第三話
「まあ、ご夫婦……?」
この空気を知っている。中学とか高校の新学期に調子に乗った自己紹介をしたときの空気だった。目の前の老婦人は、自らの失言にそっと口元を抑え、その夫であり村の長でもある老人が妻を窘めるように視線を向ける。
「我が郷里では、さほど珍しいことでもない。妻が狩りに出もするし、夫が子を守り家を守りもする」
アルマドはなんてことはないと言い放ち、先ほどから手つかずの料理を前に甲冑に包まれた指先で木製の食器の淵をなぞっている。
俺たちはトーゴさんとフィオの荷馬車に揺られ、彼らの住む村に招かれていた。ふたりが山向こうから買い付けてくる果物や香草はこの小さな村の娯楽のひとつらしく、数人の村人が野良仕事の手を止めて迎えに出てきていた。その中に、この村長夫妻もいたのだ。
俺たちが、正確にはアルマドがドアテラと呼ばれる凶悪な盗賊団から自分たちを助けた旨をトーゴさんが村長に伝えると、彼らは何度も頭を下げてぜひ家にと招いてくれた。薬師でもあった村長夫人に傷を見てもらい、新しい服までいただいて、こうして夕食をご馳走さえしてもらっている。
「無礼をお許し願いたい、我が郷里の掟で夫の前以外ではこの鎧を脱ぐことができぬのだ」
夕食の卓につく際、アルマドは兜を取るそぶりひとつせずそう断った。村長夫妻はたじろいだが、それでも恩人であるからと快く受け入れてくれた。
食卓には温かいスープと、表面を軽く焼いたパンに、肉のローストが並び、木製のコップには葡萄酒がなみなみと注がれている。
俺は手当てをしてもらっている最中から猛烈な空腹を覚えていて、慣れない食事の祈りを待つ間も、腹の虫が鳴きださないかどうかひやひやしていた。
「東より来る父なる神よ、今日の糧を感謝いたします」
夫婦はこの村の生まれなのだろうか。もうずいぶんと身になじんだであろう祈りの言葉は、朝の挨拶のように滑らかに美しく発音された。俺は見様見真似で手を握ったが、手のひらは汗ばんでひどく滑った。もう何年も、「いただきます」を口にしてこなかったからだろうか。
食事はどれも美味しかった。スープはとろとろになるまで煮込まれた野菜がいっぱいで、刻んだ干し肉の塩気が食欲をさらに刺激する。パンは歯ごたえがあり、噛めば噛むほど穀物の甘さが舌に染みた。荒く砕いた木の実の触感も楽しい。肉は塩とハーブだけの味付けなのに、それが肉そのものの味を引き立てているし、肉自体が赤身でくどくない。気が付けば俺の器はすっかり空になってしまって、顔をほころばせた村長夫人がお代わりを注いでくれた。
「いやはや、この辺りも物騒になりましたな」
溜息とともに村長は呟き、コップの中の酒を煽った。
「西の方ではまた魔物騒ぎがあったそうで。コルタス辺境伯が兵を派遣されたとか」
魔物。
二杯目のスープを堪能していた舌が突然機能を失ってしまったのかと思った。そうか、この世界には魔物もいるのか。思えば、アルマドの使った技も魔法としか思えないし、そりゃあ魔物と呼ばれるものがいるのも納得できる。
「もう百年以上も前はこのあたりは大きな街でしたが、魔物たちに攻め込まれて、落ち着いたときにはほとんど何も残っていませんでね。それでも故郷でやり直そうと家を建てて住み着いたのが、わしの爺様なんです。少しずつ人が増えて、今では小さいながらも穏やかでいい村になりました」
すでに少しばかり赤い頬をした村長が破顔した。俺は頷きながらスプーンを動かす。アルマドは未だに皿の淵をなぞり続けている。
「アルマド様は郷里で騎士をされていたのですか?」
村長の瞳には少年のような輝きが宿っていた。話を振られた当の本人は曖昧に「そのようなものだ」と答えた。
「そうなのですね! わしは流れの騎士様を何度か拙宅にお迎えしたことがありますが、いやはや……。ここ数十年はめっきりお見掛けしませんで、つい興奮してしまいました。いや失礼……魔物の盗伐や戦のために領主様方が騎士を抱え込むようになりましたからな」
