第三話
細く長く聞こえる鳥の声はフクロウのようだった。春といっても日がすっかり落ちてしまうと肌寒い。細い月が西から上り、夜に覆われたテオバルドゥスは、ただでさえ静かだった昼間に輪をかけて静まり返っていた。
俺たちは、村へと続く谷にいた。正確には谷の大きな岩場の影だ。ぬるい風がゆっくりと吹き抜ける。もう二時間も、ここに座り込んで息を殺しているので、尻が痺れていた。
「……パシフィの話だと、そろそろのはずなんだけど」
俺は小声でアルマドに話しかけた。アルマドは影そのもののように隣にいて、視線を谷の道に投げかけている。
「……来たぞ」
土を踏む音がして、村の方から小さな灯りが揺れながらこちらに向かってくるのが見えた。村長とその弟が手に松明を持ち、その後に白装束をまとったパシフィの姉が続く。染み一つない白いドレスは、村の女たちが生贄に贈る最後の餞だという。これではまるで、花嫁行列だ。
村長の顔は松明が作る陰影が刻まれた皺がより深くし、百年も生きた老人のようだった。引き結ばれた唇は罅割れ、乾いている。
目の前を行き過ぎた花嫁行列の足音が止まった。
「約束の贄だ」
掠れて力を失いかけている声が言った。
魔物はもう来ているのか。
「……ご苦労」
喉に引っかけたようながらがらの声で、何かが応えた。
「それを置いて、疾く失せよ……」
村長がパシフィの姉に別れの言葉をかけたようだが、小さくて聞き取れなかった。その代わり、彼女のか細いすすり泣きが空気を揺らした。村長とその弟が村へと引き返していく。松明の揺れる炎が闇の向こうに紛れて消えてしまったあと、再び谷には吹き抜ける風の音とすすり泣きの声だけが残った。
「……魔物ではない」
アルマドが低く唸るように呟いた。その言葉の真意を測りかねているうちに、土を踏む音がした。アルマドはつと立ち上がって岩陰から出て行ってしまう。それを追いかけようかと迷っていると、「なんだ⁉」と慌てたような声がした。俺もまた岩陰から飛び出し、夜の中に現れた魔物の正体を目の当たりにする。
人間だった。男の二人組だ。
「え……?」
パシフィの姉は困惑し、立ちすくんでいる。
「妙だと思ったのだ。魔物という割に、ずいぶんと気配が卑小ゆえ……まあ、正体がただの人ならば当然よな」
「……こいつ、誰だ。話と違う」
「冒険者がいるなんて聞いてねえぞ」
松明を手にした男たちは、いかにも柄が悪そうな出で立ちをしている。魔物ではなく、ただの盗賊が魔物を騙っていたのだろうか。そうなると、目的が全く分からない。なぜ生贄なんて求めたんだ。
「ちくしょう、裏切りやがったな! オシアンのやつ……!」
「まあ、魔物でなくてよかった。もしそうであればそのような恥知らず、五体を引き裂いてやらねば気が済まないが……」
男の片割れが叫んだ名前になんとなく聞き覚えがあった。アルマドは男たちが喚く内容には欠片も興味がないのか、何やら物騒なことを言っている。それが男たちの神経を逆撫でしているに違いない。
「クニハル殿。パシフィ殿の姉御はお任せして良いな?」
「う、うん……。殺さないでね」
これまでの経験を踏まえて、一応アルマドにそう言った。俺はパシフィの姉の腕を引き、後ろに匿う。ある程度距離を取れば、前にアルマドがいる以上危険が及ぶことはない。心配なのはむしろ、彼らの方だ。
「殺すぅ? なめるなよ‼」
案の定、俺の言葉が気に障ったらしい一人が腰からナイフを抜いてアルマドに飛び掛かった。
アルマドはただ、右手で空を払っただけだった。まるで、虫を追い払うように。
男の身体は空中で回転し、どさりと地面に落ちた。
「殺しはせぬ……が、今の私は機嫌が悪い故、腕の一本二本は諦めよ」
もうひとりは、地面に倒れ伏している仲間を見て、その顔を恐怖に引きつらせた。それでも意地なのか、ただ錯乱したのかこの男の腰のナイフを抜いた。結果は、言わずもがなだ。
「生贄が帰ってきた!」
村は大騒ぎになった。死に装束を着せて送り出したパシフィの姉が、五体満足で村に舞い戻ったのだから無理もないことだ。村人たちは荷馬車を襲われ、助けを求めに行った住民を殺されている。まだ魔物の存在を信じているのだ。
俺たち――主にアルマド――が引きずってきた男ふたりを放り出すと、はじめ状況の飲み込めていなかった村人たちは、その正体を悟って混乱し、憤慨した。どの家も明かりを灯し、外に出てきたが、村長が「沈まれ!」と声を張ると、村に張りつめた静寂が訪れた。
「旅の方。突然のことで、わしらはとても状況を理解できておりませぬ。ぜひ、わしの家で詳しい話をお聞かせくださいませんか」
谷で聞いたときとは比べ物にならない、芯のある声で彼は言った。そこには疲れ果てた老人ではなく、ひとりの村長がいた。
