10 奉仕
慌ただしい足音が部屋の外でしたかと思うと、居間の方から荒々しく扉を開閉する音が聞こえた。続けざまに、ものが倒れる音が居間と寝室とを区切る帳を震わせ、金属の叩きつけられる鋭い音までもが響き渡る。
突然の騒音にバタルは心底驚いたが、ジャワードは特に動揺を表わさず、むしろごく落ち着いた動作で絨毯から体を起こして立ち上がった。長衣の埃を軽く払ったところで、帳を跳ね上げて寝室に飛び込んできたのはこの部屋の主、ラフィーア妃だった。
「ジャワード! ジャワード!」
配下の魔人の姿が目に入った途端にラフィーア妃は叫び、体当たりする勢いでジャワードに抱きついた。
「ひどい! ひどいのよ! こんなことってないわ! どうしてわたくしばかり、こんな不幸に見舞われないとならないの!」
ラフィーア妃は、涙で化粧が流れてひどいありさまの顔をジャワードの胸に押しつけ、わっと声を張り上げてさらに大泣きを始めた。背中に回された腕で胴をぎゅうぎゅうと締め上げられ、息苦しいほどだ。盛りを過ぎた女とは思えぬ彼女の振る舞いに、ジャワードがうんざりとするのがバタルにも分かった。
ジャワードは相手に悟られぬよう小さくため息をついて、縋りついてくるラフィーア妃の肩に手を置いた。
「ラフィーア、それじゃあなにも分からない。なにがあったんだい」
君主の正妃は縋る腕はそのままに、ジャワードの碧眼を見上げた。流れた化粧で目の周りが真っ黒になった彼女の顔はとても見られたものではなかったが、本人は気づかぬ様子のまま、ただただ自身の不幸を訴えた。
「第二妃が身籠もったのよ! どうしてあの女が。正妃はわたくしなのに! あんな女がいるから、わたくしのところへ陛下のお渡りくださらないのよ。わたくしより歳下の癖に、わたくしを差し置くなんて許せない。あのあばずれ! 一体どんな手で陛下をそそのかしているのかしら。後宮の主はわたくしよ! そこに間借りしてるだけの女がわたくしを蔑ろにするなんて、絶対に許せない!」
ラフィーア妃は縋りつく腕を解き、ジャワードの胸を強く叩いた。
「あの女を殺して! お腹の子も一緒によ! わたくし以外の女が陛下の子供を産むなんて、ありえない!」
無自覚なまま醜態をさらし続けるラフィーア妃に、ジャワードの顔からはみるみる表情が消えいく。金髪の魔人は自身の頬の強張りを隠すように、主人を胸へ抱き込み、金の輪で飾られた耳元に唇を当てた。
「ラフィーアは、ぼくに消えて欲しいのかい」
ジャワードが切なく囁くと、泣きわめいていたラフィーア妃がぴたりと静かになった。息をのむ間があってから、ジャワードの背中へ女の手が回され、わめき声は媚びる甘さになった。
「嫌よ、ジャワード。消えるなんて言ってはだめ」
「でも、第二妃を殺して欲しいんだろう」
「第二妃は大嫌いだけど、ジャワードが消えるのも嫌」
ふっと、ジャワードはラフィーア妃の耳元に口をつけたまま笑った。
「わがままで困ったご主人様だな」
ラフィーア妃は片手をジャワードの頭に添えると、軽く顎を引いて互いの顔が見えるよう首の角度を変えさせた。
「ジャワードはわたくしのものなのだから、消えるなんて絶対にだめよ」
ラフィーア妃の言葉そのものは断固としていたが、声は鼻にかかる甘ったるさだった。
ジャワードは碧眼を細めただけで、返事はしなかった。代わりに、ラフィーア妃の眼差しに淡く覗く期待に応えるように顔を寄せる。唇が重なると同時に、君主の正妃の腕がジャワードの首に回された。
(自分を出しに願いをとり下げさせるなんて……こんな魔人がいていいのか?)