俺は話が分かっている風を装ってとりあえず頷いておいた。ひとくち葡萄酒を呑んでみると、思った以上に甘く、やさしい味で驚く。スープはいつの間にか空になっていた。
「旅をされているということは、もしやコルタス辺境伯のところへ行かれるのですか?」
答える前に村長夫人が言った。
「トーゴさんからは探し物をされていると伺いましたよ」
「まあ、そのようなものだ」
またその言い回しだ。
思わずその兜を被った頭を見やると、視線に気づいたのか、アルマドが自分の器を寄こした。ありがたくもらうことにする。
「トーゴは冒険者かと思ったと言いましたが、騎士が冒険者になるのは聞いたことがありませんで。それで、騎士と従者の方かと早とちりを致しました。まさかご夫婦だったとは。無礼をお許しくださいませ」
すっかり頭の上まで赤くなった村長に、夫人はまったく仕方がないという顔でとうとうコップを取り上げた。
「気にしてはいない。よく言われる」
そう答えたアルマドの声は、心なしか柔らかかった。
「村長様ァ!」
勢いよくドアが開き、肩で息をした男が駆け込んできた。トーゴさんの出迎えにいた農夫のひとりだ。
「な、なんだ、お客様の前で」
「大変です、村のはずれに、熊が……!」
「熊だと……⁉ 熊除けの香を焚いていなかったのか⁉」
「焚いとりましたが、柵を破って入ってきよったんです! 見張りをしていたダイィがぶん殴られて……!」
熊。俺は口の中に残った食べ物を飲み下し、隣のアルマドを見た。村長も、夫人も、男もアルマドを見ていた。
「村長殿。女子供をすべて家に避難させよ。かがり火を頼む」
アルマドは静かに立ち上がる。
「婿殿はそこにおれ。決して出てくるなよ」
そのまま、アルマドは甲冑の音を鳴らして、村長と男とともに出ていった。室内に、俺と夫人が残された。
外からは逃げ惑う村人たちの悲鳴や足音がひっきりなしに響いてくる。
「前にもこんなことが……?」
俺は沈黙に耐えかねて、夫人に尋ねた。彼女は青くなった顔を上げて、首を横に振る。
「熊は賢くて臆病なので、香を焚いて人を立たせ、鐘を鳴らしていればまず近寄りません。それに今は冬眠明けの時期で、体力も落ちているんです。ダイィは村一番の猟師で、ひとりでヒタ熊を仕留めたこともあります」
閉ざされた扉を見つめ、その向こうに消えていったアルマドのことを思った。アルマドなら、たとえ熊でも勝てるはずだ。きっと大丈夫、と夫人を励まし、俺は言われた通り待った。避難終わりました、と外で怒鳴り声があがる。
この家にはガラスが無く、窓は木戸を開け閉めするタイプだ。俺は木戸にそっと近寄って、外を伺った。遠くで赤々と燃えるかがり火が夜の中に浮かんでいるのが見える。そこに伸びた黒く長い影の持ち主が、巨大な黒い影と相対していた。
ギャッと声がして、静けさが戻ってくる。次の瞬間には男たちの喚起が夜を揺らした。
「もう大丈夫みたいですよ、アルマドが……」
夫人を振り返ったとき、彼女は俺を見てはいなかった。家の奥、勝手口の方を向き、立ち尽くしている。その身体は震え、歯の鳴る音さえ聞こえてくる。
彼女の向こう、視線の先に――いた。
成人男性を優に超す高い背丈に、分厚い身体を覆う赤茶色の毛皮は逆立っている。荒い息に生臭いにおいが混じり、長い爪が床を引っかく。大きな口から覗く鋭い牙、したたるよだれに、ぎらぎらと光る二つの目玉。
ばあちゃんに連れていってもらった動物園で見た、そのどれとも違う、本当の熊。檻も、崖もなく、それと俺たちを隔てるものはない。
二頭いたのか⁉
「し、静かに……。大きな声出しちゃだめ、です……。背中を向けないで、俺の方に、後ろ向きに……」
熊に襲われたとか、すべてニュースの向こう側の出来事だった。そのときに聞き流していた知識を総動員しながら、自分を宥めて、つとめてやさしい声で夫人に語り掛けた。
「いや……来ないで……」
