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第一話


 思えば、生まれてこの方良いことなんて何もなかった。父親はどこの誰とも知れず、母親は男を作って出ていき、俺はばあちゃんに育てられた。そのばあちゃんも、俺の高校卒業を待たず五年も前に死んでしまった。


 残ったのは、遺産と何にも持ってない俺だけ。進学もせず、俺は遺産をあてにして引きこもるようになった。家は持ち家だったし、遺産はそこそこあった。厄介な親戚もいない。昼も夜もない生活をし、腹が減ったら買い込んだものをテキトーに食べて、アニメを見たり、テレビを見たりして過ごした。大きな出来事なんて何もないし、それでいい。俺は満足だったのだ。


 目の前が暗くなっていく。頭の上で蛍光灯の白い光がちかちかと点滅する。面倒くさくて替えてなかったんだっけ。頭がぼんやりとして、視界がかすんでくる。天井も木目もわからない。ただ、嗅ぎなれた畳のにおいがやけに鮮明だ。腹のあたりを触ってみる。ぬるりと温かいそれが手を濡らす。ああ、そうか、刺されたんだ、俺。


 いつかは死ぬと思っていた。ばあちゃんは元気に笑っていた翌日、布団の中で冷たくなっていた。俺も病気になってコロッといくのかとなんとなく考えてたけど、刺されるとはこれっぽっちも思ってなかったのだ。まさか、強盗が入ってくるなんて、思わないし。誰かがボソボソとしゃべる声が遠く聞こえる。部屋の外で音がする。部屋でも漁ってんのかな。


 かすんだ視界が揺らぐ。良いことなんて、何もなかった。何もなくていいから、こんな終わり方なんか、したくなかった。


「…………哀れよな」


 低く掠れた声が鼓膜を揺らした。溜息の混ざった声だった。


「死を前にして、己を憐れむことしかできぬとは……」


 声は頭の上から降ってくる。天井が揺らぐ。視界を黒が支配していく。命の終わりが近づいているってことなのか。黒は揺らめいて、まるで生きているようだった。天井も黒に覆われて、ついには何も見えなくなった。


「私と契り、夫となるならばその命の根を繋いでやろう。どうする」


 俺は。俺はまだ。




「死にたくないッ」




 やさしい風が頬を撫でた。風に混じって香るのは花の匂いだ。うすい紅色の花びらがひとつふたつと目の前に落ちる。起き上がってあたりを見回すと、一面が桜の海だった。なだらかな坂道を下ったその先の先まで花が埋め尽くしている。あたたかな日差しが咲き乱れる花の間から差し込む。


「あれ、俺……刺されて」


 そうだ。俺はあの日、ゲームやってて、入ってきた強盗に気づかなくて刺された。それで、意識を無くした。

 おそるおそる腹に触る。服に穴が開いていて、血が大量に流れた形跡はあったけど、すっかり乾いていた。服をめくってみても、刺された痕どころか引っかき傷もない。


 それに、ここはどこだ。


「もしかして、死後の世界……とか……」


「起きたのか?」


「うわぁっ」


 思わず飛びのく。声のした方を振り返ってみる。巨大な桜の根本に誰かが腰かけていた。日差しの温かさとは反対に、そこは暗い影が落ちていて、何者かの輪郭をぼかしている。


「そう驚くこともないだろう? 私とお前の仲じゃないか」


「えっ? いや、誰ッ?」


 それは、溜息をついて首を横に振った。黒い靄のようなものが、それの周囲を漂っている。ゆっくりと立ち上がり、こちらへやってきたそれは、騎士のように見えた。黒騎士だ。


 すらりと背の高い身体を一分の隙もなく包む漆黒の鎧は光を鈍く照り返し、腰に巻いた黒布が風に揺れる。肩にかけた毛皮はまるでそれそのものが意思を持っているかのようにうごめく。


 なんだ? なんなんだ?


「寝ぼけているのか?」


 なんでそんないい声なんだ?


「私はお前に契約を持ち掛け、お前はそれに頷いた。ゆえに私はお前の命を救い、そしてお前は私の夫となったのだ」


 は? 今、なんて言った?


