12 褒詞
第二妃の失踪は、瞬く間に宮殿全体を揺るがす騒動となった。君主の子種を得ての懐妊が明らかになった直後であっただけに、事態は様々な憶測を呼び、宮殿に暮らす者たちを疑心暗鬼にさせた。
真っ先に疑いの目を向けられたのは、当然のごとく正妃ラフィーアだった。第二妃が失踪直前に、正妃に呼ばれて部屋を訪れていたことはすぐに調べがつくことであったし、正妃の気性もよく知られていたからだ。君主のお渡りが絶えて久しい彼女が、第二妃の懐妊に嫉妬してなにかしたとしても不思議はないと、誰もが思っていた。
だが、正妃の身の回りからはなにも出なかった。第二妃に繋がるものは、直前に会っていたという証言の他には、髪の一筋さえ見つからなかった。部屋のものに一部、壊れていたりなくなったりしているものはあったが、彼女が怒りにまかせて手当たり次第にものを投げて破壊してしまうのは日常なので、それがこの度の事件に関わるとは誰も証明できない。
後宮の長として――もちろんほぼ肩書きだけのものだ――調査と捜索の結果報告を受けたラフィーア妃は、調査官が去ると、寝室へと駆け込んで真っ先にランプの魔人アラディーンの首へと抱きついた。相手に高さを合わせて長身を曲げたアラディーンは、これまで自身へ向けられることのなかったおこないに、当惑の表情を浮かべる。ラフィーア妃はアラディーンの戸惑いなど意に介さず、彼の首元へ頬をすり寄せた。
「よくやったわ、アラディーン! やっぱりあなたはわたくしの魔人ね。素晴らしいわ」
子供じみたはしゃぎ声をあげて、ラフィーア妃はアラディーンの喉仏と顎に口づけた。主人からの初めての褒詞に、アラディーンの砂色の頬がにわかに色づいた。
「――お褒めにあずかり光栄です」
主人と魔人とのやや過剰な交流を、ジャワードは数歩離れた寝台に腰かけて眺めていた。いつもならば自身がいるだろう場所にアラディーンが立っていることに、ジャワードがなにを思っているかまでは、バタルにも分からない。少なくとも、主人からの接吻に顔をほころばせるランプの魔人に対して、バタルの胸にもたげたのは背筋が寒くなるような不安だった。
アラディーンが慎重な手つきで抱き締め返すと、ラフィーア妃は背伸びをして彼の頬と耳元にも口づけた。
「見直したわ、アラディーン。わたくしが馬鹿だった――始めから、わたくしが殺していたらよかったのよね」
アラディーンの表情が、笑顔のまま強張った。白くなっていく青年魔人の頬をラフィーア妃は手の平で包み、彼の紅の瞳を覗き込んだ。
「これで、わたくしと陛下の仲を邪魔をする女はみんないなくなるわ。アラディーン、あなたのお陰よ」
「主人ラフィーア、それはどういう――」
唇をわななかせるアラディーンに、ラフィーア妃は笑いかけた。
「なにも難しく考えることなんてないわ。今回と同じようにしたらいいんだもの。わたくしもやり方を覚えたから大丈夫。それに、多少わたくしが失敗したって、あなたがなんとかできるでしょう?」
ラフィーア妃の声と笑顔に邪気はなかった。だからこそ、バタルは薄ら寒いものを感じた。見ていられないとばかりにジャワードが目を閉じ、寝具に倒れ込んで顔を背けた。塞がれた視界の向こうで、ラフィーア妃の明るい声が響く。
「陛下をたぶらかす性悪女は、わたくしが自分で殺すわ。陛下だって、わたくしのところに来られなくて迷惑しているはずだもの。お邪魔虫さえいなくなれば、陛下が他の女を気にする必要もなくなるわ。アラディーンは、わたくしがやったと分からないようにするのよ。邪魔な女がいなくなるまで、ずっとよ。わたくしの願い、聞いてくれるでしょう?」
沈黙が落ちた。ジャワードが目を閉じているので、ラフィーア妃とアラディーンがどんな表情で向き合っているのかは見えない。静寂の中で、淡く漂う乳香の香りだけが感覚器を刺激した。
長いの間の後、アラディーンがようやく声を発した。
「――承りました。主人ラフィーア」
ああ、と。バタルは叫びたくてたまらなかった。このような人の道をはずれたことを、許してはいけない。この場でラフィーア妃たちを止められるのはジャワードだけなのに、なぜ彼はそれをしないのか。
(……こんなの、あんまりだ)
バタルがどんなに声なき声で訴えかけようとしても、誰にも聞こえるはずがない。まるで動こうとしないジャワードの体にバタルは苛立ち、憤懣やる方ない思いで胸がつぶれそうだった。
(どうしておれにこんなものを見せるんだ、ジャワード。お前は一体、おれになにを伝えようとしてるんだ……?)
