1 君主
ジャワードの顔の近さにバタルは仰け反り、胸を押して離れさせた。それに特に気を害した様子もなく、美貌の白人はあっさりと身を引いた。けれどその口角には相変わらず、どこか面白がっている笑みがある。
「そういえば、前にも言ってたな。英雄がどうとか。おれはただ、妹をとり戻して平穏に暮らしたいだけだ。そこに名誉はいらない」
「こういうのは結果そうなるものであって、望む望まざるはあまり関係ないさ。それに、そこに短剣の坊やがいるということは、君がとり戻したいという妹の所在はもう分かったんだろう」
ジャワードに言われ、そうだと思い、バタルは短剣の魔人ズラーラの方に体ごと向き直った。真っ先に聞くべきはずが、少年魔人の癇癪から始まる一連のできごとですっかり後回しになってしまっていた。けれど聞くのが遅れたのが、そればかりが理由ではない自覚がバタルにはあった――ズラーラが妹ファナンを連れていない。
嫌な予感を必死で振り払い、バタルは唇を震わせた。
「ズラーラ。ファナンは」
意地悪な白人を見まいとしてそっぽを向いていたズラーラが、バタルの声で振り向いた。わずかに顔を強張らせる主人を狼に似た目で見詰め返し、少年魔人は軽く唇を湿した。
「ご主人様の妹は無事だ」
ズラーラが断言した瞬間、バタルは反射的に距離を詰めていた。
「じゃあなんで、一緒に戻ってこなかった」
少年魔人の細い肩をつかみ、普段のバタルならば決して子供に対して使うことのない問い質す口調になった。見た目は小さくとも百戦錬磨の少年魔人はその程度でひるまず、毅然とした姿勢を崩さないまま答えて言った。
「場所が悪かった。おれには手が出せない」
「どこだそれは」
「虹海の東。マシュリカ国の宮殿だ」
思いもかけなかった答えに、バタルは意表を突かれた気がした。
砂漠の商隊に聞いた話によれば、食人鬼はマシュリカ国で増えて被害が広がっているという。ならば食人鬼たちの拠点がマシュリカ国にあり、ファナンが連れ去られた先になっているというのも十分にありえるだろう。
「マシュリカ国で保護されているのか」
食人鬼の蔓延る国であっても、人間の統治者である君主のおわす宮殿に保護されているならば、よほど命の危機はないだろうとバタルは胸を撫で下ろした。しかし、だとすると余計に、ズラーラがファナンを伴ってこない理由が分からない。
「主人バタル、違うんだ」
バタルの疑念を察したように、ズラーラがやや声を大きくした。
「ご主人様の妹がいるのは地下牢だ。保護されているわけじゃない」
「地下牢だって」
一度は開いた眉間を、バタルは再び険しくした。
「ファナンに一体なんの咎があって牢に入れられるっていうんだ。気は強いけど、真面目で、誰かを傷つけるような子でもない」
「ご主人様の妹に咎はない」
「なら、どうして」
即座に否定したズラーラに、バタルはさらに詰め寄った。少年魔人は狼狽えず、自分より体の大きな主人を見据える。
「主人バタル。マシュリカ国の新しい君主の噂を聞いたことはあるか」
急に問われて、バタルは怪訝に目をすがめた。確かにそのような話を以前に聞いていたはずだ。だがバタルがその記憶を辿る前に、鸚鵡のコッコが嘴を挟んだ。
「それならオレ様も知ってるぞ」
ウマイマの肩の上で高らかに言ったコッコだったが、次の声を発した時には右に左にと首を傾げて唸っていた。
「えーと、なんだったかな。アルジャン? アラフィム? あーあー……」
「アラディーンだ」
低めた声で言ったのはジャワードだった。途端にコッコは翼を広げ、威勢をとり戻した。
「そう、それだ! マシュリカとか言うところで一番偉い奴はアラディーンだ。前に島に来た人間が言ってたぞ」
自分の手柄とばかりにコッコは胸を張る。そんな彼の羽を、ウマイマが太い指で軽くつついた。
「よく覚えてたわねコッコちゃん」
「当然だ。オレ様は、一度聞いたことは絶対に忘れないほど賢いからな」
君主の名が思い出せなかったことは即座に忘れた様子で、コッコは羽毛を膨らませた。恥を知らない鸚鵡にバタルは呆れつつも、今は話を進めることを優先した。
「話に聞いたことはある。食人鬼が出ても放置していて、そのせいで魔王って呼ばれてるって」