「私はアルマド。お前の妻だ」




「ちょっと待ってください、整理させてほしい……」


「ふむ。整理するほどの事でもないが」


「事ですよ……。その、俺は死にかけてた。で、あなたが助けた」


「そうだ」


「その代償に、あんたの夫になる……という約束をした?」


「そうだ」


 いや、何で。


 そもそもここはどこなのだろう。俺は自宅で死にかけてたし、俺の家は住宅地にあるから桜並木なんて周囲にはない。それに季節は秋だったから、桜は咲いてもいないのだ。


「どうして、アルマド、さんは俺が死にかけてたことを、知ったんですか」


「……眠っていたら、お前の声が聞こえたのだ。朧気な姿のお前が見えて、あまりにも自分を蔑んですすり

泣くから哀れでな。それで助けてやることにした」


「それがどうして夫になることに⁉」


「私はただで人助けをするほどお人好しではない」


 俺たちは桜並木の間に引かれたような土がむき出しの道をゆっくりと歩き続けている。なだらかな下り坂を進みながら、混乱する頭をなんとか整理しようとするのだが、うまくいっているとは言えない。


 そもそも、妻ってなんだ。アルマドは俺より頭五つ分くらいでかいし着てる鎧もゴツい。声も、どう考えも男のそれだ。低く掠れていて、いかにもモテそうな。


「あの、それでここはどこでしょう。俺は家で死にかけてたはずなのですが」


「……ここはハルドラ。ディアンドラの東にあたる」


「ハル……? ディ……?」


「お前のいた国ではないのか?」


「耳にしたこともない国ですね……」


 俺は死にかけて、助けてもらう代わりに夫になって、それで名前も聞いたことのない国に来てしまったのか。そもそもここは俺のいた世界ですらないのでは。異世界転生、というやつなのかもしれない。


 アニメでは散々見たし結構好きだったけど、実際自分が体験してみると死ぬほど恐ろしい。言葉は通じてるから、まだいいけど。


 そもそもこのアルマドのという人、大丈夫なのだろうか。確かに腹の傷は治っているから、助けてもらったというのは間違いではないと思うけど。いや助けてもらったのなら転生というのは間違っているのか。もう訳が分からない。


「おい」


「え?」


「転ぶぞ」


「えっ、おわ!」


 顔を上げた瞬間視界が傾き、目の前に地面が迫った。目をつむったが、衝撃は来なかった。身体が急に宙に浮かび、固いものに抱きすくめられる。


「婿殿は危なっかしいな。まあ、死にかけていたわけだし、無理もないか」


 俺は、この鎧の人に抱きあげられている。


「いやあのすみません! 自分で歩くんで!」


「無理をするな。傷はふさがったようだが、失った血が戻っていないのやもしれぬ。私が運ぼう。妻の務めだ」


「妻の務め……かなあ⁉」


 アルマドは俺を抱え直し、まるで子供を片腕で抱く親のようにして、坂を下り始めた。


「しかし、婿殿。その服は新しくせねばな。街へ降りるか」


「あ、そういえば」


 彼女、と呼んでいいかは分からないが、彼女の言葉に俺は自分の腹を見下ろした。大きな染みが赤黒く変色している。


「でも俺、金持ってねえです」


「案ずるな。どうとでもなる」


 それは、持っている、という答えではないような。


 一面の桜の向こうに、森のようなものが見えた。そしてさらにその先、小さく屋根のようなものが連なっている。あれが街だろうか。小鳥の鳴き声も、木々が枝葉を揺らす音も、もう長らく耳にしていなかった。ずっとイヤホンを耳に突っ込んでいたから。


「きれいなとこっすね……」


 俺の呟きに、アルマドがこちらを見た気がした。兜越しでどこに視線を向けているかよくわからないのだが、それでも、そう思ってしまったのだ。視界さえ覆い隠すような兜できちんと前が見えているか疑問だが、頭部から伸びた二本の飾り角といい、デザインはやたらかっこいい。俺の中の小学生が見たら大喜びしそうだし、今でも少しは喜んでしまう。ゲームのアバターも黒騎士過多だったな、そういえば。


「なあ、アルマドさ、」


 そのとき、確かに聞こえた。悲鳴、だった。


「えっ、何?」


 後ろから聞こえた気がする。アルマドの腕に力が入ったのが分かる。馬のいななき、車輪の音、声、声、声。地面がひどく揺れる。振り返ろうとすると、いきなり風が顔に当たった。瞬間、世界が回転した。