彼の申し出を受け、俺たちは男ふたりと引きずり、パシフィの姉を伴って彼の家へ向かった。
「この男たちが、魔物を騙って生贄を要求していたと……?」
谷でのことを説明すると、村長は信じられないといった表情で、床の上に縛られて転がっている満身創痍の男たちを見た。
「一体何のために……?」
「これであろう」
アルマドがひとつの石をテーブルの上に転がした。それはただの石というにはあまりにもうつくしく光を照り返した。
銀だ。アルマドが帰り際に拾ったものだった。
「こんなもの、どこで……⁉」
触れることも躊躇われるらしく、村長は石の周囲の空気を撫でた。
「あの谷だ。月の光に反射して、目に留まったのだ」
銀はこの世界でもかなりの価値がある。宝飾品に使われるのはもちろんだが、より良い武器を作るためにも用いられる希少な金属だ。こんなものが転がっているということは、つまりそこが銀の鉱脈である可能性を示す。
「銀鉱脈ともなれば、それが与える恩恵は計り知れぬ。しかし、あそこはこの村の土地だ。村の土地ともなればその権利は、村長殿、あなたのものとなる」
「それが、どうしてこんな」
「……鉱脈に気づいた人は、それだと都合が悪かったのかも。莫大な資産を手に入れられる場所なんだから、それを独り占めしたかったんじゃないでしょうか……。それには、この村の人たちに、ここを出て行ってもらう必要があった」
それにしたってまだるっこしい方法だが、この村からは町に行商に行く荷馬車が定期的に出ている。それは街のエンリクス商会に正式に登録しているものゆえ、便が途絶えれば必ず村で何かあったと気づかれてしまう。
「一度、二度の欠便であれば、商会に連絡してしまえば問題はあるまい。魔物側からもそういった指示があったのではないか?」
村長は目を大きく見開き、頷いた。
「確かに、ありました……」
「村が何かに襲われたような痕跡があれば、外からやってきた人間は怪しんで必ず調査をするし、谷の銀に気づく可能性も高いですし」
「荷馬車を途絶えさせず、外側からは何も起こっていないかのように見せかける……しかし、村には確実に損害を与える方法ということで生贄を思いついたのだろう」
アルマドが鼻を鳴らして背もたれに身体を預けた。
「生贄としてより自然に見えるように女と差し出させる対象を限定し、それでもひとりずつ、かなり短い周期で村人を減らせば、村は立ち行かなくなる。魔物がここを離れるつもりがないのであれば、場所を変える他はない。そうなれば、ここは奴らのものだ」
「あの、分からないのですが、どうして奴らに助けを求めにいったことがばれたのでしょう。いつもの荷馬車に紛れ込ませたのに。あれで、三人も……」
村長の顔は悲痛に歪んだ。
「内通者がいたのだろう」
アルマドの声は、部屋に困惑の種を蒔き、静まり返らせた。
「オシアン!」
アルマドが鋭くその名を呼ぶと、壁際に立って成り行きを見守っていた老人の肩が大きく跳ねた。
「そうか、お前がオシアンか」
村長は自身の弟を振り返った。
すべてを察した村長は、口元を押さえて震えていた。村を守るために、苦渋の決断をしてきた彼は、村でともに育った弟に裏切られていたのだ。
「この賊どもがその名を口走ったのだ。……助けを求めに行くことを決めたときこの者もその場にいたのではないか」
村長は何も答えなかったが、それが答えだった。
「魔獣がいないことを誰にも知られぬよう、姿を見たものはすべて始末して……ご苦労なことだ。まあ、貴様の企みは姉を想う弟によって打ち砕かれたわけだが」
パシフィは誰にも言わずに荷馬車に潜り込んで街へ行った。それゆえに、この弟が知られることも、賊ふたりに気づかれることもなく済んだのだ。
「何故……何故だ、オシアン! これまで何十年もともに村を守ってきたのに、何故こんな……!」
村長の弟は、唇を歪め、笑みを作った。不愉快な笑みだ。
「こんな村、守って何になるんだ。どうせ、村はお前の息子のものになる。俺には何一つ残らんのだ。あんな莫大な金になる谷も、お前とお前の息子のものになる! 汗水たらして働いて俺が得るのはお前らの残りカスだ!」
荷馬車を途絶えさせて調査に来た人間が銀の存在に気づいてしまったとき、それを手に入れるには村の正当な代表者でなければならない。村を滅ぼすなり、全員追い出すなりして一人だけ残っても怪しまれるだけだ。
「もうよい、黙れ。――虫唾が走る」
空気が張りつめた。肌にまとわりつくそれは、アルマドの殺意だ。それを真正面からブチ当てられた老人は、後ずさって壁にぶつかり、そのままずるずると座り込んだ。
薄く開いた木戸から、白み始めた空が見えた。東から昇った太陽が世界を照らし、夜明けを告げる。夜は徐々にその姿を消し、世界が目覚める。
今、テオバルドゥスの怪物が、死んだ。