第二話
がたん、と世界が揺れて俺は目を覚ました。日差しは遮られ、灰色の布天井が視界いっぱいに広がる。鼻孔をくすぐるにおいはハーブのそれによく似ていて、視線を向けると乾いた草花が壁と呼べる部分に所狭しと吊り下げられていた。自分がほろで覆われた馬車の中にいるのだと気づくまでにしばらくかかった。
「大丈夫?」
自分を覗き込む丸いふたつの目に、息を呑む。彼女の首に揺れる首飾りの銀色がちかりと光って、ああ、あの女の子だと理解した。
「だいじょうぶ……」
そう答えると、彼女は安堵したように笑って、御者のいる前方に「お兄ちゃん起きたよ!」と声を張った。馬車の揺れが止まる。
前方の布をまくり上げて、ひとりの老人が顔を出した。心底安堵したような表情で俺を見ている。襲われていた御者だ。顔色も悪くないし、無事で済んだのだろう。はたとして、女の子の方へと視線を向ける。彼女は、積み上げられた木箱を背もたれにして、足を前へ投げ出すように座っていた。足はどちらもまっすぐに伸びていて、青痣ひとつない。
「君は、大丈夫……?」
そう尋ねると、彼女は明るい笑顔を浮かべた。あのとき、確かに酷い折れ方をしていたのに。
「わしもこの子も気を失っていて、起きたら孫の足がすっかり治っていたんです」
老人が言い、荷台へと移ってきた。
起き上がろうとすると、頭がぐらりとして再び倒れてしまった。敷かれていた毛布から埃が宙に舞う。
「婿殿」
鼓膜を揺らした低い声にぎくりとする。後方から荷台を覗いている黒い甲冑が、日の光に輪郭を浮かび上がらせていた。
「大事ないか」
アルマドの表情は伺い知れない。俺は小さく頷いて答えた。
「頭を打ってらっしゃるので、しばらく安静にされた方がよいでしょう」
老人の柔らかくしわがれた声が言う。後頭部に触れてみると、大きなこぶとかさぶたとができていた。
「先ほどは危ないところを本当にありがとうございました」
老人が深々と頭を下げる。短く刈り込んだ白髪が眩しく、程よく日に焼けた肌は健康そうな張りがあった。節くれだった手をしている。
「わしはトーゴと申します。この先の村に住んでおりまして……。これは孫のフィオです」
女の子が小さく会釈をする。
「山向こうの町に買い付けに行った帰りで。もうだめかと思いました」
「トーゴさんは、お怪我は……?」
尋ねると、彼は微笑んで首を横に振った。
「わしは身体が頑丈なだけが取り柄ですから。……ドアテラにはどうしようもございませんでしたが……」
「ドアテラ?」
「盗賊団ですよ。この間までは西の方で暴れていて、領主様方がギルドに退治を依頼したとか聞きましたが、こんなところにまで来るとは」
盗賊団。
耳なじみのない言葉に、俺は曖昧に頷くことしかできなかった。
「お二人に助けていただかなかったら、二人とも死んでいました」
「俺は何もしていないですよ……。頭殴られてへばっちゃっただけで」
「そんなことないよ。お兄ちゃん、これを取り返そうとしてくれたでしょ?」
フィオがポケットから何かを取り出す。あの首飾りだった。きゅっと握りしめたそれを彼女は胸に寄せ、小さな声で「おかあさんの形見なの」と呟いた。
「そっか……。よかった……」
ちらと視線を向けると、アルマドは黙ったまま、腕を組んでいた。感情が読めない。
「お二人は冒険者の方ですか? またどうしてこんなところに?」
「探し物をしているのだ。それで通りがかったに過ぎない」
アルマドが答えた。俺はそんなことは聞いていないので、とりあえず口を噤んでおくことにした。トーゴは特に疑ったふうでもなく、溜息をついて刈り込んだ頭を撫でた。
「しかし、このあたりも安心できませんなあ……。かつてはハルドラといって、ディアンドラの春なんて呼ばれるほど栄えた都だったそうですが、今じゃ人は出ていくばかりで、盗賊団まで出てきてしまっては……」
「ハルドラ?」
「大昔の地名ですよ」
「トーゴ殿。急かしてすまないが、頭を打っているゆえ、婿殿をはやく医者に診せたいのだが」
トーゴさんはぱっと顔を上げ、「それもそうですね」と御者台に戻っていった。アルマドも引っ込み、程なくして馬車が進み始める。
アルマドは荷台の端に腰かけているらしく、その背中の影が垂らされた布越しに見えた。
俺は布天井を眺めながら、先ほどの老人の言葉を反芻していた。アルマドの言う通り、ここはディアンドラという国なのは確からしい。しかし、ハルドラが大昔の地名というのはどういうことだろう。妻だと名乗る黒騎士は、まるで現在もそうであるようにこの桜の並ぶ一体をハルドラと呼んだ。
それに、冒険者に盗賊団にギルドに領主。耳慣れない言葉が目白押しじゃないか。
くう、と腹が鳴って、そういえば何も食べていなかったことに気づいた。フィオがくすくす笑いながら、箱の中から赤い果物を取り出した。形はプラムのようだが、プラムも何倍も大きい。
「内緒だよ。まあ、おじいちゃんも怒らないと思うけど」
俺はお礼を言ってそれを受け取り、少しだけ身体を起こして一口頬張った。酸っぱさの中にもしっかりとした甘みがあり、歯を立てるほどに薄い皮が割けて果汁が溢れてくる。やさしい味だった。りんごと同じくらいの大きさがあるのに気が付くと食べきってしまい、四センチはありそうな大きな種が手のひらに転がっていた。
「おいしかった。ありがとう」
そう言うと、フィオは微笑んでくれた。
再び寝転ぶ。ことことと小気味のいい馬の蹄の音に、瞼が重くなる。胃の中に確かに果物をおさめたはずなのに、またすぐに胃が動き始めて自分は空腹だと騒ぎそうだった。長いこと、一日一食で間に合ってしまうくらいの小食だったにも関わらず。
まあ、そんなこともあるかと重くなった瞼に負けて俺は目を閉じた。目が覚めたら、ハルドラのことをアルマドに聞いてみよう。