「うええええええ⁉」


 ズンッ、と下から衝撃がきて、俺たちは脇の桜の木の陰に着地した。宙返りでもしたのか、それさえも俺の理解は追い付かず、そこへ黒い大きな塊が目の前に滑り込み、横転した。馬の声が甲高く響く。それは、一台の馬車だった。積んでいた木箱とその中に収められていた野菜や果物、干した草花が宙を舞い、地面に墜落する。


「事故⁉」


 するりと足の裏に地面の感触が戻り、アルマドが俺を地面に下ろしたのが分かった。地面の振動が足裏から伝わる。土埃を舞わせながら更に現れたのは、馬に乗った人間たちだった。肩に着けている鎧といい、腰に差している鉈のように太い剣といい、本当にファンタジーの世界のようないでたちをしている。


 彼らは馬を降り、剣を引き抜くと、カラカラと車輪の回り続ける馬車に近づいた。

 か細く弱弱しい声が聞こえて、目を向けると馬車から投げ出された御者らしい老人が地面に倒れ伏していた。男のうちのひとりが近づいて、あろうことかその背中を蹴り飛ばす。


「ううっ……」


 俺は息を呑んだ。どう考えても、助けようとする人間のふるまいではなかった。


「なんで……?」


 思わず零れた呟きに、隣のアルマドが答える。静かな声で。


「武装にしては鎧が古びている上に中途半端、革靴もずいぶん履き込んでいる。上等な身なりではない。しかし、持っている剣は新品だ。まあ、護衛任務についた雇われの傭兵かもしれぬが、あの剣の紋章は山向こうの自警団のもの。だが、自警団は装いを統一するし、自らの管轄より外には出ない。追剥であろうな」


「おいはぎ……?」


 耳慣れない言葉に俺は隣の騎士然とした自称妻を見上げたが、アルマドは視線を前に向けたままだった。その間にも、男たちが荷台から零れた荷物をかき集めている。御者を蹴り飛ばした、特に大柄な男が仲間に合図すると、仲間のひとりが横倒しになった荷台から何かを引きずり出した。


 女の子だった。まだ、十歳くらいの。


 彼女の足は不自然な方向に曲がり、顔色は真っ青で震えながら涙を流している。おじいちゃん、と蚊の鳴くような声が祖父を呼ぶ。あの御者だろうか。


 女の子を引きずり出した男は、彼女の怪我を気にする風でもなく、彼女が首から下げていた首飾りを毟り取った。


「フィオ……!」


 御者が身動きの取れない身体で、それでも少女に手を伸ばす。


「お願いです、荷物は好きにしてくださって構いません、ですので孫だけは……!」


「うるせえな、死にぞこないが。お前のお願いを聞いてやる義理なんざねえよ」


 大柄な男は頭だろうか、他の奴らよりも武装している。両肩の鈍色の鎧も、手にしている剣も、他のものよりも上等そうに見える。いかつい顔に、体つきもがっしりとして、その目は残忍な光をたたえてぎらぎらと光る。


「アルマド……助けないと……」


 俺は縋るように隣の鎧をまとったアルマドを見上げた。


「何故?」


「……え?」


 俺は一瞬理解できずに、間抜けな声を漏らした。アルマドは俺を見下ろしながら心底分からないというように、ゆっくりと首を傾げる。


「何故、何の関わりもないあの者らを助けねばならないのだ?」


「だって、このままじゃあ、あの人たち殺されちゃうじゃないですか……アルマドは、俺だって助けてくれたんだろ……?」


「婿殿、何を勘違いしているかは知らぬが……先ほども言っただろう。私はお人好しではないと」


「そんな」


 俺は首を横に振る。こんな場面にそぐわないほど、あたりは春のあたたかな日差しが溢れ、地面に散った血や土埃の存在を嫌というほど協調する。


「あのおじいさんだって、女の子だって何も悪いことしていないのに」


「婿殿はあのふたりの何を知っているというのだ。たかがの一時の良心のために、それが正しいかもわからずに介入すべきではない」


 子供が泣いている。返してと伸ばした手を、男が乱暴に払い、小さな女の子の身体を地面に投げ出した。ふと、脳裏に幼いころの思い出が蘇った。小学生のとき、大事にしていたキーホルダーか何かを同級生に取り上げられて、返してといっても笑われるばかりだった。あれは、祖母が、俺に買ってくれたもので。父母がいないことをからかわれて泣いていた俺に、元気になりますようにと願いをかけてくれたもので。