禁忌に触れる願いは魔人にとって文字通り死活問題なので、回避する手段は必要だろう。だとしても、女性をこれほど骨抜きにして手玉にとっているとなれば、たとえ魔法を使っておらずとも、十分に人心操作と言える気がしてならない。
自棄気味に接吻の感触を享受しながら、バタルはジャワードの行動に毒されそうな自分に辟易した。かく言うバタル自身も、ジャワードの手の平で転がされての今だろうことを否定しきれなかった。
唇を離したラフィーア妃の視線が、なにかに気をとられたようにジャワードからはずれた。そっと腕まで解くと、金髪の魔人の横をすり抜け歩き出す。彼女の向かう先を目で追えば、そこには楕円の鏡を備えた鏡台があった。無数の香水や髪油の瓶と並んでそこに鎮座する真鍮のランプへと、ラフィーア妃は手を伸ばす。彼女の行動になにかを察し、ジャワードの目が細まった。
両手でランプを持ち上げたラフィーアは、あろうことかそれを目の前の大理石の壁に思い切り投げつけた。瞬間、ランプから金の煙が噴き出す。現れた黒髪の魔人は、壁にぶつかる寸前でランプを自ら受け止めた。
「主人ラフィーア、なにを――」
「どうして勝手にランプに戻ってるのよ! このぼんくら!」
驚いているアラディーンに、ラフィーア妃は怒声を浴びせた。唐突に理不尽な叱責をぶつけられ、黒髪の魔人はわけも分からず目を白黒させている。ラフィーア妃は彼が抱えたままのランプをひったくるように奪うと、叩きつける乱暴さで再び鏡台に置いた。代わり、すぐ隣にあった香水瓶をつかみ、アラディーンへ投げつける。香水瓶は彼の額に打ち当たったが、それで魔人が傷つけられるはずもなく、ただ鋭く割れた硝子片が床に散らばった。むせかえりそうなほどの薔薇の香りが、室内に立ち込めた。
「わたくしの下僕なら、わたくしが戻った時に出迎えるのが当然でしょう」
「それは――」
「ジャワードはわたくしが言わなくても出迎えてくれるのに、あなたはどうしてできないの。ランプの中になんか勝手に戻るから、すぐに出てこられないのよ」
「…………」
ランプを奪われた手の形のまま、アラディーンは言葉を失って立ち尽くした。
魔人が依代とする魔法道具の中に入るのは、至極自然なことだ。それが、彼らがもっとも長く時間を過ごす居場所なのだから。彼らが魔法道具を自身の一部か分身のように考えているのも、傍で見ていればよく分かる。
給金で雇う女中や使用人と同じように魔人を考えるならば、ラフィーア妃の主張も間違いとは言い切れない。けれど彼らは似て非なるものだということが、バタルの実感としてあった。
魔人は主人の願いを三つ叶えるが、それ以外の奉仕については個々の価値観や判断に則って行動しているのは明らかだ。魔人たちの中で、主人に対しどのように振る舞い、尽くすかは、定まったものがないのだろう。その代わり彼らは、給金や衣食住といった見返りを求めないし、そもそも必要ともしていない。そんな彼らに、人間の使用人とまったく同じ奉仕を求めるのも違う気がした。
それでもバタルは、魔人たちに幾度となく助けられ、命を救われてきた。こちらが誠実に向き合えば、間違いなく彼らは、当たり前の人間以上の誠実さで応えてくれるのだ。
そこまで思ったところでバタルは、ラフィーア妃の周りに人間が極端に少ないことに気づいた。
君主の正妃ともなれば、身の回りの世話をする女中を大勢抱えてしかるべきだ。けれどバタルが観測できている限りでは、最低限の身支度の手伝いと部屋の掃除をする侍女が一人いる以外、誰かが出入りしている様子はなかった。
(もう、女中も寄りつかなくなっているのか……)
ラフィーア妃がいつ後宮の主たる正妃になったのかは分からないが、外見の年齢から察するに、ここ数年という話ではあるまい。世間を知らぬだけの乙女ならばいざ知らず、今に至るまで直情的で幼稚な妃に、女中たちも相手をしかねて職を辞したとしても不思議はない。世継ぎに恵まれぬまま君主の寵も失なったとなれば、野心ある者さえも彼女を相手にしなくなるだろう。
自ら招いた飼い殺しの憂き目に耐えかねたラフィーア妃が魔人を手に入れた結果、依存することになるのは当然のなりゆきなのかもしれない。
「ただでさえ役立たずなのだから、もっとジャワードを見習いなさい。香水は片づけておくのよ。あなたのせいで割れたのだから」
反論しないランプの魔人にラフィーア妃は一方的に言い放ち、それで彼がどんな表情をしたか見ないまま背中を向けた。
再び駆け寄ってきたラフィーア妃を、ジャワードは黙って抱きとめた。猫が甘えるように頬をすり寄せてくる妃の仕草は、とてもつい今し方まで激昂していたとは女とは思えなかった。
「アラディーンは来たばかりなんだから、あまり叱ってはかわいそうだ」
ジャワードがアラディーンをかばう言葉を口にしたことに、バタルはひどく驚いた。この場で彼が、他者への同情心をみせるとは思わなかったのだ。しかしラフィーア妃に、その意味が届きはしなかった。
「来たばかりだからよ。間違っていることはしっかり叱らないと、彼のためにならないでしょう。ジャワードったら、優しいのね」
猫撫で声でラフィーア妃は言い、またジャワードに口づけを求めた。
彼女は自身がなぜ孤立を深めているのか本当に分かっていないのだと、バタルはただただ苦々しく思った。分かっていないどころか、自分に悪いところがあると考え及びさえしていない。
契約で縛られた魔法たる魔人たちが、自らの意思で主人から離れることはない。それがいかに惨いことかを知り、バタルは目の前の事象に干渉できないもどかしさでわなないた。
(こんなの、ジャワードでなくても性格が歪む)
そしてこの夜、彼らの行く末を決定づけるできごとが起きた。