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千夜一夜の転生英雄譚 ― 織物職人バタルと不死身の魔人 ―  作者: 入鹿なつ
第1幕 空飛ぶ絨毯と四十人の盗賊
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1 バタル

「バタル!」


 市場(スーク)を一歩出た途端に呼びかける者があり、バタルは驚いて振り向いた。人の往来でただでさえ埃っぽいジャヌブの町の通りを、さらに砂を蹴立ててこちらに走ってくる縦長い人物が見えた。


「ヤーセル!」


 見知った幼馴染みの姿に呼び返せば、ヤーセルは日焼けした面長い顔でへらりと笑う。ひょろ長い脚で駆けてきた彼は、その勢いを殺すことなくバタルの腕をつかんだ。


「行くぞ」

「は? どこに?」


 腕を引っ張られるまま併走する形になったバタルは、市場(スーク)で買った荷物を慌てて抱え直した。


「待ちやがれ、ヤーセル!」


 背後から雷のような濁声(だみごえ)が轟き、かしいだ体勢を立て直したバタルはぎょっとして顔を向けた。鍛え上げられた筋肉の(りゅう)とした大男が、黒い顔の中で白目ばかり目立つ眼光をぎらぎらさせて、人混みを掻き分け迫ってくる。そのあまりの迫力に肝が縮み上がり、バタルは泡を食って顔を正面に戻し、駆け足を早めた。


「一体なにをしたんだ!」


 バタルは怒鳴りつけるように言ったが、ヤーセルは緩んだターバンを押さえながらからりと笑った。


「説明はあとでするから、今は逃げるのが先」

「ふざけんな! 勝手におれを巻き込むんじゃねぇ」

「まあまあ。おれとお前の仲じゃないの。一人より二人の方が心強いだろう」

「いいことみたいに言うな!」


 むかっ腹を立てて言い返しながら、バタルは革帯に挟んだ短剣をどこかに引っかけぬよう角度を直して速度を上げた。どんなに無関係であろうとも一緒に逃げる形になった以上は、捕まれば仲間と見なされて、八つ裂きにされるのが目に見えている。


「こっちだ」


 バタルは駱駝(らくだ)の顎の下を潜って、細い路地へヤーセルを引っ張り込んだ。

 レンガと珊瑚石の壁が連なる路地は、若者二人がどうにか並べる幅だった。道を挟む建物の多くは二階部分がせり出していて、空までがぐっと狭くなる。そのような路地が草の根のように複雑に絡み合って無数の街区を形作っているので、慣れぬ者ならばあっという間に現在位置を見失ってしまうだろう。けれどその場所で生まれ育った若者たちにとっては、知り尽くした庭に過ぎなかった。


 追っ手の視野から逃れるため、入り組む路地を何度も折れ、通りを遮る樽の山を身軽に飛び越える。背後でわめく濁声が遠くなるにいたり、羚羊(かもしか)のように駆ける若者たちはどちらからともなく、ちらりと視線を交わし合って一軒の家屋に飛び込んだ。木戸のかけ金を素早くかけて通路を走り抜ければ、再び視界は開け、陽光の降り注ぐ中庭へと行き着く。

 水盤を据えた中庭を四角く囲むように居室と開口部が設けられた住居は、このアウジラール国ではごく一般的な構造だ。入り口から見て水盤を挟んだ中庭の奥には、簡易な日除けがかけられたむき出しの階段が直接二階へとつながり、さらにその先の梯子で屋上までのぼることができる。


 日が直に照りつける屋上まで一気に駆け上がったバタルとヤーセルは、今度は足音を潜めて手摺り壁に身を寄せ、壁の隙間からそっと通りを見下ろした。貴重な雨水を逃さないよう石で舗装された道には、近隣住民が一人二人と通過する以外に人の姿はなかった。遠くから壁に反響して聞こえていた怒鳴り声も、やがて聞こえなくなる。いつも通りの静けさが路地に訪れて、二人はようやく安堵の息を吐いた。


「いやー。焦った」


 手摺り壁にもたれかかって暢気にぼやいたヤーセルを、バタルは荷物を床に置いて座り込みながら()めつけた。


「自業自得だろう。焦ったで済むか」


 苛立ちを込めて言いながら、バタルは想定外の全力疾走で乱れてしまったターバンを解いた。汗ですっかり湿ったターバンをすぐに身につける気にはなれず、ぱたぱたと振って風に当てる。ヤーセルも同じ状態だったらしく、まねるようにターバンを解いて大きく振った。


「ちゃんと説明しろ。なにをしたんだよ、お前は」


 並んでターバンを乾かしながらバタルが問い質せば、ヤーセルは少しの深刻さもなく笑った。


「そんなに大したことじゃあないんだよ」

「嘘つけ」

「嘘じゃない」

「スライマンに誓えるか?」


 スライマンとは、かつて迫害を受け苦役を強いられていた民を導き、砂漠の地にて家と(かて)を与え、民のための国の礎を築いたという大魔法使いの名だ。数々の奇跡を起こしたといわれる彼の名は、今でも神殿の壁に刻まれている。永い時を経て砂漠を離れた民たちも、今なお各地でスライマンを称える言葉を紡ぎ続けていた。

