8 嫉妬
顎を上げたジャワードは、ため息と一緒に煙を吐き出した。甘い煙は青い闇に無数の筋を描いて白く漂い、もつれた糸がほぐれるように広がっていく。煙が夜気に溶けゆくのを見届けてから、ジャワードは視線を落とした。胡座をかいたジャワードの足に頭を乗せて、バタルが深く寝入っていた。
若者の胸がごくゆっくりと上下するのを眺めてから、彼の表情へと目線を移す。ターバンからこぼれて顔にかかっている髪を軽く払ってやれば、眉間に深く皺が寄っていて、ジャワードは破顔した。
「ジャワード様」
背後から呼びかけられて、ジャワードは驚くこともなく顔を振り向けた。
「悪いね。ご主人様を独り占めにして」
心にもなく冗談めかして言えば、指輪の娘魔人は面食らった顔を見せてから慌てたように首を横に振った。
「いいえ。そんなことは……気にしてないの、ですが……」
始めこそ力強かったものの、すぐ尻すぼみになっていったゼーナの否定に、ジャワードは噴き出しそうになるのを堪えた。夜営を離れてなかなか戻らないバタルに、痺れを切らして様子を見に来たに違いない。そこに、ただ主人を心配するだけに収まらない慕う感情まで窺えて、ほほ笑ましくもある。
魔人は嘘を言えない。ゼーナはジャワードに返事をするまで、自分がどういう気持ちでここまで来たのか分かっていなかったのだろう。それがますます、ジャワードの笑いを誘った。
ゼーナは落ち着きなく胸の前で指を何度も組み替えていたが、やがて意を決したようにジャワードと目線を合わせて傍まで歩み寄ってきた。
「契約を、なさったんですね」
魔人同士であれば、見れば分かることだ。けれどゼーナの声には、かすかな驚きが含まれていた。なぜ今さら、と彼女は問いたいのだろうが、ジャワードはあえて問いを返すことでそれを封じた。
「魔人だからね。なにか問題かい?」
「そういうわけでは……」
スライマンに作られた魔人とて、自我がある以上は嫉妬することもある。同じ主人を持つ魔人が相手であればなおさらだ。自分が誰かの一番でありたいと欲するのは、なにも人間だけが抱く感情ではないのだから。
この娘魔人は幸運にも、そういった独占欲とは縁なく来たのだろう。彼女が自身の感情のありさまに、戸惑っているのが端からでもよく分かる。指輪という、魔法道具の中でも特に人から人の手へと渡りやすいものに宿っているゆえかもしれない。バタルのように長く彼女を傍に置く主人も珍しいだろうことは、想像に難くなかった。
ゼーナはいくらか瞳をさまよわせたあとで、ジャワードの膝で眠るバタルへと目をやった。
「バタル様は、今なにを?」
ゼーナの声が、問い質す色を帯びた。バタルがただ眠っているわけではないことは分かっても、なにをしているかまでは外からは見えないのだから、多少の警戒は仕方ない。主人を積極的に害する魔人が存在しないとしても、やはり不安なのだろう。
ジャワードは視線を落として、バタルの日に焼けた頬にそっと触れた。
「一つ目の願いを叶えている最中さ」
わざと曖昧に答え、怪訝な眼差しでこちらを見下ろす指輪の魔人に笑みを向ける。
「心配なら、傍にいたらいい。今、彼が見ているのは、楽しいものではないだろうから。起きた時に君がいれば、きっと安心する」
ゼーナはまた少しこちらを窺う素振りを見せたが、欲求には勝てなかったらしく、バタルの真横まで移動して寄り添う位置に膝をついた。
「……バタル様」
囁く声で呼びかけながら、ゼーナは指輪のはまっているバタルの右手をそっと握った。それくらいで、今の彼が目覚めることはない。
「君はなぜ、バタルにこだわったんだい」
不意の問いかけに、ゼーナはバタルの手を握ったまま顔を上げた。ジャワードと間近に、鼻先を突き合わせる形になる。
「なぜ、と言われましても……ご主人様にこだわるのは、おかしなことでしょうか」
訝しげに首を傾けるゼーナに、ジャワードは聞き方が悪かったと顧みて言い直した。
「君は前に、バタルを探し続けていたと言っていただろう。でも、生まれ変わりが成功した時点で願いは完了していて、遂行中の願いもなかったはずだ。願いを三つ叶えないまま手放されるのは、そう珍しいことじゃない。君の指輪がバタルの手元から失われたということは、その間、彼に君の支配権はなかったってことだ。別の主人を持つことだってできた。それでも君が彼にこだわったのは、なぜだろうと思ってね」
そこまで言ってようやく問いの意味を理解した様子で、ゼーナは緑の目を瞬かせた。
「ご主人様の不注意で落とされたり、盗難されたりということでしたら、わたくしもすぐに次のご主人様を求めました。ですがバタル様の場合は、わたくしのせいでしたから……」
ゼーナは自分の主人へと視線を戻し、握った手にそっと力を込めた。