これも、砂漠の商隊が言っていたことだ。その時に君主の名前までは聞いていなかったが、間違いない証にズラーラが頷いた。
「食人鬼は一頭の首領を中心に群れを作って、その中で階級社会を築く生きものだ。力ある首領ほど群れは大きくなり、さらに力を増していく。で、今マシュリカ国に巣くっている食人鬼の頭というのが、その魔王アラディーンだ」
「なんだって!」
バタルは驚かないではいられず、思わず聞き返した。
「なにかの間違いじゃないのか」
「間違いだったらこんなことにはなっていない」
すぐさま反論されて、バタルは口をつぐんだ。つまり、マシュリカ国の君主が魔王と呼ばれる要因となった、食人鬼を呼び込んでいるという噂も、根も葉もないものではなかったということだ。しかし、人の暮らしを守る立場であるはずの君主が、人の脅威となる怪物を率いるなど、バタルはとても信じられなかった。
そんなバタルの内心にはお構いなしに、ズラーラは自らの目で見てきたものを報告した。
「宮殿から城下まで、まとめて食人鬼の巣窟だ。今もどんどん数が増えてる。普通の人間はとても近づけないだろう。食人鬼がとらえた人間は全員、まず宮殿に集められてる。その中に、主人バタルの妹はいた」
バタルは船上で見た食人鬼の不気味な姿を思い出し、彼らが闊歩する都市を想像して身震いした。そんな場所でファナンがどんな目にあっているかと考えると、気が気でない。
「マシュリカの状況は分かった。でもファナンがいる場所まで突き止めたなら、どうして連れ出してこなかった。ズラーラなら、食人鬼くらい平気だろう」
無敵とも言えるほどの魔人の強さを、バタルはこれまで何度も見てきている。ズラーラが食人鬼相手に後れをとるとはとても思えなかった。
「食人鬼だけなら、主人バタルの言う通り敵じゃない。手が出せなかったのは、別の理由だ」
ズラーラは嫌なことを思い出したように、あどけない顔をわずかにしかめて言った。
「牢の扉は魔法で閉じられてた。外からも内からも、人間の手では開けられないようにする魔法だ。そしてそれは、おれにも触れられなかった」
「それは……」
思わずといったように声を発したのはゼーナだった。会話に割り込んでしまったことに焦った様子で口元を押さえた指輪の魔人に、バタルは顔を向けて先を促した。
「なにか気づいたなら言ってくれ。ゼーナの意見も大切だ」
「いえ、あの。意見ではないのですが……」
歯切れ悪く言ったゼーナは、やや迷う仕草をしてから、ズラーラを見た。
「……魔人の魔法、ですか」
恐る恐る発せられた言葉には、明確な確信もこもっていた。重々しく、ズラーラが頷いた。
「間違いない」
「どういうことだ」
話が見えずにバタルが問うと、鏡の魔人ウマイマが体の前で両手を合わせて答えた。
「基本的に、魔人は他の魔人の使う魔法に直接干渉できないのよ。ズラーラちゃんが手出しできなかったってことは、そういうことなんでしょう」
ウマイマが簡単に説明すると、ズラーラはそれを補足するように続けた。
「魔人の魔法の源泉はみんなスライマンの魔力だから、どうしても同じ性質を持つ。だから、まったく違う魔法同士でもぶつけると融合や同化を起こして、思わぬ暴走をする可能性がかなり高いんだ。おれたち自身もなにが起こるか分からないし、どれだけの被害が出るかも分からないから無闇に手が出せない。というのが正直のところ」
忌々しそうに、ズラーラは口をへの字に曲げた。
力が強大過ぎるゆえに思い通りにならないこともあるのだと、バタルは改めて知った気がした。ファナンを連れ帰れなかったことに、バタルが苛立ったのと同じくらい、ズラーラも歯がゆい思いをしているのだろう。そんな彼を責めてはいけないと、バタルはどうにか冷静な自分をたぐり寄せるようにして思考を巡らせた。
「マシュリカ国に、魔人がいるってことか?」
「おれの口からは言えない。禁に触れるから。でもあの国で今、食人鬼でもなく、牢にも入れられていない者は限られる」
ズラーラの仄めかす言い方に、バタルはもう一度考え込んだ。けれど長く思索せずとも、ここまでの会話ですでに答えは出ていた。
「まさか、マシュリカ国の君主が、魔人?」