 スライマンは正しい者の味方とされていて、自分にやましいことがない証しとして、「スライマンに誓う」と言うのは、砂漠の民の常套句だった。


 ヤーセルは大げさに天を仰いだ。


「ああ。大魔法使いスライマンに誓って、おれは悪くない。ただ、肉屋の娘と寝ただけだ」

「はあ? 正気か?」


 バタルは呆れ返って、灰色の目を見開いた。

 肉屋の娘は確かに、艶のある褐色肌とくっきりとした目鼻が美しい女性に違いなかった。この町の同世代の若者で、彼女の蠱惑的な腰つきにのぼせている男は少なくないだろう。しかし、その父親が非常によろしくない。買い物ついでに会話をする程度ならば、体が大きいだけの普通の親父なのだが、娘が関わると話は別だった。最愛の娘に悪い虫がついたと露見すれば、相手を店先に並ぶ鶏肉や羊肉と同じように肉切り包丁であっという間に解体してしまうことだろう。


 そもそもヤーセルの女性遍歴は、バタルの知る限りだけでも正直、眉をひそめるものばかりだ。それにしても、今回はあまりにも怖いもの知らずに思われた。


「据え膳を前にして食べないっていうのは、やっぱり失礼だろう」


 当然とばかりヤーセルは言うが、巻き込まれる側としてはたまったものではない。


「……ほんと最低だな、お前」

「それほどでも」

「褒めてねぇよ」


 長いつき合いで相手の性格はよく分かっている。諦めの境地で、バタルは深々とため息をついた。

 真昼の熱い風と強烈な日差しは、汗を吸ったターバンを瞬く間に乾かした。すっかり湿り気の飛んだターバンを巻き直し、バタルは荷物を拾って立ち上がった。


 バタルたちの住むアウジラール国ジャヌブの町は、北を砂漠、南を海に面していた。昼は海風が潮の香りを運び、夜になれば砂漠の乾いた風が町中によどむ潮の気配を残らず洗い流す。日中の気温は体温を越えるのが常で、家ごとに設けられている中庭の吹き抜けは屋内にくまなく風の流れを生み快適に暮らすための知恵だった。


 中庭を見下ろせる屋上は、干しレンガを目の高さまで積み上げた手摺り壁で囲われていた。これは隣家からの視線を遮るためのもので、多少の材質の差はあれどほとんどの住居で設けられている。ただ一つこの場所で他と違うのは、四面ある壁の内の一面に、絵が描かれていることだった。

 屋上を移動したバタルは、壁全体を埋めるように描かれた絵の前に座り込み、逃走中も必死で抱えてきた荷物を広げた。彼が市場(スーク)で買い求めたのは、小さな瓶に詰められた何色もの粉絵の具だった。絵の前にはすでに、質素な陶皿が褪せた絵の具をこびりつかせていくつも並んでいる。バタルは一緒に置いてある細口の水差しと絵筆をとると、買ってきたばかりの粉絵の具を皿に出して水で溶いた。


 乾いたターバンを巻き直したヤーセルも絵の前へとやってくると、作業を始めるバタルの隣に腰をおろした。


「かなり進んでるな。そろそろ完成か?」

「うーん、どうかな」


 バタルが上の空で返事をしながら、深く前屈みになろうとすると、革帯の腹側に挟んでいた短剣がつっかえた。筆を持つのとは反対の手で短剣を革帯から引き抜き、一旦脇へと置く。

 先端が大きく曲がった鞘に収められた短剣は、この国の男性ならば成人と共に身につけるようになるものだ。バタルの短剣も、成人祝いに父から贈られたものだった。中古品ではあったが、緻密な銀装飾のされた鞘と柄に、小粒ながら鮮やかな紅柘榴石(ガーネット)が輝いており、きっと父なりに奮発をしてくれたのだろうことが窺える。

 身軽になったところで、バタルは改めて体勢を作り、絵筆を壁に当てた。


 壁には、建物がひしめく街が描かれていた。しかし、天を突く高さのある無数の高層建築が銀にきらめくその景色は、今二人がいるこの町のものではない。

 ジャヌブの町にも、高い建物は珍しくない。砂漠と海に挟まれたこの町では住める土地が限られているので、財ある者や大家族は上へ上へと家を拡張し、中には十階層にまで達するものもある。町の中心たる神殿の尖塔(ミナレット)ともなれば、そんな多層の家々を遙かにしのぐ高さがあるのだ。だが、それらがどれも石やレンガを積み上げて作られている以上、銀に輝くことはない。さらには絵の中にそびえている高層建築は、神殿の尖塔(ミナレット)などよりもずっと天に近いところまで伸び上がっていることが、正面から見ればよく分かった。


「これがバタルの夢の街かぁ」


 バタルが何年もかけてこれを描き進めているのを知っているヤーセルは、感慨深そうに呟いた。


「別に夢っていうんじゃないけど……まあ、そういうことでいいさ」


 ヤーセルの理解の範疇を超えてしまっているのだろうと思い、バタルは改めて説明するのをあえてやめた。自身とて、完全に理解が追いついているわけではないのだ。


 織物職人の長男として生まれたバタルは、成人を過ぎた今の歳まで、近隣の町に買い物に出る以外ほとんどこの町から出たことがない。けれどもどういうわけか彼は、今描いている街の景色を、鮮明な記憶として持っていた。夢で見た、などという不確かなものではない。自分は確かに、絵の中のこの街に暮らし、死んだ。

 バタルには、今ここにいるバタルとは違う、もう一人の人生の記憶があった。

お読みいただきありがとうございます。

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ぜひ引き続きお楽しみ下さいませ!

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