HEART OF SWEET ~夜明け前~
「――うん。まあ完璧じゃあないけど……取り敢えずは、こんなものかしら」
シュウの書き上げた練習問題の解答をチェックした諏訪先輩が、小さな溜息を吐きつつ頷いた。
「よ……っしゃぁ……!」
その言葉を聞いたシュウが、弱々しくガッツポーズをしたと思ったら、その格好のまま、ローテーブルに突っ伏した。
「お――おい、シュウ! 大丈夫か――?」
「…………Zzzz……」
俺が声をかけるが、既にシュウは夢の世界へと旅立った後だった。
「無理もないわ。ずっと起きて、苦手な数学の勉強をしてたんですもの。7時くらいまで、寝かせといてあげましょう」
「まあ……そうですね」
苦笑を浮かべながらの諏訪先輩の言葉に、俺も肩を竦めながら頷き、窓の方に目を遣った。
カーテン越しにも、空がうっすらと白み始めてきた事が分かる。
「……もう、6時か……」
次いで、目覚まし時計に目を移し、その短針が6を指している事を確認した俺は、生あくびを噛み殺しながら、独り言のように呟いた。
「そうね……」
キーボードを打ち込みながら、諏訪先輩もコクンと頷いた。
「ふぅ……」
そして、先輩は小さく息を吐くと、キーボードに走らせていた指を止め、タブレットの画面へと伸ばした。
親指を画面の右端で滑らせながら、真剣な目で表示された文字を追う。
そして、小さく首を振ると、再びキーボードを叩いて、入力し直す。
そんな動作を何度か繰り返した後、最後に一度、親指で上から下まで画面をスクロールさせ、――今度は大きく頷いた。
「……出来た」
先輩はそう呟くと、自分の方に向けていたタブレットを俺の方に向けて、淡々とした口調で言った。
「……はい。高坂くん、最終チェックお願いします」
「あ……はい!」
先輩の言葉に、俺は緊張で顔を強張らせながら大きく頷いた。
「拝見します……」
俺は、先輩からタブレットを受け取ると、ゴクリと唾を飲み込んでから、画面に目を落とした。
“のべらぶ”の『執筆中小説プレビュー』ウィンドウをゆっくりとスクロールさせながら、一字一句見落としが無い様、慎重に読み進めていく。
――そして、文末に記された
『Sラン勇者と幼子魔王 ――完』
の文字を確認した俺は、心臓がトクンと跳ねるのを感じた。
そう――これを以て、『Sラン勇者と幼子魔王』は完結を迎えたのだ。
それは即ち、沢山の人気作やファンを持ちながらも、そのエタ癖の為に、しばしば“読泣ソラ”と揶揄され、嘲笑されていた“星鳴ソラ”が、その汚名を返上するという事を意味する――!
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じながら、
「……はい。オッケーです」
と声を出そうとしたが、何故か喉が塞がった感じがして、声がかすれてしまった。
……徹夜したから、風邪をひきかけてるのかな……?