彼女はその場に縫い付けられたように動けないでいる。
熊は興奮していて、鼻を鳴らしながら様子を伺っていた。
どうする。どうすればいいんだ。夫人を抱えて逃げるのは、俺の体力的に無理だ。音を出して気を引き付けるのもどう考えても無謀すぎる。どうする、どうする……。
「来ないでッ‼」
逡巡している間に、彼女の鋭い悲鳴が空を割いた。
「オォオッ」
熊はすっくと立ちあがり、大きく右腕を振りかぶった。あんな腕で、あんな爪で殴られたら間違いなく頭が吹き飛ぶ。
俺は駆け出して彼女の腰に縋りつき、思いきり後ろに引っ張った。風が顔面をかすめ、どたっと床に倒れ込む。
温かい液体が服を濡らし、俺は夫人の引き裂かれた胸を目の当たりにした。白い肉と、骨のようなものがさらけ出されている。
「あっ、あああ……!」
頭が、真っ白になる。
「おい、どうした⁉ って、嘘だろ……!」
ドアを押し開けた男が惨状を見て弓を構える。そのまま放つと、白い光のような矢が熊めがけて飛んだ。が。
「ガッ」
熊が吠えた。それだけだった。それだけなのに、まっすぐ飛んだ矢が毛皮に到達することもなく弾かれた。攻撃されて怒り狂った雄叫びが家を揺らす。その逆立った毛の一本一本が意思を持つように動き、先端が赤く発光した。
「こいつ、ただの熊じゃねえ……魔獣だ‼」
男が叫ぶや否や、その身体が宙を飛んだ。熊が突進したのだ。外に放り出された男が呻く。俺はどんどん冷たくなっていく夫人の身体を抱えて、血を止めようと傷口を押さえた。そんなものが欠片も役に立たないことは分かっていた。
生暖かい風が頬をなぜる。血と、腐った肉と、これは硫黄だろうか、それらがまじりあったひどい匂いがする。
魔獣の巨大な口が、顔のすぐ横にあった。
いろいろな感情が込み上げた。恐怖、怒り、後悔。それらがないまぜになった叫びが俺の口から飛び出した。
「アルマド‼」
黒い影がまるで稲妻のように走った。
野太い声が叫び、魔獣の巨体が吹き飛ぶ。
俺の前には、うつくしく輝く黒い甲冑がある。
「すぐに済ませる」
アルマドはただそう言った。その手を空に掲げれば、黒い靄が溢れて、ひとつの槍になった。すべての光を吸収してしまいそうなほどの黒い槍は鋭い。
魔獣は狩りを邪魔されて怒り狂っている。頭を激しく振りながら、この世の恨みをすべて吐きつくすような咆哮を上げ、アルマドに向かって地を蹴った。
アルマドはしなやかに腕を突き出した。槍の切っ先が、魔獣の左胸を貫いた。
魔獣の口から血が溢れ、泡の潰れるような音が喉奥から漏れた。突き出していた腕がだらりと垂れ、アルマドが槍を振るとその身体が床にたたきつけられる。そこにもはや命はなく、ただの亡骸が力なく横たわるばかりだった。毛の発光も弱まり、やがて消えた。
「リマ‼」
村長が駆け込んでくる。妻の元に跪き、その頬に手を当てた。
俺にしなだれかかる身体は冷たい。浅かった呼吸も、今にも消えてしまいそうな。
あんなに楽しそうに笑っていたのに。あんなに、親切にしてくれたのに。俺が、俺が迷っていたから、この人は死ぬのか。俺がもっとはやく助けていれば。
俺が。
「婿殿ッ」
視界もすべてが白に覆われた。まばゆい光の中で、俺の身体から力が急速に抜けて、代わりに夫人の傷がみるみる塞がっていった。呼吸が穏やかになり、頬は血の色を取り戻す。
弾けるように光が消えた。
「あな……た?」
震える声が、夫を呼んだ。
「リマッ⁉ リマ……どうして傷が……助かったのか……。よかった、本当に……よかった……」
村長の目から涙がこぼれ、妻の頬に滴る。俺はその光景を見ながら、心からほっとしていた。ああ、よ
かった。何が起こったのかわからなかったけど、夫人が助かって、よかった。
身体が重たくて、俺はそのまま後ろに倒れ込んだ。誰かが心配して駆け寄ってくる。顔を覗き込む黒い兜が誰かなんてすぐに分かった。指一本動かせないけど、とてもいい気分で、俺は目を閉じてしまった。