第一話
トーゴさんたちの暮らす村を出てから五日。
俺たちは、鹿を追っていた。
「アルマドー! そっち行った!」
「どっちだクニハル殿!」
「そっちそっちそっち!」
指を差した方角に鹿の後ろ姿が跳ねる。周りは森で、木漏れ日が柔らかく少しばかり湿った地面を照らしている。枝がいたるところに伸びて視界を遮る上に、相手の鹿はこの地を知り尽くしている。つまり分が悪い。
「こんどはあっち!」
蹄の音のする方を指すが、アルマドがそちらを向いたときにはすでに鹿はいない。
「まあどこへ逃げようが同じよな」
アルマドが右腕を掲げる。ざわりと影が揺らめいて、次の瞬間には森の地面から伸びた槍で足元も、そこから伸びる樹木も穴だらけになってしまった。短い悲鳴が聞こえ、槍が崩れて黒い靄となって霧散すると、一頭の鹿がどさりと倒れた。槍のひとつが首を貫いたようだ。
「もーっ! 穴だらけになったら引き渡せないじゃん!」
「む……す、すまん。しかし、クニハル殿、幸い首だけだ」
アルマドが鹿の亡骸をひょいと抱え上げて戻ってくる。
鹿は薄緑色の毛皮をしており、よくよく見ると毛束のひとつひとつに苔が生えている。苔鹿といって、このあたりの森にはよくいる獣だそうだ。うつくしく輝く枝分かれした角は装飾品としてそのまま飾る人もいるし、加工して道具の柄に使うこともあるという。
ディアンドラを西へ進み、エーデルガの町を越えたエンリクスという街に俺たちはやってきていた。そこでまず俺たちは冒険者ギルドへ行った。冒険者ギルドはその名の通り、冒険者たちへの依頼を取りまとめ、所属する冒険者と依頼人との仲介をする。
俺とアルマドは、アルマドの奪われた魂の半分を探す旅に出た。魂の半分は、今もアルマドの名を騙って悪さをしているかもしれない人物の元にある可能性が高い。そのため、俺たちはまず散り散りになったという魔族たちを探して情報を集めることにした。そして、それには魔族や魔獣の情報が最も手に入りやすい場所――冒険者ギルドに登録する必要があったのだ。
エンリクスのギルドは、エーデルガのものとは規模がまったく違っていた。大きい街だけあって人の出入りも激しい上にエーデルガには無かったような危険な依頼も山ほどあった。
登録自体は特に問題なく済んだ。
「こちらの依頼は、アルマド様方の評価点数が足りないので、受注不可です」
そう、この世界のギルドで依頼を受けるには、相応の評価点数を集めねばならないのだ。俺がこれまでに読んできたネット小説などではランク付けなどのシステムがあったが、この世界では依頼をこなして得ることができる点数によって、受けられる依頼が左右される。
冒険者ギルドに登録することでもらえるギルド会員証があれば、宿屋に割安で止まれたり、ギルドと提携している店の食事代が安く済んだり、通行料や街へ入る際の税金が免除されたりといった恩恵があるが、その代わり、任意で受ける依頼だけではなく、ギルドから半ば強制的に回されてくる依頼をこなさなければならなかった。
そのため、エンリクス北のウィクトル山に出没するという魔物の盗伐依頼ではなく、苔鹿五頭の角と毛皮の納品依頼のために駆けずり回ることになった。苔鹿は足が速く、また警戒心が強いらしいが、アルマドの探知能力がとんでもなかったので、三時間ほどで五頭すべてを捕まえることができた。
ギルドに掲示されている依頼内容を読んで、正式に受注せずに向かうことももちろんできるのだが、もし正式に依頼された冒険者たちとかち合ってしまうといろいろとまずい。依頼されていない任務に手を出した場合は、ギルドとの契約に違反する。最悪、除名処分になり、いわゆるブラックリストに名前が載って、情報のひとつも流してもらえなくなる可能性もある。
さすがにそれは避けねばならないということで、アルマドと俺の意見は一致した。なので文句も言わず、ふたりで鹿を追いかけまわしたのだ。捕まえたのは五頭ともアルマドだったが。