「バタル様をお守りできなかったのも、生まれ変わらせたのもわたくしです。わたくしが至らなかったばかりに離れ、見失ってしまった……だから、なんとしても戻らなくてはと、思ったんです」
「なるほど。その気持ちは分からないでもないな」
魔人が主人を慕う感情は抑えられない。それがどんなに理不尽で、人の道にはずれた主人であったとしても。慕わしさと厭わしさの共存は、もっとも魔人たちを苦しめていると言える問題だ。
バタルは人間としてごく平凡だが、我欲に走らず、魔人を自我のある存在として対等に扱い、長く傍にいることを許している。魔人にとって、これほど理想的な主人も珍しい。だからどの魔人たちも、彼に精一杯の心を注いでいるのだ。
指輪の魔人が再び顔を上げた。
「ジャワード様はなぜ、契約をしないままバタル様と一緒にいたのですか」
くすりと、ジャワードは笑った。ゼーナだけでなく、他の魔人たちもずっとそれを気にかけていたことを知っているからだ。
「ぼくは人間が嫌いなんだ」
ゼーナが目を丸く見開いた。魔人の本能に従順な彼女にとって、人間嫌いな魔人がいるなど思いもよらないのだ。そんなゼーナの反応も楽しみつつ、ジャワードは水煙草を一口吸って続けた。
「人間は嫌いだけど、本物の死を経験した人間が他の人間とどう違うのか、興味があったんだ。でも、主人を持つ気はなかったから、契約しないまま一緒にいた」
自明のこととして、ジャワードは言った。バタルの語った死はジャワードが思っていたよりもずっとあっさりしたものだったが、おおむね好奇心は満たされた。それだけでも、ここまでついてきた価値はある。
けれどゼーナはまだ腑に落ちない表情で、ジャワードを見詰めた。
「バタル様の生まれ変わりを知ったのは、わたくしと会った後のはずです。ジャワード様はそれ以前からバタル様と行動されているとお見受けしていたのですが、違ったのでしょうか」
ゼーナの指摘に、ジャワードは口元に水煙草を運びかけていた手を止めた。娘魔人のよどみない眼差しに、内心を見透かされている心地がする。
死への好奇心は、間違いなくバタルと共にいる理由の一端だ。嘘は言っていない。けれど彼へ興味を抱いた一番のきっかけは、ゼーナの言う通り別のところにあった。
ジャワードは長い沈黙のあと、地面に敷いた絨毯に空いている手を当て、表面をそっと撫でた。
「――バタルは、絨毯を褒めてくれたんだ」
若者と初めて言葉を交わした夜を、何度思い返したか分からない。
非の打ちどころのないジャワードの白皙の美貌は、どんな時にももて囃されてきた。彼自身も見目のよさを自覚し、生かし方も熟知していればこそ、戯れに女の――時には男の――主人を手玉にとることさえ楽しんでいたのだ。けれどその足もとにある古びて色褪せた絨毯に、〝魔人つき〟という以外の価値を見る者など、バタルより前にはいなかった。
ずっと怪訝そうだったゼーナの表情がふと和らいだ。彼女からほほ笑みかけられるとは思っておらず、今度はジャワードが訝しむ番だった。
「嬉しかったんですね。とても、よく分かります」
同じ魔人として、通じる経験がゼーナにもあるのだろう。けれどジャワードは、自身の感情を彼女と共有したいとは思えなかった。
「分かりはしないさ。君にはね」
共感を拒絶されたゼーナが驚きを顔に表し、ジャワードは口の片端で嘲笑した。
主人のいない魔人は一度魔法道具の中に入ると、新たな主人を得るまで外に出られない。だからジャワードは、前の主人の支配から放たれたあと、絨毯の中に戻らない選択をした。そうすれば、主人に依存しない生き方ができると思った。
所有者のいない魔法道具から魔人は離れられないので、絨毯を常に運ばねばならない煩わしさはあった。しかしその不便さを上回って余りあるほどの自由を、ジャワードは謳歌した――バタルと出会うまでは。
旅の間、バタルを主人と慕う他の魔人たちが、ジャワードは羨ましかった。魔人の言葉にも熱心に耳を傾け、分け隔てなく意見を交わすバタルの姿に、羨望は募るばかりだった。自分もこのような主人に恵まれていれば、もう少しましな性格になれたかもしれない。そう思うほどに、もう主人は持つまいという決意は揺らいだ。
新たな主人を得た瞬間の、意識が溶け出しそうなほど高ぶる陶酔感と恍惚を、忘れたことはなかった。水煙草の甘さでごまかし続けるのも限界だった。耐え難い渇望に抗うことを諦めたジャワードは、死への好奇心という大きな言いわけを自ら手放し、〝主人バタル〟を求めた。
ジャワードは絨毯に這わせていた手の平を、横たわるバタルの肩へと乗せた。深く眠る主人は、まだまだ目覚めそうにない。
(全部、君が悪いんだよ。バタル)
だから、少々の意地悪をしたくなるのは、仕方ない。