なにもできないもどかしさに身を焼くくらいなら、これ以上なにも見たくない。目を塞がれた闇の中でバタルがそう打ちひしがれていると、近くで硝子の割れる音が鼓膜を裂いた。唐突に、視界が戻ってくる。目を閉じる前とは少し違う景色がそこにありバタルはつかの間混乱したが、すぐにラフィーア妃の居室と分かった。
ジャワードは寝台ではなく、珍しくカウチに体を伸ばし、肘かけにゆったりと身を預けていた。彼が茫洋と見詰める先では、ラフィーア妃が室内で目についたものを手当たり次第に壁や床に投げつけて怒り狂っている。
「どうして新しい女が増えるのよ! わたくしに断りもなく! こんなにもわたくしが頑張って、やっと邪魔な性悪女を減らしたのに、振り出しなんてあんまりだわ!」
ラフィーア妃の癇癪は、ジャワードの追憶の中ではもはや日常風景であり、この程度ではバタルも動じなくなっていた。此度の怒りの原因はなんだろうかと、観察する余裕さえある。
(時間が、飛んでる?)
ラフィーア妃の言葉から察するに、彼女はすでに後宮の女を減らす動きをしている。視界が戻る前にはまだ彼女の策略が始まっていなかったことを考え合わせると、それからいくらか日にちは過ぎているように思われた。
わめき散らし、ものを投げ、地団駄を踏むラフィーア妃に寄り添い落ち着かせるのは、これまで通りであればジャワードの役目だ。だが彼は一向にカウチから立ち上がろうとしない。代わりに彼女の方へと歩み寄っていったのは、黒髪の青年魔人アラディーンだった。その足どりに、気後れはない。
アラディーンが手の届く距離まで近づくと、ラフィーア妃は持っていた宝石箱を床に放り出して黒衣に縋りついた。
「アラディーン、ひどいのよ! せっかく減らした悪女がまた増えただけではなくてね、その女、わたくしに挨拶もないのよ。後宮で暮らすつもりのくせに、主であるわたくしに顔も見せないなんて、なんて失礼なの! 陛下がわたくしと会うことを禁じたのだと宦官が言っていたけれど、そんなの嘘に決まっているわ。陛下がそんなこと言うはずないもの。しかも彼女、身分のない商家の娘だって話よ。美人と評判だからって調子にのって、恥知らずな女。そんなのを後宮に置いていたら陛下の不利益になるばかりだわ!」
一方的に新しい妃への不満と中傷をぶちまけるラフィーア妃に、バタルの中でまたしても不快感だけが積み重なっていく。
(恥知らずは一体どっちだ)
後宮には君主の妃たちと、彼女らの世話をする女中や宦官が多く暮らしている。おそらく第二妃のあとにも女性の失踪があり、空いた部屋に新たな妃が迎え入れられたのだ。
失踪が何件あったかまで彼らの会話からは不明だが、他の妃との面談を禁じられたということは、ラフィーア妃に嫌疑がかけられているのはほぼ確実だ。それでも今もこうして自由に振る舞えているのは、アラディーンが証拠を消して徹底的に守っているからに違いない。しかし彼女の稚拙な策謀では、魔人の力を持ってしても疑いの目まではそらせられずにいるのだろう。
アラディーンは長身で包み込むようにラフィーア妃を抱き寄せ、髪を撫でた。
「焦らなくても大丈夫です、主人ラフィーア。あなたには、わたしがいます」
ランプの魔人の声には、主人への慕わしさが色濃くにじんでいた。ラフィーア妃は感情を一気に吐き出したことで多少の落ち着きをとり戻したらしく、アラディーンの声に応えて彼の背中に腕を回した。
「そうね。そうだわ。他の女がどんなに卑怯なことをしたって、アラディーンがいるわたくしにかなうはずないわ」
ラフィーア妃は顔を上げ、長身を屈めているアラディーンの顎に口づける。アラディーンは深く顎を引き、ラフィーア妃の唇を自身の唇へと導いた。
(すっかり立ち位置が入れ替わったみたいだな)
むつみ合う二人をぼんやりと眺めるばかりで一声も発しないジャワードの様子に、バタルは思った。
アラディーンは、ラフィーア妃の策謀への幇助によって急速に株を上げたのだろう。ジャワードは実際なにもしていないのだから、さもありなんといったところか。ラフィーア妃への態度も、投げやりさのあったジャワードに対し、アラディーンはいかにも情熱的に見える。バタルでも分かる温度差なのだから、当事者たるラフィーア妃はより肌感を伴っていることだろう。
黒髪の青年魔人は、乞うような熱心さで主人の唇を求める。その熱量は魔人としての分を超えているようでもあり、同じ行為でもジャワードの時にはなかった危うさを覚えた。