの両目を覆うように手をあてがった。
視界がふさがれると同時に水煙草の香りが濃くなり、微睡みが訪れた。バタルはもう少しジャワードと話したいと思ったが、強い眠気は抗えるものでなく、急速に意識が落ちていくのが分かった。これもジャワードの魔法だろうかと思考の隅で考えながら、バタルは甘い香りの中で眠りについた。
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