13 愚者たち
ラフィーア妃も一応は後宮の長であるので、差配のため日中は度々居室を空けている。とは言っても、実質的な権限は別の者が持ってとり仕切っているのだろうと、バタルはみていた。彼女のように矜持ばかり高い人物は、それらしい地位と役職さえ与えておけば大抵は大人しくなるものだ。
この日もラフィーア妃が居室を留守にすると、ジャワードはいつも通り寝室の絨毯に横になった。やはり彼は、床で寝転ぶのが一番落ち着くらしい。ラフィーア妃の目がある時には床で寝ることをしないので、彼なりに行儀よくしているということなのだろう。
ジャワードが仰向けてくつろいでいると、アラディーンが傍に来て高い位置から顔を見下ろした。
「君はいつも寝ているな」
声に侮蔑の色があったが、ジャワードは気にかけることなく、体も起こさずに砂色の顔を見上げた。
「他にすることもないからね。この顔で男子禁制の後宮をうろうろするわけにもいかないだろう」
「いい加減な君にもそういう分別はあるんだな」
「面倒が嫌いなだけだよ。避けられる面倒は避けるに越したことはない」
「なるほど。そういう考え方では、ご主人様に愛想をつかされて当然か」
アラディーンはジャワードへの蔑みを、今度は隠さなかった。さすがになにかを思ってか、ジャワードはやや勢いをつけて上体を起こした。だが胡座をかいて座っただけで、立ち上がることはなく、食ってかかるような意気はない。無気力に頬杖をつき、アラディーンの見下す眼差しを斜めに見上げる。
「アラディーン。君は少し、気をつけた方がいい」
反発されたと思ったのか、アラディーンの紅い双眸に不快げな色が浮かんだ。
「なんの話だ」
「ラフィーアへの入れ込み方さ。ご主人様への思慕は魔人として分かるけど、君の場合それを超えて盲目的になっているように見える」
ふっと、アラディーンが鼻で笑った。口の端に嘲りを乗せ、あなどりに瞳が濁る。
「それは嫉妬か、ジャワード。主人ラフィーアが、君よりもわたしを重用するようになったことへの。ご主人様に合わせた立ち回りを覚えろと、わたしに説教をたれたのは君だ」
ジャワードは頬杖の指で、軽くこめかみを掻いた。
「君がラフィーアの欲求をすべて引き受けてくれるなら、ぼくはそれでまったく構わない。むしろ歓迎したいくらいだ。でもそれはあくまで、ご主人様の求めに応えてのものであるべきであって、魔人の方から求めるべきじゃない」
「わたしはご主人様に求められている。以前の君より、ずっとな」
やはりアラディーンはジャワードを軽んじて鼻で笑うだけで、意に介そうとしなかった。もはやこれ以上は不毛と判断してか、ジャワードはため息と共に胡座を解き、再び絨毯の上に体を伸ばした。
「分からないのならもういい。ただ、ぼくのやり方と、今の君がしていることが同じだと思っているのなら、それは大きな間違いだと言っておくよ」
言い争う気はないという、ジャワードの無気力な意思表示に、アラディーンの顔がしかめられる。それでも自身の優位性を誇示するように一度鼻を鳴らし、視界から歩み去った。
バタルがこの追憶に身を委ねてから、始めはアラディーンの方が正常な価値観を持っている印象だったが、今ではジャワードの言葉の方がまともに聞こえた。二人が別人――別魔人と言うべきか――になったという印象はない。それでもここまで立ち位置が変わるものかと、バタルは唖然とした。
居間の方がにわかに騒がしくなった。部屋の主が戻ったのだと分かり、ジャワードが起き上がる。先ほど出かけたばかりのはずだが、仕事をしてきたとは思えぬ早い戻りだ。ジャワードが立ち上がっている間に、アラディーンが入り口の方へ素早く進み出た。案の定、仕切りの帳を跳ね上げてラフィーア妃が現れ、目の前の黒衣に飛びついた。
「アラディーン! わたくし、こんなに馬鹿にされたのは初めてだわ!」
現れるなり叫んだラフィーア妃の目は、激憤で潤んで充血していた。髪を振り乱して金切り声をあげる主人の後頭部と背中に、ランプの魔人は丁寧な動作で手を添えた。
「一体、誰があなたを軽んじるようなことを?」
「後宮の女全員よ! 全員、わたくしの顔など見たくないそうよ! わたくしの呼び出しに誰一人応じないなんて、そんなこと許されるはずないわ! わたくしが後宮の主なのよ!」
これまでに失踪した後宮の妃たちは皆、ラフィーア妃の呼び出しを受けた後に姿を消している。嫌疑をかけられている自覚もなく同じ手口を続ければ、遅かれ早かれこうなることは当然であるのに、そこに考え及ばないのが彼女の幼稚さの現れだった。
ラフィーア妃は子供のように足を踏み鳴らし、アラディーンの胸を拳で何度も叩く。
「許せない、許せない、許せない! わたくしを馬鹿にして恥をかかせるなんて! わたくしに従わないと言うのなら、力尽くでも従わせてやる」
充血した目を睨む鋭さにして、ラフィーア妃はアラディーンを見上げた。
「後宮にいる女をわたくしの前に連れてくるのよ、アラディーン。わたくしを拒否したって無駄なことを教えてやるのだから」
怒りに任せた命令に、ラフィーア妃を見詰め返すアラディーンの目がわずかに見開かれる。
「後宮に女は多くいます。どなたをお連れし――」
「誰でもいいわ!」
強い声音で言葉を遮られ、アラディーンの瞳にひるんだ色が浮かぶ。以前と変わらぬ萎縮を覗かせたランプの魔人に、ラフィーア妃はまくし立てた。
「陛下に迷惑をかける上にわたくしを馬鹿にする女なんて皆同じだわ。誰だって構わない。どうせ全員殺してやるのだから」
一息に言ったラフィーア妃の瞳に、ふと冷静な輝きが戻った。そしてなにかを考えついた様子で、やや首を傾ける仕草をする。
「そうよ。全員アラディーンが連れてきてくれたらいいのよ。今まではいちいち呼びつけなくてはいけなかったから時間がかかってしまっていたけれど、そんな無駄な時間も必要なかったのだわ」
ラフィーア妃の声は癇癪の金切り声から一変し、自身の思いつきへの高揚に弾むものとなった。充血していた目も嬉々ときらめき、前のめり気味にアラディーンの黒衣の襟をつかんで顔を寄せる。
「アラディーン。わたくしからの願いよ。わたくしを馬鹿にして陛下をたぶらかす後宮の女を、誰にも見られないように毎日一人ずつ、わたくしの前に連れてきなさい。わたくしを軽んじる女が一人もいなくなるまで、ずっとよ」
ランプの魔人の目が見張られ、ラフィーア妃の赤い唇が弧を描いた。
「アラディーン、お願いね」
囁きと共に黒衣の襟がさらに引かれ、唇が重ねられる。それは、母鳥が飢えた雛に餌を与える様を思い起こさせるものだった――飢えた雛は、アラディーンだ。
唇が離れ、熱に蕩けた紅い眼の奥で光が揺れる。アラディーンは跪き、主人の手に口づけた。
「――願いを承りました。主人ラフィーア」
黒髪の青年魔人の姿が、金の煙に変わった。ラフィーア妃の指先を離れた煙は窓から露台へと漂い出て、黄金色の軌跡を残しながら風に逆らうように流れて消えた。