「正しいって、なんだよ。どう考えたって、あいつら悪いやつだろ。子供泣かせて、おじいさん踏みつけにしてモノを取り上げて……何が正しいっていうんだよ」


 アルマドは答えなかった。


 ばあちゃんは、とられちゃったと泣いた俺を責めなかったけど、やさしく抱きしめてくれたけど、俺はずっとそれを後悔していた。


「もういい。俺が行く。俺が助ける」


「婿殿、何を言って……」


「俺は、俺が正しいと思うことをする!」


 俺を引き留めようと伸ばしたアルマドの手を振り払い、俺は木の陰から飛び出した。もし、俺が異世界転移していたとしたら、よくあるアニメや漫画みたいに何か特殊な力を持っているかもしれない。うまく使えれば、何とかなるかもしれない。


 すぐに、男のひとりが俺に気づいて剣を振りかぶった。何か叫んでいるが、耳に届かない。風を切る音だけが聞こえる。


 女の子を投げた男に飛び掛かってしがみつく。血と土埃のにおいに頭がくらくらする。


「返せよっ!」


「はあ⁉ なんだお前ッ! 死にてえのか!」


「返せ!」


 何か力があるなら今すぐ出てきてくれ。そう祈り、どうしたらいいかもわからず、やみくもに腕や足を突き出してみるが、拳は鎧に掠れて痛みを生み、足は空を蹴っただけだった。


「死にたがりのお人好しっていうのは、どこにでもいるもんだな」


 後ろから声がして、振り返ろうとした俺の目の前に星が散った。頭を殴られたのだと気づくのに数秒かかった。足がぐらりと傾いて、地面に倒れ込んでしまう。同じく倒れている女の子と目が合って、涙でぬれたその目が、ひどく情けない顔をした俺を映していた。


「どこの誰だか知らねえが、じゃあな」


 春の日差しに、銀色がきらめく。俺は拳を握りながら、女の子に、力なく笑いかけた。


 響いたのは、何かの潰れる鈍い音と、男の悲鳴だった。


 龍の鱗を思わせる精密な細工が施された漆黒の鎧が日を遮り、その輪郭を輝かせる。風に揺れるのでは

なく、まるで意思を持つようにうごめく毛皮は逆立ち、覆い隠されているはずの兜の下から投げかけられる、燃えるような眼光に周囲が張りつめる。指の先まで覆うその鎧の鋭い爪が男の喉に食い込み、殆ど握りつぶしてしまっている。呼吸もない、ただの肉の塊になった男だったものが力なく垂らした腕から剣が滑り落ちた。


 その音がやけに高く大きく響き渡る。


「なんだ……こいつ……」


 男たちのひとりから漏れた小さな呟きは、恐怖に揺れていた。


「私の、夫に、触れるな」


 まるで地を這うような低い声は、どこまでも冷徹で、先ほどまでの会話で耳にしたアルマドの声のどれとも違っていた。


「おいッ、怖気づくな!」


 大柄な男が声を張り上げる。仲間に植え付けられた恐怖を払拭しようとしたのだろうが、彼らの手は震え、足は竦み、大した効果はない。


「頭ァ……こいつはだめだ……」


 おずおずと後ずさりを始めたひとりはほとんど泣いていた。それにつられるように、一人、また一人と後ろに下がる。


「腰抜けどもがッ! それでもドアテラかッ!」


 頭と呼ばれた大柄は男は雄たけびを上げると、手にした重たげな剣を振り上げて駆け出した。その先には、アルマドがいる。アルマドはその手を開いて、亡骸を地面に落とすと、そのまま指先をつう、と上になぞらせた。


 それだけだった。


「あああああああああッ‼」


 いうならば、それは影だった。地面のいたるところから生み出された影の槍が大柄な男の身体を貫いている。腕を、太ももを、脇腹を容赦なく刺し貫くその鋭利さは、針のようでもある。もし、地獄に針の山があるとして、そこに真っ逆さまに落ちたなら、こんな風になってしまうのではないだろうか。


 男の悲鳴を皮切りに、他の賊は背を向けて逃げ出した。誰も、奪い取った荷物を持っていこうとはしなかった。助かったと思った。それでも。


「逃がすと思うのか?」


 アルマドの凍てついた声がして、次の瞬間には一面が、影の槍の原になった。


 視界がかすむ。頭からぬるいそれが流れ出して、地面に広がっていく。女の子がすすり泣いている。俺は何とかその子を安心させたくて、微笑み続けた。目の前が真っ暗になる、そのときまで。



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