21 惜別
一塊の波となって押し寄せる怪物を止めるべく、ズラーラとウマイマが一歩踏み出した時だった。食人鬼の群れが、急にその動きを鈍らせた。訝しむ二人の前で、食人鬼たちはみるみる勢いを失い、ついには玉座の壇に届く前に立ち止まってしまう。怪物たちの突然の戦意喪失に二人は戸惑いつつ警戒を続けたが、ズラーラがふと心当たりに気づいて後方を振り返った。
二人のすぐ後ろ、玉座の手前ではゼーナがバタルの亡骸を抱きかかえ、項垂れ泣き続けている。しかしもう一人いるはずの、魔人の姿がない。ズラーラはその行方を探して視線を巡らせる。そして玉座の奥に、ぽつりと落ちているランプを見つけた。
ズラーラはランプに目を向けたまま、ウマイマの腰の辺りを軽く叩いて注意を引いた。
「……アラディーンが消えた」
「……そう」
ズラーラがぼそりと伝え、ウマイマは声とも吐息ともつかない調子で返事をした。
食人鬼たちが、今度は後退を始めた。あれほど牙を剥き、凶暴に餌食を求めていた黒き怪物が、翻っておびえを見せる。アラディーンがいなくなったからだ。
首領を失った食人鬼の群れは瞬く間に秩序と力を失い、潮が引くように散り散りに逃げていく。食人鬼たちが雪崩を打って大広間から飛び出していくにいたり、ウマイマもようやく警戒を解いた。次の首領が現れるまで、しばらくは食人鬼も大人しくしているだろう。
ウマイマの視界の端で、金色の煙が淡く立ちのぼった。見れば、足もとにいるズラーラの実体が緩み、輪郭から滲むように煙に変わっている。
「あら、時間切れ?」
問いの形をとりつつ確信を持って言えば、ズラーラは細い首で頷いた。
「次のご主人様を、探さないと」
三つの願いが成就した時、魔人の契約は解かれて本人の望むと望まざるに関わらず主人と引き離される。すぐその場で新たな主人と契約がなされれば形は変われど一緒にいられることもあるが、今ここにはバタルの亡骸の他に人間の姿はない。
ズラーラは、半身たる短剣を軽く振った。剣身に残っていた血は一滴も残ることなく払われ、刃が銀に冴え渡る。すると、バタルの革帯に挟まれていた鞘が、誰の手も触れることなくするりと抜け出た。そのまま真っ直ぐにズラーラの方へと飛んできた鞘は、彼の握る短剣に、ちゃん、と音をたてて収まった。
短剣を両手で胸の前に持ち、ズラーラは体ごとバタルの方へと向き直る。もの言わぬ青年の顔を琥珀の瞳に映し、俯いた。
「主人バタル。願いは三つ叶えた。だから、おれは、もうこれで……これで……」
堪えきれず、ズラーラの目から涙が落ちる。同時に、少年の姿は短剣もろとも黄金色の煙へと変わった。煙は散ることなくまとまったまま浮き上がり、高い位置の格子窓から外へと飛び出す。黄金色の煙は光の尾を引いて、遙かな空へと吸い寄せられるように彼方を目指し、やがてわずかの痕跡も残さず消え去った。
短剣の少年魔人を見送ったウマイマは、金の煙の出ていった窓をしばらく見詰めていた。金と青の鮮やかなタイルで彩られた天井で、そこだけ淡くぼんやりとした曙の空の色が覗いている。少年魔人は自らの手を汚したわけではないが、結果的に彼が依代としている刃が主人の命を奪うこととなった。傷つかないでいるのは無理であろうが、できればあまり引きずることなく乗り越えられればと、ウマイマはズラーラのこの先を慮った。
物思いに切りをつけたウマイマは改めて、バタルの亡骸と、それを胸に抱くゼーナへと向き合った。指輪の娘魔人は先ほどまで声の限り泣き狂っていたが、いつの間にか静かになり、今では微動だにせず項垂れている。多少は落ち着いただろうかとも思われたが、乱れて垂れた髪で表情がうかがえない。それがかえって、ウマイマの目には深刻にも映った。
ウマイマはゼーナの前に膝をつき、大きな体を屈めた。
「ゼーナちゃん……バタルちゃんを外に運びましょう」
死者を大切に思えばこそ、きちんと身なりを整えてやり、丁重に葬ってやるべきだ。少なくともこの場所でただ悲嘆に暮れるだけなのは、残された者にとってもよいことではない。そうウマイマは考え、バタルの体へと両手を伸ばした。
だが、ゼーナが急にバタルを強く抱いて身を引き、ウマイマに触れさせようとしなかった。滴がこぼれるように、娘魔人の唇から一語一語と、か細い呟きが床に向かって落ちていく。
「バタル様は……死なせません。わたくしが、絶対に……もう、死なせない……」
ゼーナは腕の力をさらに強め、バタルの頬に自身の頬を寄せた。二人の肌と肌が触れ合ったところから淡い光が漏れるのを見て、ウマイマは、はっとしてゼーナの肩をつかんだ。
「ちょっとゼーナちゃん! なにする気!」
「止めないでください!」
バタルから引き離そうとしたウマイマに、ゼーナが叫んだ。絶句するウマイマを見ることもなく、ゼーナはバタルを抱き締めたまま懇願をする。
「お願いです。止めないで……止めないでください……」
「でも、それじゃあ、あんたが――」
「わたくしはいいんです。わたくしは、二度もバタル様を守れなかった……ご主人様を守れない魔人でいるくらいなら、わたくしはもう……」
これ以上、ゼーナにかけるべき言葉がウマイマには見つけられなかった。どんな説得も励ましも、なにもかもが陳腐に思えて、声にのせるのさえ憚られる。
主人を失った経験のある魔人は、決して少なくはない。けれども彼女の場合は、一度は失われながら執念でとり戻した主人を、再び失ってしまった。このような例をウマイマは他に知らなかったが、その苦しみは今、彼が感じている悲愴とは比ぶべくもないのだろう。
ウマイマは立ち上がり、一歩後ろへとさがった。ゼーナのすることに、自分は干渉できない。それでも、見届けるべきだろうと思った。目覚めた者を、迎える者も必要だ。
ゼーナはバタルの右手を握り、彼の中指にはめられた指輪をそっと撫でた。
指輪の魔人は、主人に囁く。
「主人バタル様。わたくしはもう、あなたを死なせません――」