「あー……腹減った……」
ギルドに登録してよかったと思うことのひとつに、報酬がある。この世界で俺は無一文だし、アルマドもそうだ。なので、大した依頼でなくとも多少は入る収入はありがたかった。野宿も慣れたし、アルマドが狩りに出れば山のような獣を抱えて帰ってくる。寝る場所も食事も問題はないが、ちょっとした日用品や地図を強盗するわけにもいかない。
「そろそろ昼餉にするか?」
「そうだね」
五頭分の角と毛皮を革ひもでまとめ、火の準備をする。燃え移りそうな枯葉を避けてつくったスペースに木の枝を積み重ね、そこに乾ききった枯葉を乗せる。アルマドがすっと指先を向ければ魔法で着火してくれる。便利なものだ。
アルマドが解体した肉を街で護身用に購入した――アルマドにはいらないだろうと言われた――ナイフで分厚く切って、同じく街で買ったフライパンに乗せ、焼く。村を出るときに村長夫人がくれた粗塩とハーブを混ぜて砕いた香辛料を振り、しばし待つ。
「この依頼が十点だから、あの依頼が受けられるようになるにはあと百十五点か」
「そう落ち込むなクニハル殿。私がいるのだ。明日にでも点をすべて集めてみせよう」
火力調整用に枝を拾ってきたアルマドが隣に腰を下ろした。
「アルマドならほんとにできそうだな」
「できるとも」
肉の焼けるじゅうじゅうという音が食欲を掻き立てる。ナイフですっと切れ目を入れると、中はきれいなミディアムレアになっていた。食べごろだ。
ナイフで刺してそのまま口へ入れる。フォークやナイフといった食器も買いたかったが、フライパンとナイフ、そして地図で手持ちが尽きたので、それは次の機会になった。これはこれでいかにもキャンプといったかんじで悪くはない。舌を切らないように気を付ける必要はあるが。
ほのかな獣臭に、赤身の歯ごたえのある肉は、噛めば噛むほどおいしい。脂っこすぎず、ハーブの香りが鼻に抜ける。
「うま……」
思わず口を押えると、アルマドが笑い声を零した。
「婿殿は本当にうまそうに食すな」
「アルマドも食べなよ。ここなら他の人いないしさ。兜取っても大丈夫だよ」
かつて、ディアンドラの北の果てから果てを統べていたという魔王――それがアルマドの正体だ。アルマドの鎧の中には、すべての光を吸収してしまう暗闇が蠢いている。今も魔族と人が対立しているこの世界で、その正体を明かしてしまうことの危険は計り知れない。街の店で俺ばかりが食事をしているときも、アルマドは兜を被ったまま、飯を食う俺をただ眺めていただけだった。
「よい。クニハル殿が食せ」
「いやでもさ……かなり申し訳なくて……」
「……実をいうとな、我らは燃費が悪いのだ。空腹を感じもしないが、身体の修復に尋常でない食物を必要とする。性格には物質に微量なりとも含まれる魔力が必要なのだが……人間の食物から摂取するとなると荷馬車ごと食らうことになる」
「荷馬車ごと⁉」
「うむ。その点、人間の身体は食物から余すことなく命を吸収できる。幸い、私とおまえの魂はいまひとつとして繋がっている。お前が食し、吸収した命は魂を介して私にも巡るのだ」
ということは、俺が食べたほうが安く上がるのか。それにしたって、俺もずいぶんな大食らいになってしまったけれど。
「味を感じられない私と違い、お前はひとくちひとくちを本当に幸福そうに食す。私はそれを眺めると、不思議と満たされるのだ」
そう言うアルマドの声は本当に穏やかで、俺は不意に、ばあちゃんと飯を食ったときのことを思い出した。ばあちゃんは食が細くて、自分の分のおかずをよく俺にくれた。クニハルちゃんは本当においしそうに食べるわね、と目じりを下げたそのときの声のやさしさが、アルマドの声に滲んでいる。
「そ……っか。じゃあ、いっぱい食べないとな。アルマドがしっかり動けるようにさ」
「ふふ。我が婿殿は頼もしい」
結局、アルマドが解体してくれた肉はすべて俺の腹に収まってしまい、俺たちは苔鹿の皮と角だけをギルドに持ち帰ったのだった。