そう思った俺は、マグカップのブラックコーヒーを一口啜って、喉を潤す。
――苦い。
やっぱり、ブラックコーヒーは慣れないなぁ。……苦すぎて、タブレットの画面がひどく歪んで見える。
「……高坂くん、泣いてるの?」
「へ……? え……?」
驚きの籠もった諏訪先輩の声に、俺は驚いて顔を上げた。
そして、目を丸くしながらブンブンと首を横に振る。
「い……いや! そんな……別に泣いてなんか――」
「……ほら」
否定する俺の頬に、諏訪先輩が指を伸ばした。柔らかい指の感触を俺の頬が感知し、俺は思わず声を上ずらせる。
「へ――? ちょ、ちょっと……先ぱ――」
「じゃあ、これは何かしら?」
「……あ」
優しく俺の頬を拭った諏訪先輩の指には、大きな雫が載っていた。
それを見た俺は目を丸くして、恐る恐る掌で自分の頬を拭う。
――俺の掌は、自分でもドン引くくらい、グッショリと濡れていた。
俺は慌てて、袖を目元に押しつけて拭うが、目から溢れる涙は一向に止まらない……。
「あ……あれ? おかしいな……? 何で、俺泣いてるんだ? くそっ……男なのに……クソダセえ――」
「ううん……全然ダサくなんかないわよ、高坂くん……」
「――え……?」
俺は、諏訪先輩の声に、ハッとして顔を上げた。
そして、諏訪先輩の顔が、思ったよりもずっと近いところにある事に驚き、戸惑いの声を上げる。
「せ、せん――ぱい……?」
「今、高坂くんが流している涙……ダサくもおかしくもないわよ……」
「え……」
その時、俺は気が付いた。俺と同じ様に、諏訪先輩もまた、眼鏡の奥の瞳を潤ませている事に――。
彼女は、僅かに声を震わせながら、静かに言葉を紡ぐ。
「これは……高坂くんが、それだけこの作品を愛してくれて、その完結に力を尽くしてくれた事の何よりの証……。全然、恥ずかしがるものじゃないわ」
「……」
戸惑い混乱する俺に、諏訪先輩が柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、高坂くん。あなたがいなかったら……あなたが私と一緒に頑張ってくれてなければ、私は絶対にこの物語を完結できなかった……。本当に……ありが――」
先輩の言葉は途中で途切れた。そして、言葉の代わりに、その瞳から玉のような涙が、幾筋も流れ落ちる。
「わ! あ……あの、せ、先輩? そ、その……だ、大丈夫ですか……?」
「――ッ!」
「ふ、ふえッ?」
俺は驚いて、思わず頭のてっぺんから出たような、素っ頓狂な叫び声を上げた。
――止めどなく溢れる涙を拭いもせぬまま、諏訪先輩が俺に――抱きついてきたからだ。
俺の皮膚が、筋肉が、骨が、……そして心が、諏訪先輩の温もりと、何とも言えない柔らかさを知覚した時、――俺の身体は、石像のように固まってしまった。
胸の辺りから、いつもよりテンポもボリュームも数倍増した心臓の拍動が、ドックンドックンと聴こえてくる。
……この鼓動は俺の心臓のものなのか? それとも、衣服越しに密着している諏訪先輩の胸の奥から聴こえてきているものなのか? ……それとも、その両方か――?
「あ……あ……あの! す、す、諏訪先プヮイ……?」
真っ白な蒸気が噴き出すかと思うほどの熱を顔面に感じながら、俺は諏訪先輩に声をかけようとするが、舌と肺と声帯が、毒でも食らったかのように全く機能せず、その声は不様に裏返った。
――つうか、先輩の髪、いい匂いだなぁ……。
ハッ! い、イカンイカンイカンイカン! な……何を考えてるんだ高坂晄!
相手は、部活やそれ以外の何やかんやで、色々とお世話になっている諏訪先輩だぞ! な…なのに、そ、そんな不埒な事を考えては――!
俺は、自分の心の大平原が、燃え盛る煩悩の野火でみるみる焼き払われつつある事に気が付いて、慌てて声を張り上げた。
「せ、先輩! と、と、取り敢えず冷静になりましょう! はい、落ち着いて深呼吸して! すー、はー、すー、はー! ハイッ!」
「――すー……Zzz……」
「そう! すー、Zzz、すー、Zzz…………って、アレ?」
俺は、必死で声を上げながら、違和感を感じて首を傾げた。
恐る恐る、顔を横に向けて、おずおずと諏訪先輩の顔を覗き込む。
――諏訪先輩は、俺の肩に頬を押しつけて、健やかな寝息を立てていた。
「……って、寝てるんかーい……!」
俺は、思わず小声でツッコみ――そして、苦笑いした。
――無理もない。先輩は徹夜で、シュウの勉強の指導と小説の執筆をしていたのだ。一段落ついて、緊張の糸が途切れたのだろう。
本当に、頑張ってた――。
「……」
俺は、また涙腺が緩みそうになって、慌てて口を食いしばる。そして、恐る恐る手を伸ばして、先輩の髪をそっと撫でてみた。
「……むにゃ……」
心なしか、先輩の顔が微笑んだように見えた。
それを見た俺もまた表情を緩め、そして、静かに寝息を立てるその耳元で、静かに囁いた――。
「……お疲れ様です、諏訪先輩。ゆっくり休んで下さい……」




